つらじろ仔ぎつね

めめくらげ

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ー「おはよっす」

「うーっす」

「はよざっす」

通りを歩けば、似たような黒服の男どもに頭を下げられる。ヤクザまがいの古くさい光景だが、むげにせず「おはようさん」と逐一返す。社長の顔はこの一帯でよく知られているため、側近のようなシロとクロの顔を知らぬ者もない。同業だけでなく、出入りの花屋や酒屋、ドレス屋のオーナーまでこの調子だ。店に着くまで延々とこれが続く。帰るときには「おつかれっした」「ごくろうさんです」の連呼で、まるで刑務所から出所した気分にさせられる。


「今宵も人通りがまばらだ」

繁華街のメインストリートからは一本はずれているが、往来の人々の数はそのまま世の景気を映し出しているようであった。
雑居ビルの3階、古びて不穏な音を出すエレベーターで上がり、すぐ右手にあるマホガニーの扉。
開ければすでに蒸せ返る人間の匂い。酒の息、煙、香水、体臭。肉をさかんに食べるようになってから、この国の人間はよりいっそう臭くなった。しかし勤めはじめの頃はゲェゲェ吐いていたが、今は嗅覚が死んだのですっかり何とも感じなくなっている。

「クロや、会ったぞ、ゲーテの野郎に」

シフト表を眺めていたクロに声をかけると、「そうですか」とそっけなく返された。来週の出勤が思うように埋まらず悩んでおり、こないだ無事に見つかったゲーテのことなど、とうに頭の片隅にしかないようだ。

「聞いて驚くなかれ、奴は大学生を誘惑しおった」

「大学生?へえ……」

「それも坊やの方さ」

「女性の住まいだと、自由に出入りできない家が多いですからね。男なら管理が甘い」

「だがな、奴はネコの姿で押しかけたんじゃないぞ。人間のナリをしたまんま、お布団に潜り込んだんだと」

「は?」

ここでようやくクロがこちらを向いた。

「あの姿で?それじゃあ彼は……」

「案ずるな。あるじが眠ってる間にネコに戻り、その後どういうわけかきちんとネコとして暮らしておるそうだ」

「バレてないんですか?」

「おそらく」

「なんて危なっかしいことを……」

「俺もそのあたりはきちんと叱っておいたさ。だが大学生にはずいぶん甘やかされていた。立派なまんまとキレイな水、使いもしねえ高そうな猫用ソファーまで貢がれてな」

「このまんま上手くやれたらいいけど」

「なあに、飽きたらまたフイと消える魂胆だろう。奴はひとっところに居着かねえタチだからな」

「猫カフェ上がりで、ずいぶん暮らしのグレードは落ちるだろうに。ネコは安定より自由が好きなんだな」

「恋しくなったら、またかつての見世の前で腹を出してニャンと鳴くのさ。どこの見世でもそれをやって渡ってきた。なんべん血液検査をされるつもりなんだか」

タバコをくわえながら笑い、レジ横の伝票をパラパラと眺める。

「今夜の口開けはまずまずだな。通りに人が少ないわりには」

「彼女たちには自分たちでも営業をかけろと口酸っぱく言ってありますからね。うちは他みたいにノルマが無いから、どうにも腰掛け気分が抜けないのです。本職のつもりでやってもらわないと」

「あんまり厳しいと辞めちゃうよ」

「甘やかしたら稼げなくて困るのは彼女らですよ」

「そんな時代じゃねえような気がするなあ。昔の女給とは事情の重さが違うもの。かわいいドレスを着てさ、髪の毛もお人形みたいにして、適当にちやほやされてんのが楽しいんだろう」

「そんなので売れるのは一握りの子らだけです。だいたい店長のあなたがそんなだから……もう少し管理を厳しくするべきです」

「サノちゃんにも似たようなこと言われたな。俺ぁ教育なんてからっきし向いてねえよ」

「不向きばっかりなんだから、いいかげん何か"向き"を見つけてください」

「ケッ、生意気な口を………おや?」

ふと見た先にの客に目を止める。

「おい、お前まで"コレ"に営業かけたのかい?ずいぶん店思いな男だな」

シロが親指を立てて笑った。一段とうす暗い奥の席には、大和の一行が見える。男の客が四人、ついてる女給も四人。大和には勤怠の芳しくないサボり魔の学生キャストがあてがわれているが、彼はここに色など求めていないので誰がつこうとも話せればよかった。

「いえ、前々から今日仕事の用事で使うと言ってたので」

「お前と同伴してきたのかい?」

「そんなワケないでしょう。あの人は職場からですよ」

「はあん、よそでは遊ばんと誓いを立てたワケか」

「どこで飲んでも構いやしませんけど、この店の、あんまり流行ってなくて落ち着けるとこが好きなんですって」

「うむ。お前に負けず劣らずの皮肉屋だのう。酒は出てるのかい?」

「ボトルが二本入ってますよ。あの中の一人がセイラさんの指名客ですから」

「お前もいますぐ行って、土建屋のヒザにでも乗っかってこい。もう二本はかたいぜ」

「それがとなりに座ってる優梨奈さんのシゴトであり、優梨奈さんにそう伝えてやることがあなたのシゴトです」

そう言って、クロは注文で呼ばれた席へと去っていった。
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