深川あやかし屋敷奇譚

笹目いく子

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百物語(六)

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 元吉町の番屋を出ると、仙一郎は浅草田町の実家を訪ねると言って、お凛を先に木場へ帰してしまった。
 ひるをだいぶ過ぎた頃屋敷に戻った仙一郎は、珍しく深刻な顔で何かを一心に考えている様子だった。こんなに真剣な表情の主は、年に一度も目にするかどうかというところだ。お八つに茶と大福を出しても、大福をぱくつきつつ心ここにあらずといった風情で宙を睨んでいる。かと思えば、縁側に置いた鳥籠の前に屈み込み、緋鸚哥とじいっと見つめ合っているのだった。
 浅草で何かあったのだろうかとお江津と顔を見合わせていると、やがて、うん、と青年はひとつ頷き、どっかりと自室の文机の前に腰を下ろした。そうして筆に墨を含ませるや、杉原紙の半紙に猛然と何かを書き記しはじめたのだった。
 半紙はどんどん継ぎ足され、文机から垂れ下がり、波打ちながら畳の上に伸びていく。ようやく筆を置いた時には、仙一郎は半紙の海に埋もれるようになっていた。それを畳に広げて乾かしている間に、

「富蔵、富蔵はいるか!」

 と下男を呼ばわった。
 はいはい、と箒を握ったまま縁側の前に現れた老爺を見るなり、仙一郎は重々しく命じた。

「お前に使いを頼みたい」
「お使いでございますか。ははぁ、文でございますね。こりゃまた熱烈。染吉さんですか、梅奴さんですか」

 白い大蛇のように畳に長々と伸びる紙を見て、富蔵が心得たように頷いた。

「東海道だ」
「へぇ、東海道さん? 新しい辰巳芸者で」
「馬鹿を言え。そんな相撲取りみたいな名の芸者がいてたまるか」至極真面目な顔で主が否定する。
「お前はこれから、旅に出るんだ」
「はぁ、旅……?」

 富蔵がすっかり混乱した様子で目を白黒させる。

「そうだ。庭掃除をしている場合じゃない。すぐに支度をしろ!」
「へぇ……」

 箒を握り締めたまま老爺は白髪頭を傾けて、ぽかんと両目を見開いたのだった。 


 屋敷の内は、俄に富蔵の旅支度で大わらわになった。
 お凛とお江津が荷を整えている茶の間で、主は油紙に包んだ手紙を富蔵に手渡した。

「日本橋から馬で行っていいから、まずはこいつを宿の主人に見せておくれ。絶対になくすんじゃないぞ。返事を受け取ったら問屋場へ行って、足の早そうな若い衆に運んでもらっておくれ。金に糸目はつけない」
「へぇ、承知致しました」

 股引脚絆に手甲を着けた富蔵は、何が何だかわからぬ様子で手紙を押し頂くと、懐深くそれを仕舞った。

「旦那様、富蔵さんをどちらへおやりになるんですか? 何の御用なんですか」

 風呂敷に弁当や着替えを包み、富蔵に薬を入れた印籠、矢立、煙草入れ、小銭入れ、それに菅笠を手渡す間に、お凛は幾度も訊ねた。しかし、

「うん、東海道にな。そんなに遠くじゃあないよ、私の考えが的外れでなかったらね。二、三日で用は足りるだろう。出来れば急いで欲しいんだけどな」

 という、要領を得ない返答が返ってくるばかりだった。そんな雲を掴むような旅があるものなのか。つくづくわからぬ主人だが、今日はより一層何を考えているのかわからない。

「頼んだよ。お前の働きにすべてはかかっているからな」
「へ、へぇ。何だかわかりませんが、お言いつけの通りに致します」

 しきりに首を傾げている富蔵を駕篭に押し込んで送り出した仙一郎は、途端に、あああ、と伸びをして、「後は、果報は寝て待て」と独り言を呟いた。
 
「どんな果報をお待ちなんですか。新吉さんの件に、何か関係があるんですか?」

 とお凛は食い下がったが、

「そんなことより、私は少し昼寝をする。早起きして働いたから疲れたよ。ああまったく、自分の有能さが恐ろしいよ……」

 などと言いながら欠伸を繰り返し、座布団を枕に茶の間に転がるなり、昼寝を決め込んだ主であった。
 あっという間にすうすう寝息を立てはじめた青年を見下ろすと、もう、とお凛はぷっと頬を膨らませた。

