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仮面卿外伝【第一章 太陽と月が出会う時】
第二話 最愛の君がただ一つの花
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オーギュストを中庭の薔薇園へと案内したブリュンヒルデは、そこで二人っきりのお茶会を開いた。用意したのは、独特の酸味があるウラド産の紅茶だ。ブリュンヒルデのお気に入りの品である。菓子は帝都でも評判のキリエのマドレーヌを取り寄せていた。そう、オーギュストの為に……
ブリュンヒルデはそっと微笑む。
意外な事にオーギュストは甘いものが好きだ。
なので、ブリュンヒルデは自分でも菓子を焼く。そして、ブリュンヒルデの手作りが並ぶ茶会には、必ずギデオンも参加する。普段は茶会など下らんと言い切っているにもかかわらず、だ。その上、菓子を独り占めしようとして、ブリュンヒルデに叱られることもしばしばだ。
ふと、ブリュンヒルデの指に輝く婚約指輪に目をとめたオーギュストは、嬉しそうに笑った。ブリュンヒルデの手を取り、よく似合っていると口にする。
「ありがとう」
褒められてブリュンヒルデが頬を染めれば、オーギュストが小さな箱を差し出した。
「こちらはどうかな?」
オーギュストのそれは、反応を窺うような眼差しだ。
ブリュンヒルデが箱を手に取って開けると、中から現れたのは、同じくピンクダイヤをあしらった髪飾りだった。繊細で美しい。一流の細工師の手によるものだろう。
ブリュンヒルデがうっとりと言う。
「素敵……」
「気に入ったか?」
「ええ、とても」
「それは良かった。細工師に急いで作らせた甲斐があった」
オーギュストが笑う。ゆったりとした甘く優しい二人だけの時間だったが、そこへ突如、子供の声が割り込んだ。しかもヴィスタニア語ではない、シシリア語である。
「通してください! オーギュスト殿下に話があるんです!」
ブリュンヒルデは目を丸くした。そう、衛兵に止められ、通してと騒いでいるのは、例の気の強そうなカレン王女だったのだ。礼儀がなっていないとアンバーが文句を言った相手である。
「あら? シシリアの……」
「ああ、第二王女だな。いい、通せ」
オーギュストが衛兵にそう命令すると、通されたカレン王女は興奮しきった様子で、ずずいっと押し迫った。
「オーギュスト殿下! 正直に答えてください! ブリトニーお姉様のどこが気に入らなかったんですか?」
カレン王女が口にしたのはやはりシシリア語だが、オーギュストもブリュンヒルデも問題なく理解出来る。どちらも語学は堪能だ。
いきなりな質問に、ブリュンヒルデはあっけにとられてしまった。
どういうことかと詳しく話を聞けば、どうやらシシリアの第一王女であるブリトニーは、オーギュストに懸想していたようだ。見合い話も随分前から持ちかけていたらしい。それなのに、ここで二人の婚約を知らされ、寝耳に水だったカレンは不機嫌になったようだ。
ああ、それでとブリュンヒルデは納得してしまう。それで朝から不機嫌で、挨拶もせず通り過ぎたのだと……
つまみ出されてもおかしくない状況だったが、オーギュストは特に腹を立てた様子もない。
「そうだね……ああ、君、この子の分のお茶を入れて」
「かしこまりました」
傍で控えていたアンバーが一礼し、オーギュストの指示に従った。
「さ、座るといい。お菓子はどうかな?」
「え、あ……ありがとうございます」
オーギュストが差し出した菓子を美味しそうにカレンは頬張り、はっとなる。
「ち、違います! そうじゃなくて!」
顔が真っ赤だ。お菓子につられ、和やかになりかけたところをカレンが憤慨する。
「聞きたいことがあるんです! どうしてお姉様のお見合い話を蹴ったんですか?」
「君はブリトニー王女殿下が好きなんだね?」
