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仮面卿外伝【第二章 太陽が沈んだその後に】
第六話 思い描いた未来は
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森の中に建てられた例の丸太小屋までオーギュストがとって返すと、フルールはまだ起きていた。夜明けも近いというのに、寝ずに待っていたようである。
「お帰りなさい!」
顔を輝かせ、腰掛けていた椅子からフルールが立ち上がる。フルールの喜びようは、オーギュストに抱きつきそうな勢いだったが、背後から現れた二人の女を目にして彼女は訝った。
「そちらは? あ!」
ブリュンヒルデを見て、オーギュストの妻だった女性だとフルールは気が付き、仰天した。碧い瞳が印象的な美しき王太子妃である。
緩くウェーブする金の髪はまさに黄金色。微笑む姿はまるで聖母のようだと称えられた。二人が並んで立つ絵姿も人気で、やはり彼女の顔は多くの者が知っている。
「ど、どういうこと?」
狼狽えるフルールに、オーギュストが説明した。
「彼女をヴィスタニア帝国へ帰す。しばらくの間、ここでかくまって欲しい。頼めるか? これは、礼金だ」
オーギュストが金貨の入ったずっしりと重い袋を渡せば、戸惑いながらもフルールはそれを受け取った。
「そ、それは……ええ、殿下の頼みとあらば……」
しぶしぶといった感じでフルールは引き受けるも、フルールはブリュンヒルデの大きなお腹を見て、何ともいえない気持ちになる。浮気女、そんな思いがフルールの胸の内をかすめたからだ。王都ではハインリヒ陛下の子を身ごもった悪女だとの噂が蔓延してる。
「あの、申し訳ありません。出来れば、そろそろブリュンヒルデ様の寝床を整えて差し上げたいのですが……」
アンバーがそろりと申し出る。妊婦であるブリュンヒルデの体調を気遣ったのだろう。三人とも一睡もしていない。
「隣の小屋を使っても?」
「え? ええ、それはもちろん。殿下の為の場所、ですから……」
オーギュストが許可を求めれば、フルールが頷いた。隣の小屋はフルールの両親が使っていた小屋である。父親は病死し、母親は男を作って出て行ってしまったので、必要なくなってしまったのだ。そこを掃除し、今までオーギュストの寝所としてあてがっていたのである。
自分の妻だった女を連れ、侍女のアンバーと共に隣の小屋へと移動したオーギュストの背を、フルールは複雑な思いで見送った。
殿下だけでよかったのに……
そんな呟きがフルールから漏れた。
◇◇◇
翌日からオーギュストは顔を隠し、頻繁に王都の街中に出かけるようになった。フルールが買い物なら自分が代わると言っても、オーギュストはそれを断った。情報収集をしたいのだそう。
「情報収集?」
「行商人からある程度の情報が手に入る。ヴィスタニアの状況を知りたい」
そう、オーギュストは不思議だった。自分が処刑されてひと月も経つのに、何故ギデオンが動かないのか……。処刑は大々的に行われた。政権交代の知らせは既に、ヴィスタニア帝国にも届いているはず。自分の死を知ったなら、妹を溺愛しているあいつのことだ。ギデオンなら絶対、自分の目でブリュンヒルデの様子を確かめに来るだろう。
なのに何故、動かない?