***

 空が燃えるような茜色に染まり、雲の底が黄金のように輝きはじめていた。
 富蔵は、今頃品川あたりだろうか。日が落ちるまでに川崎まで辿り着けるかしら、などとお江津と話しながら夕餉の算段をしていると、屋敷を一人の客人が訪ねてきた。

「あら……」

 お凛は仰天して息を飲んだ。
 前庭に立った身なりのいい男。丸い顔に柔和な細い目の、恰幅のいい姿は、見間違いようもなく越後屋店主の長介である。
 お凛は慌てて茶の間へ駆け込み、 

「旦那様、旦那様、寝っこけている場合ですか! 越後屋さんがお見えですよ! 例の、長介店の!」

 とぐうぐう眠りこけている仙一郎を揺さぶった。
「ええ……?」頭をぐらんぐらんさせている主を持ち前の馬鹿力でひょいと引っ張り上げる。そして「ヨダレ、ヨダレ!」と手拭いで顔をごしごし拭い、どうにかこうにか格好を整えると、半分夢うつつの青年を越後屋長介が待つ居間へと押し込んだのだった。

「旦那さん。この度はとんだことに巻き込んでしまったようで、申し訳ございません」

 寝ぼけ眼の主の向かいで、畳に白い両手をついて深々と頭を下げた長介は、かすかに喉をふるわせながら声を絞りだした。

「先ほど知らせがありました。弟が死体泥棒を働いた科で、元吉町の番屋につながれているそうで……私はもう、胸が潰れる思いです」
「いや、そのう、こちらこそ何と申しますか……新吉さんを助けようとあれこれやっていたら、どういうわけか弟さんをお縄にすることになってしまいまして。何ともはや。瓢箪から駒とでもでもいいましょうか」

 寝癖のついた鬢を撫で付けながら、仙一郎が身も蓋もないことを神妙に言うと、品のいい深はなだの羽織とあわせをきっちり着込んだ長介は「いいえ」とかぶりをふった。

「罪は罪です。弟とはいえ、まったくもって許しがたい所業でございます」

 眉根を寄せて目を潤ませる男は、涙を飲み込むようにして唇をきつく結んだ。唇の脇にある、小豆大の黒子が細かくふるえて見える。

「昔からふらふらと戯作にうつつを抜かしておりましたが、まさか死者を盗み出そうとは。恐ろしい……おぞましいことです。怪異だの怪談だのに取り憑かれ、正気を失ったのに違いありません。どのような罰も甘んじて受けるのが銀次郎自身のためでしょう」

 茶を出して仙一郎の背後に控えたお凛は、男の悲嘆を感じて悄然とした。実の弟がこのように奇怪な事件を引き起こしたのだ。兄としても、大店の主人としても面目は丸潰れ。その胸中は嵐のごとく乱れているのに違いなかった。

「……どうでしょう。お兄さんから見て、ここ数年弟さんのご様子はおかしくなっていたと思われますか」

 仙一郎が悲しげに問うた。

「ええ、ええ、そうでございますね……。なかなかいい作品が書けないとかで、思い詰めておりましたねぇ。あまりにも鬼気迫る様子で心配になったもので、人の多い堀留町では気が安まらんだろうと思い元吉町の寮をやったんです。元は私が別宅にしていたんですがね、弟が案じられて」

 長介が女のように白い指で目元を拭う。

「──ああ、瀟洒ないいお屋敷でございましたね。立派な穴蔵まであって。……しかし、珍しいですね? 店でもないのに穴蔵があるというのは」

 仙一郎のよく通る声が、夕闇の深まってきた居間に妙に明るく響いた。
……少しの沈黙の後、長介がゆっくりと言った。

「……ええ、そうかもしれませんな。私は心配性でして、いざという時のために、店以外の別宅にも穴蔵を設けておるんですよ」
「なるほど。そのくらい用心深くないと大店のご店主は務まらないのでしょうね」