オーギュストが問うと、カレンの表情がぱっと明るくなる。
「はい! 大好きです! 自慢の姉です! オーギュスト殿下と絶対絶対お似合いです!」
「そうか。でも、残念だけれど、私はヒルデを愛しているんだ。君の期待には応えられない」
「姉の方が綺麗です! 賢いです! 殿下だって姉をもっとよく知れば……」
オーギュストがふわりと笑う。
「そうか……なら、君は君の姉よりも綺麗で賢い人なら、君の姉とすげ替えていいんだね?」
「え……」
カレンは目を丸くする。次いでさあっと青ざめた。そんなこと考えたこともなかったのだろう。オーギュストがたたみみかけるように、わたわたするカレンの顔を覗き込んだ。
「君はブリトニー王女殿下を他の誰かと取り替えたい? もっと綺麗で賢くて優しい人に? そんな人が姉になったら、ブリトニー王女殿下はいらないと、そう思うのかな?」
カレンが泣きそうな顔で首を振る。
「そ、そんなの嫌です! 私は今のお姉様が大好きなんです! 他の誰かと取り替えたりできません! 姉の代わりになる人なんていませんから!」
「そう……私にとってはそれがヒルデなんだ。他の誰かと取り替えるなんて出来ない。わかるかな?」
カレンがぐっと言葉に詰まり、俯いた。
「私はね、君が姉を愛するようにヒルデを愛している。どうか私から奪わないで欲しい。分かってくれるね?」
ぽんぽんとあやすように頭を撫でる。
カレンの手がぎゅっと自分のドレスを掴んだ。
「……オーギュスト殿下はブリュンヒルデ皇女殿下のどこが好きなんですか?」
ややあってから、カレンがもそもそとそう口にした。
「ああ、それはギデオンにも散々聞かれたな……」
オーギュストが手にした茶を一口口に含む。
「上げたら切りがないけれど、そうだね……優しくて努力家で、一緒にいて心が安らぐところかな? そうそう、彼女は語学がとても堪能でね、大陸に存在する殆どの言葉を理解出来る」
ぶっと口にした茶を吹きそうになり、カレンは目をまん丸くする。
「え……大陸中の言葉を、ですか?」
自分が理解出来るのはシシリア語だけ……そう言いかけて、カレンは止めた。
オーギュストが微笑んだ。
「そう。どうしてだか分かるかな? いろんな国の人達と仲良くしたいからだと、ヒルデは言うんだ。才能に裏打ちされた努力のたまものだよ。通訳をと考えてもよかったろうに、それだと本当の意味で仲良くはできないからって……凄いだろう?」
楽しそうにオーギュストが笑う。
「周囲に対する気遣いも好ましい。子供の頃、木に登って降りられない子猫を助けたのはまぁ、悪い事じゃない。ただ、その結果、怪我をすればお付きの者達の責任になる。その場にいた大人達に任せるべきだったね。そのことを話して聞かせたら、今度から気を付けるから、どうか叱らないで上げてって必死になって謝って……可愛かったよ」
オーギュストがふわりと笑うも、ブリュンヒルデは身を縮めた。
出会った当初、木に登った子猫を追いかけた時の事だと分かり、ブリュンヒルデは恥ずかしくて仕方がない。忘れて欲しいと思う。
あの後、木の枝を折って落下した自分を受け止めてくれたのが、オーギュストだ。一緒にいた侍女達は真っ青になっていた。生きた心地もしなかったのだろう。確かに今思えば馬鹿なことをしたと思う。木に登って鳴いている子猫しか見えていなかった。
「へー……そんなことが?」
「ああ、ヒルデはね、何にでも一生懸命なんだ。見ているだけでここが温かくなる」
オーギュストが、とんとんと自分の胸を叩いた。
「ヒルデの手は温かい。未来を見晴らすその眼差しにも心引かれる。彼女と一生を共にしたいと、私は心底そう思う。けれど、そういった美点を全部あげても、ほら、こうしてヒルデの顔を見ると、そんな思いが全部吹っ飛ぶくらいの威力がある。彼女の良さをどれだけ並べ立てても、彼女の微笑みにはかなわない。傍にいてくれるだけで嬉しい、そう思ってしまうんだ」