皇帝に宛てたブリュンヒルデの手紙は、ヴィスタニアへ向かう予定の行商人に託し、オーギュスト自身は口元を布で覆い、連日のように丸太小屋を後にした。そして、帰りにはブリュンヒルデのための日用品を購入し、帰途につくといった具合である。
オーギュストが持ち帰る子供のための品々は、日に日に増えていった。ブリュンヒルデはというと、暖炉の前の揺り椅子に腰掛け、可愛らしい赤ん坊用の靴下を編み上げていく。まさに幸せの象徴のような光景で、画家であれば創作意欲をかき立てられたに違いない。美しい、きっとそう口にした事だろう。
「ただいま、ヒルデ」
「おかえりなさい」
戸口に現れた人影に、ブリュンヒルデが口元をほころばせた。もちろんその人影はオーギュストである。彼が口元を覆っていた布を取れば、ため息の漏れそうな美貌が現れる。
「体調はどうだ?」
「ええ、今日はとてもいいわ」
オーギュストのキスを受け、ブリュンヒルデが微笑む。情報収集から帰ると、彼はいつも真っ先に彼女の様子を確認する。
アンバーもまた嬉しくて仕方がない。仲睦まじい二人の姿に癒される思いだった。オーギュストが処刑されるまでの数ヶ月間が酷すぎた、ともいえるが。
「ブリュンヒルデ様、オーギュスト殿下、お茶が入りましたよ。どうぞ」
アンバーがテーブルに用意した茶器を指し示す。オーギュストが笑って礼を口にした。
「ああ、ありがとう」
お腹の大きくなったブリュンヒルデの手を取り、彼女を揺り椅子から、テーブルまでゆっくり移動させ、オーギュストもまたテーブルについた。アンバーが用意した茶と菓子を、二人で談笑しつつ口にする。何とも平和な光景だ。アンバーはやっぱりほっとしてしまう。
「ブリュンヒルデ様が元気になって下さって嬉しいです」
お茶のお代わりを注ぎつつ、アンバーがそう言うと、ブリュンヒルデが笑った。
「あら、ありがとう」
「んふふー、オーギュスト殿下の効果は本当に凄いですね。リンドルンの王城にいた時は、ブリュンヒルデ様がどんどん痩せていってしまって、本当に心配しました。ブリュンヒルデ様への風当たりが酷かったせいもあるでしょうが……。お腹の子も順調ですね?」
ブリュンヒルデの大きくなったお腹に目を向ける。既に八ヶ月目だ。出産も近い。オーギュストもまたその光景に目を細めた。
「名前は……男の子だったらセオドアはどうだろう?」
「ふふ、神の贈り物ね? 女の子だったらローザはいかが?」
「ローザ……バラの茂みのように美しい女性か、いいね」
そんな二人の会話が微笑ましい。
ずっとずっとこんな光景が続けばいいのに……アンバーはそう思うも、どうしても一緒に暮らしているフルールという少女の眼差しに不穏を感じてしまう。特に何かするというわけではないのだけれど……。不満そうなのだ。彼女の祖母であるリズと弟のダニーは歓迎してくれたが、彼女はどうも違うようである。
一体何が不満なのか……
アンバーは不審に思う。渡した金貨じゃ足りない? 十分過ぎる額だと思う。平民ならばあれでひと家族、十年は楽に暮らせるのだから。まぁ、謀反人を庇ったリスクを考えると、安いのかも知れないけれど……
どうしても悶々としてしまう。
「あのあの! リンゴをどうぞ!」
「ありがとう」
わざわざオーギュストにリンゴを差し入れに来たフルールを見て、彼には愛想がいいとアンバーは気が付いた。
不満そうなのはブリュンヒルデ様に対してだけ?
アンバーにはその理由が即座には思いつかなかった。そもそもヴィスタニア帝国では精霊に愛された姫として、ブリュンヒルデは人気が高かったのだ。温かく気さくな彼女の性格と相まって、ブリュンヒルデは誰からも好かれた。
悪く言う場合は……あ……
アンバーに思い当たる節がないわけでもなかった。妬み、である。
皇女として恵まれた生まれの彼女を妬む者もいる。それが顕著になったのは、オーギュストと婚約を結んだ直後、だろうか。各国の姫が彼女に向かって嫌みを言うことがあった。もちろんヴィスタニア帝国皇女に面と向かってぶつかる者は、本当にごく僅かだったが。その時の態度と似ているような気がして、アンバーは心配になった。
「あのう、オーギュスト殿下……」
告げ口なんて気が進まなかったけれど、どうしても心配で、アンバーは薪割りをしているオーギュストにそっと近寄った。
「どうした?」
「フルールは、その、もしかして……殿下に好意を抱いていますか?」
「かもしれない」
オーギュストが肯定する。薪割りをする手は止まらない。薪割りをする音はリズミカルだ。
気付いていらした?
