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道中

<09>最初の試練は宿屋で

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「シャンテナさん、これ。宿のおかみさんがおすすめだそうです。試してみてください」
「……ええ」

 シャンテナの声は暗い。

 メルソの隣町、スラ。その宿屋の一室にふたりはいた。
 窓の外は、すっかり夜の帳が降りている。
 ふたりは予想通り、夜になる前に隣町には到着した。
 そこでちょっとした問題が発生したのである。

 クルトの持つ小瓶には、薬草から汁を絞ってつくられる軟膏が入っている。慣れない乗馬で尻の皮が擦りむけた哀れなシャンテナのために、教会で買い求めたのだ。危険を覚悟で。
 もともと旅の必需品として傷薬は持っていたものの、消毒作用が強いそれは擦過傷に使うにはためらわれた。傷口に塩をすり込むように痛むだろうことが予想されたからだ。
 だからわざわざ彼は、シャンテナのために刺激の少ないこの軟膏を買いにいってくれたのだ。
 受け取ったシャンテナの顔も暗い。
 連日の疲れと、今日の疲れが一緒に出てきたようだ。
 手当てを終えたら、手足を清めてすぐにでも眠りたかった。

 しかし、問題はまだあった。

「それじゃあ、俺、部屋の外にいますから」
「……済んだら声をかけるね」

 気まずげに言葉を交わして、クルトは部屋を出て行った。
 そう。
 なんとも不運なことに、ふたりが見つけられた宿には、空きが一部屋しかなかったのである。
 他の宿も探してみたが、結果はどこも同じであった。
 部屋の中には、ぽつねんと一台のベッドがあるだけ。粗末なシーツを被って部屋の真ん中を占拠している。

 そのベッドを挟んだ左右に、シャンテナとクルトの荷物が置かれている。
 つまるところ、ふたりは同じ部屋で一晩を過さなければならなくなったというわけだった。

 嘆息ひとつ、シャンテナは服を脱ぎ、簡単な手当てと、着替えを済ませた。
 手足を洗い終えて、ドアを開ける。

「終わったわ。あなたの番よ」

 そう言って、部屋を出ようとするシャンテナの腕を、クルトは捕まえた。大きな手は易々と彼女の二の腕を押さえてしまう。
 クルトは怒られた犬のような表情。上から見下ろされているのに、上目遣いをされているような錯覚のする顔をしていた。

「シャンテナさん。俺、やっぱりいいです。部屋の外で、一晩過します。ここで」
「はあ……。だから、それはさっき、話し合ったでしょう」

 シャンテナはきつい口調で返した。
 一体何度目だろう、このやり取りは。

 同室になるとわかったとき、うろたえたのはシャンテナではなく、クルトだったのだ。
 彼の騎士道に悖るのかなんなのか、彼はとにかく、シャンテナと同じ部屋で一夜を過すのを拒んだ。
 シャンテナも、もちろん抵抗はあった。
 夫でもない男と同じ部屋にふたりというのは、やはり好ましくはない。

 だが、クルトに変な下心があるようには思えなかったし、何より彼は自分を守るために都へ行くと言っていたではないか。それなのに、ひとり部屋にされて、あっさり殺されてしまったら意味が無い。ここ数日は、護衛の名目で、彼はシャンテナの家に泊まり込み、鍵をかけないドアを挟んだ隣室で寝起きしていたのだ。今更、という気もあった。

 それに、そんなに露骨に拒否されると、まるで自分と一緒の部屋は嫌なのだと遠まわしに言われているようで腹が立つ。そんなの、まったくの八つ当たりだとはわかっているのだが。

 そこまでに自分はクルトにきつくあたっただろうか。……思い当たることが山ほど出てきて、シャンテナは少し落ち込んだ。
 初日から、自分はクルトにえらく非好意的だった。

 ――よくクルトは私のことを守ろうだなんて言い出したものね。
 そう思うくらいには。

 ――いや、もしかしたら別の方向で彼は同室を嫌がっているのかもしれない。

 たとえば、自分のような田舎の小汚い娘と同室になっただなんて、自分の男としての面子にかかわると思っているのかもしれない。いつか、市場で自分に絡んできた都の軍人たちの言葉が頭によぎる。今言われたわけでもないのに、腹が立った。