じっとオーギュストに見つめられて、ブリュンヒルデは顔を真っ赤にさせた。愛していると言われなくても、これほど分かってしまう眼差しがあるだろうか。
オーギュ、あなたの方こそ温かいわ。抱きしめられているような錯覚を覚えるもの。
心の中でブリュンヒルデがそう告げた。
「……何となくわかります」
カレンがぼそりと口にする。
「私もお姉様の笑顔が大好きです……別の誰かでは駄目だと思います」
しょげた様子のカレンに、オーギュストが皿を差し出した。
「お菓子はどう?」
「いただきます」
すんっとカレンがしゃくり上げる。
「……ごめんなさい」
「いや、分かってくれて嬉しいよ。ブリトニー王女殿下はいい妹を持ったね」
「失礼な真似をしました」
「ここでの話は秘密にしておこうか」
じっとカレンがオーギュストを見上げた。
「オーギュスト殿下のような兄が欲しかったです」
「それは光栄だね」
笑った顔はやはり太陽のように温かい。もらったお菓子を手土産に、カレンが姿を消すと、ブリュンヒルデがぽつりと言う。
「オーギュって、人たらしかもしれないわ」
「それは褒め言葉か?」
「ちょっと焼けるかなって……」
「焼き餅? それは嬉しいな」
伸ばされたオーギュストの手が唇に触れ、ブリュンヒルデはどきりとする。それが口元についたクリームを取ったのだと分かって、頬が熱を持つ。
やだ、子供みたいだわ……
「ヒルデは私が好きか?」
「ええ、それはもちろん……」
今更な質問だとブリュンヒルデは思う。嫌なら婚約などしない。
「なら、幼なじみのいいお兄さんはそろそろ卒業したい」
「どうして?」
目をぱちくりさせると、オーギュストが苦笑する。
「それだ。あんまり無邪気にされるのはな。いつまでもお兄さん扱いされるのは、嬉しい反面、寂しくもある。せっかく婚約したんだ。男として、未来の夫として意識して欲しい。分かるか?」
未来の夫……
染み入るようにその言葉を理解すると、何だか気恥ずかしくなる。くいっと顎を持ち上げられ、身を乗り出したオーギュストの唇がブリュンヒルデのそれに触れた。
ふわりとブリュンヒルデの頬が色づく。
驚きと羞恥と嬉しさが入り交じってうまく反応できない。見上げれば、自分を見下ろす緑の瞳と目が合った。もう一度触れ合う。確かめるようにさらにもう一度……。腰を引き寄せられ、深く口付けられたのは何度目か。
官能を引き出すようなそれは、大人への階段を上らせるようだった。ふわふわした気持ちで、ぼんやりと見上げれば、オーギュストが笑った。
「愛している、ヒルデ。誰よりも……」
ぼうっと夢心地でブリュンヒルデはその囁きを聞いた。わたくしも、そう言いたかったけれど、心が夢の中を彷徨っていたので、言いそびれたと気が付いたのはずっと後だった。
その夜、ドレッサーの前でブリュンヒルデの金の髪を丁寧に梳りながら、アンバーが言った。
「オーギュスト殿下は情熱的ですよねぇ。冷静沈着な方ですから、もの凄くクールに見えるのに、激しい炎のようですわ。赤い薔薇に例える方もいらっしゃるようですよ?」
「赤い薔薇?」
「赤い薔薇の花言葉は情熱ですもの。あ、熱烈な恋という意味もありますわ」
「熱烈な恋」
ぼっとブリュンヒルデの顔が火照る。茶会でのオーギュストとの口付けを思い出したのだ。親愛を示す軽いものではなく、あれはどう見ても恋人に捧げるもの……きちんとそういった目で見てくれていたのだと、改めて意識する。
ブリュンヒルデは、とくとくと脈打つ自身の心臓にそっと手を当てた。嬉しかった。彼を思うだけでこうして胸が熱くなる。
部屋のドアをノックされ、アンバーが扉を開ければ、現れたのは一通の手紙を携えたシシリアの従者だった。差出人はカレン王女である。手紙には少々たどたどしいヴィスアニア語で「昼間はごめんなさい。ブリュンヒルデ皇女殿下も姉と同じくらいお綺麗です。お幸せに」そう書かれていた。