アンバーがおずおずと言い添える。
「彼女はブリュンヒルデ様の事を……」
「……良くは思っていないようだな?」
やっぱり気が付いていたようである。オーギュストの美麗な顔が曇った。
「他の住処を、そう考えても他に行くところがない。ヒルデは身重で引っ張り回すわけにもいかないし、ヴィスタニアから迎えが来るまで、ここで辛抱するしかない。王城よりはましだ」
それは確かにと、アンバーも思う。
ハインリヒ陛下はブリュンヒルデ様に執着していて、あのままあそこにいれば、何をされたかわかったものではない。だからこそ、殿下に助けを求めたのだし……。その上、王城はハインリヒ陛下主導によるブリュンヒルデ様に対する誹謗中傷が蔓延していた。
その点、ここでは祖母のリズも弟のダニーも親切だ。何かと気遣ってくれる。唯一の問題はあのフルールという少女だけ……
それも殿下が防波堤となって下さっているから、実質的な被害はない。ブリュンヒルデ様もよく笑うようになったし、食欲も戻っている。そうだ、悪くない。少女一人の不満くらいどうだというのだろう。こんな状況では贅沢など言っていられない。
「すまない」
突然オーギュストに謝られて、アンバーはびっくりしてしまった。
「で、殿下?」
「自分でも不甲斐ないと思うが、これが限度なんだ。王太子だった頃の自分とは雲泥の差だな?」
「と、とんでもございません!」
むしろ、凄いと何度思ったか。こんな状況下で活路を切り開く殿下の能力は、驚異的だと思う。自分だったら絶対に真似出来ない。
「ヒルデを無事にヴィスタニアに送り届ける。何としても。どうかそれまで、彼女を支えてやって欲しい」
「は、はい! お任せ下さい!」
アンバーは力強くそう請け負った。
◇◇◇
「ヴィスタニアではプロトワ王国との小競り合いが勃発している」
ある時オーギュストがそんな情報を持って帰った。
「ギデオンは沈静化の為に軍を率いて国境まで向かったらしい」
ブリュンヒルデが言う。
「なら、ギデオンお兄様は、オーギュが処刑された事をまだ知らない?」
「ああ、多分な。それと、皇帝は今、病に伏せっている。実質今国を動かしているのは皇后と宰相のアルノーだ」
「父が病気……」
「ヨルグの件だが、もしかしたら彼は君をリンドルンの王妃にしたいのかもしれない。だから国へ連れ帰らない」
ブリュンヒルデが思い出したように言った。
「……ええ、ヨルグお兄様は確かにそんな事を言っていましたわ。でも、皇帝である父も兄のギデオンもわたくしの意志を尊重します。無理矢理嫁がせるような真似は……」
「ああ、そうだろうな。なにせギデオンは、妹の幸せが絶対条件だと言い切って、私との結婚でももめたくらいだ。事実を歪めて報告している可能性がある。君を王妃にしたいあまりに、君が帰りたくないと主張しているとか……」
「そんな」
「酷いですわ!」
アンバーが憤然と言う。
「ヒルデ、今一度手紙を書いて欲しい。皇帝宛てに」
ブリュンヒルデがオーギュストを見上げる。
「父に……何と書きますか?」
「前と同じでいいだろう。国へ帰りたいと、そう書けばいい」
「でも、行商人に手紙を託しましたわ」
オーギュストが難しい顔をする。
「三週間待った。ここまで何の動きも見えないと言うことは、手紙が届いていない可能性が高い。礼金を着服したのか、それとも道中、何らかの災難にあったのかは分からないが……だからもう一度、手紙を書くんだ。君の意志を知れば、皇帝は必ず動く。ヴィスタニアから皇帝の迎えが来た時点で、君をリンドルンの王城へ連れて行こう」
「手紙はまた行商人に頼みますの?」
「……いや、今回は私が行く」
また、届かなかったらかなわないと、オーギュストが口にする。
「で、でも! 今動き回って、見付かったら大変な事に!」
オーギュストはブリュンヒルデの言葉を遮った。
「確実に手紙を届けたい。大丈夫だ、気を付ける。信頼できる騎士でもいれば良かったが……」
オーギュストはそっとため息をつく。
まさか手紙一つ届けるのが、こんなに困難だとはな……
そう思わざるを得ない。今更ながらに、部下のありがたみが身にしみる。王太子だった自分には優秀な部下が揃っていた。自分が思い描く計画を、彼らが代わって実現してくれたのだ。だが、今のように四面楚歌の状況ではそれもままならない。結局は自分で動くしかないのだ。
「それまでアンバーとここで待っていて欲しい。出来るか?」
オーギュストにそう諭され、ブリュンヒルデは渋々了承した。紙と羽根ペンを受け取り、助けを求める手紙をしたため始める。