 さっきおかみに夫婦ものと間違われたとき、彼は慌てて否定していたではないか。
 なぜだか面白くない。
 何もかも面白くない。お尻が痛いから、よけいに。

「そうやってまた話を蒸し返すの? ねえ、さっさとしてほしいのよ、こんなこと繰り返しているくらいなら早く休みたいし」

 自然と口調もきつくなる。すると、クルトは萎縮し、しゅんとしてしまった。

「いえ……。それじゃあ、今晩はよろしくお願いします」

 なんだか、おかしな挨拶だが、よしとしよう。シャンテナは憤然として部屋を出ようとした。

「あ。シャンテナさん、冷えるから中にいてかまいませんよ。俺、男ですし」
「そういう趣味なの?」

 世には、肉体美を自慢したがる男がいるとも聞く。もしかすると、クルトはそういう趣味を持ち合わせているのかもしれない。
 シャンテナの頭の中に、とんちんかんな言葉が浮かんだ。つい、胡乱な目になる。

「いや、あのそういう意味じゃ。見られても、シャンテナさんとは違って困らないって言う意味ですからね。別に積極的に見て欲しいわけじゃないっていうか、むしろ見られるのは恥ずかしいです」
「顔を赤らめないでよ。気持ち悪い」
「き、気持ち悪いとか、ひどい」
「だって、女の子じゃあるまいし。もっと堂々としてればいいのに。見る気はないわよ。後ろ向いてるから」

 部屋履きに履き替えた足下から、耐え難い夜気の冷たさが這い登ってきて、シャンテナは身震いしていた。
 腕を掴んでいたクルトにもそれは伝わっていたのだろう。
 クルトが掴んでいた手を放すと、腕の掴まれていた部分だけがやけにすうすうと冷えて、気になった。

 部屋に戻ると、クルトはさっそくシャンテナに背を向けて着替えを始めた。

 シャンテナは自分の荷物を整理し始める。昼間、なんとか詰め込んだ餞別の品を、ちゃんと確認してしまい直していく。もらった品物と、贈り主の名前を帳面に書き付けることも忘れない。食品店の女店主からは肉を、金物屋からは万能ナイフを、道具屋の親父からは丈夫な縄を。縄を何に使うかわからないが、とりあえず、しっかりと撚られたよいものであることだけはわかったので、荷物の外にくくりつけていた。
 帰ったら、挨拶にいくつもりだ。予算と時間が許せば、ラーバンで土産を買いたいところだ。無事に目的を果たせたら、ではあるが。

 女のたしなみとして持ってきた手鏡を、小袋に納めようとしたときだった。ふと、上半身裸になったクルトの後ろ姿が鏡に映ってしまった。
 それは本当に偶然だった。
 シャンテナは別段、彼の体に興味はないし、クルトだって見せびらかすつもりはちっともなかったはずだった。
 そして、偶然とはいえ、彼の素肌を見てしまったことをシャンテナは深く後悔した。

 まるでたくさんの脚を持つ虫が張り付いたように、盛り上がり縦横無尽に背を覆いつくす古いミミズ腫れ。見た者が無視することを許さないように存在を主張している。ところどころに、どうやったのかわからない皮膚の陥没があり、体毛どころか、そこは他の皮膚と違って毛穴さえないのだろうとわかる淡紅色をしている。いたずらに、刃物で文字を彫り込まれ、それを焼きごてで消されたのだとわかる痕もあった。

 ――自分が酷い目にあっていることだけはわかってたかなあ――。

 酒場でそう語った彼の言葉が、脳裏に甦る。
 気分が悪くなって、シャンテナは手鏡を乱暴に小袋に押し込んだ。

 胸中に様々な思いが去来する。
 クルトに対する哀れみ。フラスメンに対する恐怖と怒り。そして、クルトを救った王太子に対する感謝。
 なぜ、王太子に感謝の念が湧いたのかはわからない。
 だけど、そのときはとにかく、顔も見たことも無い王太子に感謝の気持ちを伝えたくてたまらなかった。
 そして、クルトの背を、どうしてか、自分の荒れたこの手で撫でてやりたいと思ったのだった。

 その晩、クルトはシャンテナにベッドを譲り、床で毛布に包まって眠った。
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