ブリュンヒルデは微笑んだ。
「ヴィスタニア語を勉強してくれたのね? 嬉しいわ」
また遊びにいらっしゃい。そういったメッセージを添え、ブリュンヒルデはカレン王女に美しく咲いた蘭を一輪贈った。美しい淑女になりますようにとの願いを込めて。
ブリュンヒルデはそっと微笑む。
意外な事にオーギュストは甘いものが好きだ。
なので、ブリュンヒルデは自分でも菓子を焼く。そして、ブリュンヒルデの手作りが並ぶ茶会には、必ずギデオンも参加する。普段は茶会など下らんと言い切っているにもかかわらず、だ。その上、菓子を独り占めしようとして、ブリュンヒルデに叱られることもしばしばだ。
ふと、ブリュンヒルデの指に輝く婚約指輪に目をとめたオーギュストは、嬉しそうに笑った。ブリュンヒルデの手を取り、よく似合っていると口にする。
「ありがとう」
褒められてブリュンヒルデが頬を染めれば、オーギュストが小さな箱を差し出した。
「こちらはどうかな?」
オーギュストのそれは、反応を窺うような眼差しだ。
ブリュンヒルデが箱を手に取って開けると、中から現れたのは、同じくピンクダイヤをあしらった髪飾りだった。繊細で美しい。一流の細工師の手によるものだろう。
ブリュンヒルデがうっとりと言う。
「素敵……」
「気に入ったか?」
「ええ、とても」
「それは良かった。細工師に急いで作らせた甲斐があった」
オーギュストが笑う。ゆったりとした甘く優しい二人だけの時間だったが、そこへ突如、子供の声が割り込んだ。しかもヴィスタニア語ではない、シシリア語である。
「通してください! オーギュスト殿下に話があるんです!」
ブリュンヒルデは目を丸くした。そう、衛兵に止められ、通してと騒いでいるのは、例の気の強そうなカレン王女だったのだ。礼儀がなっていないとアンバーが文句を言った相手である。
「あら? シシリアの……」
「ああ、第二王女だな。いい、通せ」
オーギュストが衛兵にそう命令すると、通されたカレン王女は興奮しきった様子で、ずずいっと押し迫った。
「オーギュスト殿下! 正直に答えてください! ブリトニーお姉様のどこが気に入らなかったんですか?」
カレン王女が口にしたのはやはりシシリア語だが、オーギュストもブリュンヒルデも問題なく理解出来る。どちらも語学は堪能だ。
いきなりな質問に、ブリュンヒルデはあっけにとられてしまった。
どういうことかと詳しく話を聞けば、どうやらシシリアの第一王女であるブリトニーは、オーギュストに懸想していたようだ。見合い話も随分前から持ちかけていたらしい。それなのに、ここで二人の婚約を知らされ、寝耳に水だったカレンは不機嫌になったようだ。
ああ、それでとブリュンヒルデは納得してしまう。それで朝から不機嫌で、挨拶もせず通り過ぎたのだと……
つまみ出されてもおかしくない状況だったが、オーギュストは特に腹を立てた様子もない。
「そうだね……ああ、君、この子の分のお茶を入れて」
「かしこまりました」
傍で控えていたアンバーが一礼し、オーギュストの指示に従った。
「さ、座るといい。お菓子はどうかな?」
「え、あ……ありがとうございます」
オーギュストが差し出した菓子を美味しそうにカレンは頬張り、はっとなる。
「ち、違います! そうじゃなくて!」
顔が真っ赤だ。お菓子につられ、和やかになりかけたところをカレンが憤慨する。
「聞きたいことがあるんです! どうしてお姉様のお見合い話を蹴ったんですか?」
「君はブリトニー王女殿下が好きなんだね?」
オーギュストが問うと、カレンの表情がぱっと明るくなる。
「はい! 大好きです! 自慢の姉です! オーギュスト殿下と絶対絶対お似合いです!」
「そうか。でも、残念だけれど、私はヒルデを愛しているんだ。君の期待には応えられない」