「オーギュ……」
「ん?」
「あなたとヴィスタニアの宮殿で暮らしたいわ」
ブリュンヒルデの希望に、オーギュストが苦笑する。
「……処刑された筈の謀反人だぞ?」
「父を説得します!」
ブリュンヒルデが言い切った。
「謀反人と言っても、オーギュスト・ルルーシュ・リンドルンは既に処刑され、もう幽霊のようなものではありませんか。なら、その身をヴィスタニア帝国に預けてください。新しい戸籍を得て、新しい人生をそこで始めるのです。どうしても父があなたを受け入れないというのなら、皇女としての身分を捨て、わたくしもあなたについて行きます。ええ、誰がなんと言おうと邪魔はさせません。共に平民となって市井で暮らしましょう」
「それ、は……」
「ヴィスタニア帝国へ帰れば、何不自由のない生活が待っているでしょう。けれど、そこにあなたがいないのなら、どれほど悲しく苦しいか……。わたくしはあなたと生きたい。生まれてくる子をあなたに抱いてもらいたい。あなたが父親だと誇りたい。ですから、どうか三人の未来を考えてください。お腹の子のためにも……」
「そうだな……」
オーギュストが身をかがめ、そっとブリュンヒルデの唇にキスを落とす。
「あ……」
「どうした?」
「動いたわ。ふふ、きっとパパがいるって分かったのね」
オーギュストが跪いて、ブリュンヒルデの腹に耳を当てる。
「男の子かしらね? 女の子かしらね?」
「元気な子であればどちらでも」
オーギュストが目を瞑り、微笑んだ。その顔はとても穏やかである。三人で暮らす幸福な未来を思い描いているのかも知れなかった。
「お帰りなさい!」
顔を輝かせ、腰掛けていた椅子からフルールが立ち上がる。フルールの喜びようは、オーギュストに抱きつきそうな勢いだったが、背後から現れた二人の女を目にして彼女は訝った。
「そちらは? あ!」
ブリュンヒルデを見て、オーギュストの妻だった女性だとフルールは気が付き、仰天した。碧い瞳が印象的な美しき王太子妃である。
緩くウェーブする金の髪はまさに黄金色。微笑む姿はまるで聖母のようだと称えられた。二人が並んで立つ絵姿も人気で、やはり彼女の顔は多くの者が知っている。
「ど、どういうこと?」
狼狽えるフルールに、オーギュストが説明した。
「彼女をヴィスタニア帝国へ帰す。しばらくの間、ここでかくまって欲しい。頼めるか? これは、礼金だ」
オーギュストが金貨の入ったずっしりと重い袋を渡せば、戸惑いながらもフルールはそれを受け取った。
「そ、それは……ええ、殿下の頼みとあらば……」
しぶしぶといった感じでフルールは引き受けるも、フルールはブリュンヒルデの大きなお腹を見て、何ともいえない気持ちになる。浮気女、そんな思いがフルールの胸の内をかすめたからだ。王都ではハインリヒ陛下の子を身ごもった悪女だとの噂が蔓延してる。
「あの、申し訳ありません。出来れば、そろそろブリュンヒルデ様の寝床を整えて差し上げたいのですが……」
アンバーがそろりと申し出る。妊婦であるブリュンヒルデの体調を気遣ったのだろう。三人とも一睡もしていない。
「隣の小屋を使っても?」
「え? ええ、それはもちろん。殿下の為の場所、ですから……」
オーギュストが許可を求めれば、フルールが頷いた。隣の小屋はフルールの両親が使っていた小屋である。父親は病死し、母親は男を作って出て行ってしまったので、必要なくなってしまったのだ。そこを掃除し、今までオーギュストの寝所としてあてがっていたのである。
自分の妻だった女を連れ、侍女のアンバーと共に隣の小屋へと移動したオーギュストの背を、フルールは複雑な思いで見送った。
殿下だけでよかったのに……
そんな呟きがフルールから漏れた。
◇◇◇
翌日からオーギュストは顔を隠し、頻繁に王都の街中に出かけるようになった。フルールが買い物なら自分が代わると言っても、オーギュストはそれを断った。情報収集をしたいのだそう。
「情報収集?」
「行商人からある程度の情報が手に入る。ヴィスタニアの状況を知りたい」
そう、オーギュストは不思議だった。自分が処刑されてひと月も経つのに、何故ギデオンが動かないのか……。処刑は大々的に行われた。政権交代の知らせは既に、ヴィスタニア帝国にも届いているはず。自分の死を知ったなら、妹を溺愛しているあいつのことだ。ギデオンなら絶対、自分の目でブリュンヒルデの様子を確かめに来るだろう。
なのに何故、動かない?
