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東方領 メルソにて

<08>馬上のふたり

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 シャンテナにとって、旅など生まれて初めてのことだったので、準備に手間取った。
 衣類をはじめ、身の回りのちょっとした道具が思いのほかかさばるのだ。
 必死に荷物袋と格闘していると、申し訳なさそうにクルトが提案した。

「あの……、シャンテナさん。工具類はちょっと……」
「いや。これだけは手放さない」

 既に命よりも大切と思う銀の工具類を奪われていたシャンテナは、頑なだった。
 残っていた彫金用の工具類を工具箱ごと、必需品扱いで荷物に詰め込もうとする。
 しかし、これが重いしかさばる。どれも金属製なのだから、当然といえば当然である。
 なんとかして荷物に入れようとがんばっているシャンテナに、クルトは困り顔だったが、出発が迫ると流石に苦笑いではすまなくなったようで、
「あの。その工具たちと、奪われた工具たちとシャンテナさん自身の安全、どちらが大事なんです?」
 初めて非難めいた言葉を発した。
 一瞬、シャンテナはむっとした。そりゃ、後者のほうが大切に決まっている。
 だが、前者も蔑ろにできないから、こうしてがんばっているのではないか。
 が、しかし、彼の言葉が正論であることは、確かだった。

 渋々、工具を荷物に納めるのは諦めて、きちんと作業台の下に片付けることで自分を慰めることにした。再び部屋が荒らされることがないことを、祈るばかりだ。

 工具を荷物から外すと、もうほとんど準備は整った。
 必要なものは大抵クルトが用意してくれたのだ。旅慣れているだけあって、雨具や携帯食など、シャンテナでは思いつかないものを市で仕入れてきていた。

 問題はシャンテナの仕事のほうだった。
 既に請け負ってしまった仕事は、作業場に物取りが入ったからと丁重に断り、違約金を支払った。
 クルトから受け取った報酬があって助かった。結構な出費になって、もしこれがなかったら頭を抱えていただろう。

 また、留守を頼みに職人や近隣の住民の何人かに挨拶に行った。
 皆、何事かと心配して(中には好奇心からそう装っている人間もいただろうが)くれたが、事情が事情なだけに詳細は話せず、遠方の親族に不幸があったからと、適当にごまかした。
 得意先には事情があってしばらく仕事を休む旨をしたためた手紙を送付した。
 それだけで、一日がかりだった。

× × × × ×

 旅装を整え、玄関に鍵を掛けたのは、襲撃から三日目の正午をだいぶ過ぎたころだ。
 交差するたがねの看板を見上げ、シャンテナは気合を入れるため大きく息を吐いた。次にこのドアに鍵をさすのはいつになるだろう。見当もつかない。しかし、そのときは必ず、銀の工具を一つ残らず回収していることを、父に、母に、そして顔も見たこともない代々のエヴァンスの当主たちに誓う。

「さあ、行きましょうシャンテナさん! これからならまだ、夜までに隣町に到着しますよ」

 荷物を担いだクルトが歩きだし、それを追う。彼の肩のもののほうがシャンテナの荷物よりずっと大きい。しかし歩くのは結構速かった。急いでいる様子はないのに。
 シャンテナが小走りになっているのに気付くと、彼は歩を緩めた。なんとなく、それが癪である。

 朝には市が立つ広場を抜けるとき、横手から声をかけられた。いつもの食品店の女店主だ。道の反対側の、積まれた木箱を確認していたようだ。

「シャンテナ、これ持っていきな!」

 歩み寄ってくるのが面倒なのか、何かを投げてくる。なかなか重たい。布に包まれたそれを広げてみると、上等な干し肉だった。特別な日に、手の混んだ料理とともに並べるような。
 店主は太い腕をさっと振って、踵を返そうとする。

「道中腹が空いたら齧っていきな。親戚によろしく。気をつけるんだよ」

 乾燥した果物とか、チーズとかではなく干し肉というあたりが彼女らしい。

「おばさん、ありがとう」

 シャンテナが小さく微笑むと、女店主は面食らったように動きを止め、すぐに満面の笑みになった。

「がんばりなっ! 女には踏ん張りどころがあるんだよ」

 よくわからないが、肉はありがたい。
 肉塊を丁寧に包み直して、自分の荷物にそれをしまう。クルトがよだれを垂らしそうな顔をしてこっちを見ているのを置き去りに、道を進む。彼はすぐに追いついてきた。