「姉の方が綺麗です! 賢いです! 殿下だって姉をもっとよく知れば……」
オーギュストがふわりと笑う。
「そうか……なら、君は君の姉よりも綺麗で賢い人なら、君の姉とすげ替えていいんだね?」
「え……」
カレンは目を丸くする。次いでさあっと青ざめた。そんなこと考えたこともなかったのだろう。オーギュストがたたみみかけるように、わたわたするカレンの顔を覗き込んだ。
「君はブリトニー王女殿下を他の誰かと取り替えたい? もっと綺麗で賢くて優しい人に? そんな人が姉になったら、ブリトニー王女殿下はいらないと、そう思うのかな?」
カレンが泣きそうな顔で首を振る。
「そ、そんなの嫌です! 私は今のお姉様が大好きなんです! 他の誰かと取り替えたりできません! 姉の代わりになる人なんていませんから!」
「そう……私にとってはそれがヒルデなんだ。他の誰かと取り替えるなんて出来ない。わかるかな?」
カレンがぐっと言葉に詰まり、俯いた。
「私はね、君が姉を愛するようにヒルデを愛している。どうか私から奪わないで欲しい。分かってくれるね?」
ぽんぽんとあやすように頭を撫でる。
カレンの手がぎゅっと自分のドレスを掴んだ。
「……オーギュスト殿下はブリュンヒルデ皇女殿下のどこが好きなんですか?」
ややあってから、カレンがもそもそとそう口にした。
「ああ、それはギデオンにも散々聞かれたな……」
オーギュストが手にした茶を一口口に含む。
「上げたら切りがないけれど、そうだね……優しくて努力家で、一緒にいて心が安らぐところかな? そうそう、彼女は語学がとても堪能でね、大陸に存在する殆どの言葉を理解出来る」
ぶっと口にした茶を吹きそうになり、カレンは目をまん丸くする。
「え……大陸中の言葉を、ですか?」
自分が理解出来るのはシシリア語だけ……そう言いかけて、カレンは止めた。
オーギュストが微笑んだ。
「そう。どうしてだか分かるかな? いろんな国の人達と仲良くしたいからだと、ヒルデは言うんだ。才能に裏打ちされた努力のたまものだよ。通訳をと考えてもよかったろうに、それだと本当の意味で仲良くはできないからって……凄いだろう?」
楽しそうにオーギュストが笑う。
「周囲に対する気遣いも好ましい。子供の頃、木に登って降りられない子猫を助けたのはまぁ、悪い事じゃない。ただ、その結果、怪我をすればお付きの者達の責任になる。その場にいた大人達に任せるべきだったね。そのことを話して聞かせたら、今度から気を付けるから、どうか叱らないで上げてって必死になって謝って……可愛かったよ」
オーギュストがふわりと笑うも、ブリュンヒルデは身を縮めた。
出会った当初、木に登った子猫を追いかけた時の事だと分かり、ブリュンヒルデは恥ずかしくて仕方がない。忘れて欲しいと思う。
あの後、木の枝を折って落下した自分を受け止めてくれたのが、オーギュストだ。一緒にいた侍女達は真っ青になっていた。生きた心地もしなかったのだろう。確かに今思えば馬鹿なことをしたと思う。木に登って鳴いている子猫しか見えていなかった。
「へー……そんなことが?」
「ああ、ヒルデはね、何にでも一生懸命なんだ。見ているだけでここが温かくなる」
オーギュストが、とんとんと自分の胸を叩いた。
「ヒルデの手は温かい。未来を見晴らすその眼差しにも心引かれる。彼女と一生を共にしたいと、私は心底そう思う。けれど、そういった美点を全部あげても、ほら、こうしてヒルデの顔を見ると、そんな思いが全部吹っ飛ぶくらいの威力がある。彼女の良さをどれだけ並べ立てても、彼女の微笑みにはかなわない。傍にいてくれるだけで嬉しい、そう思ってしまうんだ」
じっとオーギュストに見つめられて、ブリュンヒルデは顔を真っ赤にさせた。愛していると言われなくても、これほど分かってしまう眼差しがあるだろうか。
オーギュ、あなたの方こそ温かいわ。抱きしめられているような錯覚を覚えるもの。