皇帝に宛てたブリュンヒルデの手紙は、ヴィスタニアへ向かう予定の行商人に託し、オーギュスト自身は口元を布で覆い、連日のように丸太小屋を後にした。そして、帰りにはブリュンヒルデのための日用品を購入し、帰途につくといった具合である。
オーギュストが持ち帰る子供のための品々は、日に日に増えていった。ブリュンヒルデはというと、暖炉の前の揺り椅子に腰掛け、可愛らしい赤ん坊用の靴下を編み上げていく。まさに幸せの象徴のような光景で、画家であれば創作意欲をかき立てられたに違いない。美しい、きっとそう口にした事だろう。
「ただいま、ヒルデ」
「おかえりなさい」
戸口に現れた人影に、ブリュンヒルデが口元をほころばせた。もちろんその人影はオーギュストである。彼が口元を覆っていた布を取れば、ため息の漏れそうな美貌が現れる。
「体調はどうだ?」
「ええ、今日はとてもいいわ」
オーギュストのキスを受け、ブリュンヒルデが微笑む。情報収集から帰ると、彼はいつも真っ先に彼女の様子を確認する。
アンバーもまた嬉しくて仕方がない。仲睦まじい二人の姿に癒される思いだった。オーギュストが処刑されるまでの数ヶ月間が酷すぎた、ともいえるが。
「ブリュンヒルデ様、オーギュスト殿下、お茶が入りましたよ。どうぞ」
アンバーがテーブルに用意した茶器を指し示す。オーギュストが笑って礼を口にした。
「ああ、ありがとう」
お腹の大きくなったブリュンヒルデの手を取り、彼女を揺り椅子から、テーブルまでゆっくり移動させ、オーギュストもまたテーブルについた。アンバーが用意した茶と菓子を、二人で談笑しつつ口にする。何とも平和な光景だ。アンバーはやっぱりほっとしてしまう。
「ブリュンヒルデ様が元気になって下さって嬉しいです」
お茶のお代わりを注ぎつつ、アンバーがそう言うと、ブリュンヒルデが笑った。
「あら、ありがとう」
「んふふー、オーギュスト殿下の効果は本当に凄いですね。リンドルンの王城にいた時は、ブリュンヒルデ様がどんどん痩せていってしまって、本当に心配しました。ブリュンヒルデ様への風当たりが酷かったせいもあるでしょうが……。お腹の子も順調ですね?」
ブリュンヒルデの大きくなったお腹に目を向ける。既に八ヶ月目だ。出産も近い。オーギュストもまたその光景に目を細めた。
「名前は……男の子だったらセオドアはどうだろう?」
「ふふ、神の贈り物ね? 女の子だったらローザはいかが?」
「ローザ……バラの茂みのように美しい女性か、いいね」
そんな二人の会話が微笑ましい。
ずっとずっとこんな光景が続けばいいのに……アンバーはそう思うも、どうしても一緒に暮らしているフルールという少女の眼差しに不穏を感じてしまう。特に何かするというわけではないのだけれど……。不満そうなのだ。彼女の祖母であるリズと弟のダニーは歓迎してくれたが、彼女はどうも違うようである。
一体何が不満なのか……
アンバーは不審に思う。渡した金貨じゃ足りない? 十分過ぎる額だと思う。平民ならばあれでひと家族、十年は楽に暮らせるのだから。まぁ、謀反人を庇ったリスクを考えると、安いのかも知れないけれど……
どうしても悶々としてしまう。
「あのあの! リンゴをどうぞ!」
「ありがとう」
わざわざオーギュストにリンゴを差し入れに来たフルールを見て、彼には愛想がいいとアンバーは気が付いた。
不満そうなのはブリュンヒルデ様に対してだけ?