× × × × ×

 メルソの町境で、クルトが都から乗ってきて預けていた馬を受け取った。
 葦毛の年老いた牝馬で、気性は大人しそうだった。
 あまり馬に慣れていないシャンテナだったが、この牝馬に恐怖は感じなかった。
 むしろこの牝馬とクルトが、のどかな田舎道を、ぽっくりぽっくり旅している、なんとも平和的な絵が思い浮かび、思わず脱力してしまいそうになる。

「旅慣れないシャンテナさんのことを考えると、馬車のほうがいいんでしょうけれど、すみません、そんな余裕が無くて」

 彼は申し訳なさそうだったが、シャンテナはそんなこと気にもしていなかった。
 自分たちは道楽で旅をするわけではない。
 ましてや、自分は足手まといなのだ。なるべくすべてをクルトの判断に任せたほうがよいだろう。
 町を出るとき、シャンテナは不思議な気分に襲われた。

 振り返る。

 小ぢんまりした町がある。
 あそこが自分の世界だったのだ。
 今から行くのはその外の世界だ。

 荷を馬にくくりつけるクルトに、自分のそれを渡した。ここに来るまでに、行き会う顔見知りから様々な餞別をもらって、パンパンに膨らんでしまったそれ。シャンテナが街を離れると聞いて、みんな、旅に役立つものをいろいろ考えて用意してくれていたのだ。
 工房に物取りが入ったことで困っているだろうと、気を配ってくれたらしい。親戚が、という嘘を信じてお悔やみを言ってくれる人もいた。
 今更ながら、自分がメルソの人たちによくしてもらっていたのだと気付いた。同時に、それはシャンテナを少しだけ不安にさせた。この先どんなことが待ち受けているのか、わからない。

「シャンテナさん、馬に乗ったことありますか?」
「ないわ。どうしたらいい?」
「それじゃあ、俺の前に座ってください」

 荷物を積み終え、先に鞍に乗ったクルトが手を差し出してくる。
 その手には、先日受けた傷が生々しく残っていた。
 出血が止まり、傷がふさがったので、包帯は外したが、見ていて気持ちのいいものではない。シャンテナにとっては、自分のために彼が怪我をしたことが、少し後ろめたかった。

 勢いをつけて乗った馬の背は、不安定に揺れて、まともに姿勢を正せなかった。背筋を伸ばすこともままならない。

「背中を俺に預けてください」
「わっ」

 ぐいっと腰を引かれて、シャンテナは思い切り仰け反る。
 クルトの胸板のぬくもりと、固さが伝わってきて少し動揺した。
 が、彼のほうは別のことで動揺していた。

「痛っ! し、シャンテナさん、髪の毛の棒簪ピン外してください、顎に刺さるんです」
「あ、え、ええ」

 シャンテナが慌ててピンを外すと再び背後で悲鳴が上がった。

「あばばば、か、髪の毛縛って! 前が見えないです!」

 風ではためく長い黒髪を、苦労して右耳の横でまとめる。

「悪かったわ。何しろ、相乗りどころか馬に乗ったことさえないから」

 そう言った後、シャンテナは、自分たちが密着していることに気付いた。今まで、こんなに男に近づいた経験はない。ましてや腰を抱えられて、背中を預けるなど。
 一度、心臓が大きく跳ねたが、シャンテナは緩く首を振って、心中で自分を笑った。
 何、意識しているのだろう。相手はクルトである。
 馬鹿で、のろまで、軍人で、自分とはひょんなきっかけから知り合っただけの男。おまけに、――自分を庇って怪我までしてしまうお人よしの男。

「さて、出発しますよー」

 シャンテナの心中など知るよしもないクルトは、明るく言うと手綱をさばいた。
 馬は歩き出した。
 独特の律動で、シャンテナの体が揺れる。初めての乗馬経験だが悪くない、と思った。馬の背にいると、遠くまで見通せるのだ。

「どうですか? 乗り心地は?」

 腰を支えられ、クルトの胸板という背もたれがある状況で、体勢に不安定さはないが、
「お尻が痛い。これ、皮剥けない?」
「……俺、思うんですけど、シャンテナさんはもうちょっと恥じらいもったほうが……。なんだか萎えます」
「なにが」

 何故かクルトは肩を落とし、その理由がわからぬままにシャンテナは、ゆっくり過ぎていく街道の景色を楽しみ始めていた。
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