心の中でブリュンヒルデがそう告げた。
「……何となくわかります」
カレンがぼそりと口にする。
「私もお姉様の笑顔が大好きです……別の誰かでは駄目だと思います」
しょげた様子のカレンに、オーギュストが皿を差し出した。
「お菓子はどう?」
「いただきます」
すんっとカレンがしゃくり上げる。
「……ごめんなさい」
「いや、分かってくれて嬉しいよ。ブリトニー王女殿下はいい妹を持ったね」
「失礼な真似をしました」
「ここでの話は秘密にしておこうか」
じっとカレンがオーギュストを見上げた。
「オーギュスト殿下のような兄が欲しかったです」
「それは光栄だね」
笑った顔はやはり太陽のように温かい。もらったお菓子を手土産に、カレンが姿を消すと、ブリュンヒルデがぽつりと言う。
「オーギュって、人たらしかもしれないわ」
「それは褒め言葉か?」
「ちょっと焼けるかなって……」
「焼き餅? それは嬉しいな」
伸ばされたオーギュストの手が唇に触れ、ブリュンヒルデはどきりとする。それが口元についたクリームを取ったのだと分かって、頬が熱を持つ。
やだ、子供みたいだわ……
「ヒルデは私が好きか?」
「ええ、それはもちろん……」
今更な質問だとブリュンヒルデは思う。嫌なら婚約などしない。
「なら、幼なじみのいいお兄さんはそろそろ卒業したい」
「どうして?」
目をぱちくりさせると、オーギュストが苦笑する。
「それだ。あんまり無邪気にされるのはな。いつまでもお兄さん扱いされるのは、嬉しい反面、寂しくもある。せっかく婚約したんだ。男として、未来の夫として意識して欲しい。分かるか?」
未来の夫……
染み入るようにその言葉を理解すると、何だか気恥ずかしくなる。くいっと顎を持ち上げられ、身を乗り出したオーギュストの唇がブリュンヒルデのそれに触れた。
ふわりとブリュンヒルデの頬が色づく。
驚きと羞恥と嬉しさが入り交じってうまく反応できない。見上げれば、自分を見下ろす緑の瞳と目が合った。もう一度触れ合う。確かめるようにさらにもう一度……。腰を引き寄せられ、深く口付けられたのは何度目か。
官能を引き出すようなそれは、大人への階段を上らせるようだった。ふわふわした気持ちで、ぼんやりと見上げれば、オーギュストが笑った。
「愛している、ヒルデ。誰よりも……」
ぼうっと夢心地でブリュンヒルデはその囁きを聞いた。わたくしも、そう言いたかったけれど、心が夢の中を彷徨っていたので、言いそびれたと気が付いたのはずっと後だった。
その夜、ドレッサーの前でブリュンヒルデの金の髪を丁寧に梳りながら、アンバーが言った。
「オーギュスト殿下は情熱的ですよねぇ。冷静沈着な方ですから、もの凄くクールに見えるのに、激しい炎のようですわ。赤い薔薇に例える方もいらっしゃるようですよ?」
「赤い薔薇?」
「赤い薔薇の花言葉は情熱ですもの。あ、熱烈な恋という意味もありますわ」
「熱烈な恋」
ぼっとブリュンヒルデの顔が火照る。茶会でのオーギュストとの口付けを思い出したのだ。親愛を示す軽いものではなく、あれはどう見ても恋人に捧げるもの……きちんとそういった目で見てくれていたのだと、改めて意識する。
ブリュンヒルデは、とくとくと脈打つ自身の心臓にそっと手を当てた。嬉しかった。彼を思うだけでこうして胸が熱くなる。
部屋のドアをノックされ、アンバーが扉を開ければ、現れたのは一通の手紙を携えたシシリアの従者だった。差出人はカレン王女である。手紙には少々たどたどしいヴィスアニア語で「昼間はごめんなさい。ブリュンヒルデ皇女殿下も姉と同じくらいお綺麗です。お幸せに」そう書かれていた。
ブリュンヒルデは微笑んだ。
「ヴィスタニア語を勉強してくれたのね? 嬉しいわ」
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