アンバーにはその理由が即座には思いつかなかった。そもそもヴィスタニア帝国では精霊に愛された姫として、ブリュンヒルデは人気が高かったのだ。温かく気さくな彼女の性格と相まって、ブリュンヒルデは誰からも好かれた。
悪く言う場合は……あ……
アンバーに思い当たる節がないわけでもなかった。妬み、である。
皇女として恵まれた生まれの彼女を妬む者もいる。それが顕著になったのは、オーギュストと婚約を結んだ直後、だろうか。各国の姫が彼女に向かって嫌みを言うことがあった。もちろんヴィスタニア帝国皇女に面と向かってぶつかる者は、本当にごく僅かだったが。その時の態度と似ているような気がして、アンバーは心配になった。
「あのう、オーギュスト殿下……」
告げ口なんて気が進まなかったけれど、どうしても心配で、アンバーは薪割りをしているオーギュストにそっと近寄った。
「どうした?」
「フルールは、その、もしかして……殿下に好意を抱いていますか?」
「かもしれない」
オーギュストが肯定する。薪割りをする手は止まらない。薪割りをする音はリズミカルだ。
気付いていらした?
アンバーがおずおずと言い添える。
「彼女はブリュンヒルデ様の事を……」
「……良くは思っていないようだな?」
やっぱり気が付いていたようである。オーギュストの美麗な顔が曇った。
「他の住処を、そう考えても他に行くところがない。ヒルデは身重で引っ張り回すわけにもいかないし、ヴィスタニアから迎えが来るまで、ここで辛抱するしかない。王城よりはましだ」
それは確かにと、アンバーも思う。
ハインリヒ陛下はブリュンヒルデ様に執着していて、あのままあそこにいれば、何をされたかわかったものではない。だからこそ、殿下に助けを求めたのだし……。その上、王城はハインリヒ陛下主導によるブリュンヒルデ様に対する誹謗中傷が蔓延していた。
その点、ここでは祖母のリズも弟のダニーも親切だ。何かと気遣ってくれる。唯一の問題はあのフルールという少女だけ……
それも殿下が防波堤となって下さっているから、実質的な被害はない。ブリュンヒルデ様もよく笑うようになったし、食欲も戻っている。そうだ、悪くない。少女一人の不満くらいどうだというのだろう。こんな状況では贅沢など言っていられない。
「すまない」
突然オーギュストに謝られて、アンバーはびっくりしてしまった。
「で、殿下?」
「自分でも不甲斐ないと思うが、これが限度なんだ。王太子だった頃の自分とは雲泥の差だな?」
「と、とんでもございません!」
むしろ、凄いと何度思ったか。こんな状況下で活路を切り開く殿下の能力は、驚異的だと思う。自分だったら絶対に真似出来ない。
「ヒルデを無事にヴィスタニアに送り届ける。何としても。どうかそれまで、彼女を支えてやって欲しい」
「は、はい! お任せ下さい!」
アンバーは力強くそう請け負った。
◇◇◇
「ヴィスタニアではプロトワ王国との小競り合いが勃発している」
ある時オーギュストがそんな情報を持って帰った。
「ギデオンは沈静化の為に軍を率いて国境まで向かったらしい」
ブリュンヒルデが言う。
「なら、ギデオンお兄様は、オーギュが処刑された事をまだ知らない?」
「ああ、多分な。それと、皇帝は今、病に伏せっている。実質今国を動かしているのは皇后と宰相のアルノーだ」
「父が病気……」
「ヨルグの件だが、もしかしたら彼は君をリンドルンの王妃にしたいのかもしれない。だから国へ連れ帰らない」
ブリュンヒルデが思い出したように言った。
「……ええ、ヨルグお兄様は確かにそんな事を言っていましたわ。でも、皇帝である父も兄のギデオンもわたくしの意志を尊重します。無理矢理嫁がせるような真似は……」
「ああ、そうだろうな。なにせギデオンは、妹の幸せが絶対条件だと言い切って、私との結婚でももめたくらいだ。事実を歪めて報告している可能性がある。君を王妃にしたいあまりに、君が帰りたくないと主張しているとか……」
「そんな」
「酷いですわ!」
アンバーが憤然と言う。
「ヒルデ、今一度手紙を書いて欲しい。皇帝宛てに」
ブリュンヒルデがオーギュストを見上げる。
「父に……何と書きますか?」
「前と同じでいいだろう。国へ帰りたいと、そう書けばいい」
「でも、行商人に手紙を託しましたわ」
オーギュストが難しい顔をする。
「三週間待った。ここまで何の動きも見えないと言うことは、手紙が届いていない可能性が高い。礼金を着服したのか、それとも道中、何らかの災難にあったのかは分からないが……だからもう一度、手紙を書くんだ。君の意志を知れば、皇帝は必ず動く。ヴィスタニアから皇帝の迎えが来た時点で、君をリンドルンの王城へ連れて行こう」
「手紙はまた行商人に頼みますの?」
「……いや、今回は私が行く」
また、届かなかったらかなわないと、オーギュストが口にする。
「で、でも! 今動き回って、見付かったら大変な事に!」
オーギュストはブリュンヒルデの言葉を遮った。
「確実に手紙を届けたい。大丈夫だ、気を付ける。信頼できる騎士でもいれば良かったが……」
オーギュストはそっとため息をつく。
まさか手紙一つ届けるのが、こんなに困難だとはな……
そう思わざるを得ない。今更ながらに、部下のありがたみが身にしみる。王太子だった自分には優秀な部下が揃っていた。自分が思い描く計画を、彼らが代わって実現してくれたのだ。だが、今のように四面楚歌の状況ではそれもままならない。結局は自分で動くしかないのだ。
「それまでアンバーとここで待っていて欲しい。出来るか?」
オーギュストにそう諭され、ブリュンヒルデは渋々了承した。紙と羽根ペンを受け取り、助けを求める手紙をしたため始める。
「オーギュ……」
「ん?」
「あなたとヴィスタニアの宮殿で暮らしたいわ」
ブリュンヒルデの希望に、オーギュストが苦笑する。
「……処刑された筈の謀反人だぞ?」
「父を説得します!」
ブリュンヒルデが言い切った。
「謀反人と言っても、オーギュスト・ルルーシュ・リンドルンは既に処刑され、もう幽霊のようなものではありませんか。なら、その身をヴィスタニア帝国に預けてください。新しい戸籍を得て、新しい人生をそこで始めるのです。どうしても父があなたを受け入れないというのなら、皇女としての身分を捨て、わたくしもあなたについて行きます。ええ、誰がなんと言おうと邪魔はさせません。共に平民となって市井で暮らしましょう」
「それ、は……」
「ヴィスタニア帝国へ帰れば、何不自由のない生活が待っているでしょう。けれど、そこにあなたがいないのなら、どれほど悲しく苦しいか……。わたくしはあなたと生きたい。生まれてくる子をあなたに抱いてもらいたい。あなたが父親だと誇りたい。ですから、どうか三人の未来を考えてください。お腹の子のためにも……」
「そうだな……」
オーギュストが身をかがめ、そっとブリュンヒルデの唇にキスを落とす。
「あ……」
「どうした?」
「動いたわ。ふふ、きっとパパがいるって分かったのね」
オーギュストが跪いて、ブリュンヒルデの腹に耳を当てる。
「男の子かしらね? 女の子かしらね?」
「元気な子であればどちらでも」
オーギュストが目を瞑り、微笑んだ。その顔はとても穏やかである。三人で暮らす幸福な未来を思い描いているのかも知れなかった。
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