 仙一郎がにこりと微笑む気配がして、長介も歯を見せて笑う。健康そうな光沢のある歯が異様なほど白く見え、お凛は何故か白骨を思い出してぞっとした。 
 
「……ところでご店主。差配さんの書いた戯作をお読みになったこと、あります?」
「え?」

 長介は小首を傾げた。どこか小馬鹿にしたような表情が、温和な目に過ったようだった。

「いいえ、ございませんな。駄作ばかりだと、鶴屋先生にも酷評されておったそうですし」
「手厳しいですね。ですが、これはちょっといい出来だったんですよ。鶴屋先生もお手元に置いておられましてね」

 苦笑いしながら仙一郎は懐から薄い本を取り出した。『浅草血塗女地獄あさくさちまみれおんなのじごく』だ。

「これはですねぇ、貧乏絵師の豊州ほうしゅうという男が、情死した女の遺骸を盗んでは傑作を描き、やがてお縄になるという話なんですよ。……まるで銀次郎さんのことみたいですよね」

 ふん、と侮蔑の表情を浮かべて長介が唇を歪める。

「なんとも、くらだん筋ですな。あれの書きそうな話だ」
「まぁそうおっしゃらずに。見てくださいよ、絵も自筆なんですよ。銀次郎さんは多芸でいらっしゃるようで」

 主が本を開いて差し出すと、越後屋の店主は汚らわしいものを見るかのように顔を背けた。

「薄気味の悪い絵だ。まったく、ろくなもんじゃない」
「え、そうですか? でもほら、よく見てくださいよ。よく描けているんですから。この貧乏絵師ったら、なんだかあなたにそっくりだと思いません?」
 
 お凛はぎょっとして仙一郎の背中を見て、それから思わず背後から本を覗き込んだ。
 ひゅっ、と喉が鳴る。

(……この顔……)

 血塗れの女の死体に囲まれながら、悪鬼のごとく髪を振り乱し絵筆を走らせる絵師の顔。ふっくらとした白い顔と、柔和に見えながら、奥に狂気を宿らせた細い目。恰幅のいい体つき。女のように白い指、それから……。
 唇の脇にある、小豆大の黒子。

……越後屋長介に、生き写しではないか。

 長介が彫像のように動きを止めて、仙一郎の手元に目を落としている。 
 凍りついたような沈黙に、じりじりという角行灯の灯の呟きがかすかに響く。
 越後屋店主の羽織の肩が大きく上下し、浅い呼吸が不規則に空気をふるわせた。

「──あれは、正気を失っておるようだ……」

 ひび割れた低い声に、お凛は肩を竦ませた。

「……何のためにこんな真似を。あいつの考えることは、まるで理解出来ませんな……。ああ、何だか気分が悪くなってきましたよ」
 
 途端、縁側の暗がりに置いた鳥籠で、緋鸚哥が鋭く鳴いた。はっと肩を波打たせてからそちらを向いて、長介はぎこちなく笑った。

「……おや、美しい鳥だ。風流ですな」
「ええ、いい声でしょう? おまけにね、あの鳥、実は妖なんですよ」
「は……?」
「ここだけの話、あれは以津真天いつまでんという怪鳥でしてね。打ち捨てられた死者の側では、恨み言を叫ぶんです」
「──は、はは……」

 どう反応を返したものかわからぬ風で、長介は戸惑ったように笑った。

「いやいや、本当なんですよ? なんたって、新吉さんの部屋でも鳴いたし、差配さんの元吉町の寮でもそりゃあおぞましい声で鳴いたんですから」

 沈黙が広がった。
 探るような越後屋店主の目が、じっと仙一郎の得意気な顔に注がれている。赤銅色に染まる庭から生温かい風が入り込み、相対する仙一郎と長介の間に数枚の緑の楓の葉をこぼしていく。それも目に入らぬように青年の顔を細い両目で凝視していた男は、やがて感情を表さぬ声で言った。

「……なんとも、変わったお話ですな。天眼通の旦那さんのお話には、私なんぞは到底ついていかれません」

 では私はこれで、と男が膝を立てる。

「越後屋さん」静かな仙一郎の声に、その動きがぴたりと止まった。
「……弟さんは、正気ですよ。これ以上ないくらいに正気でしたよ。狂気に取り憑かれているのは……誰なんでしょうね?」

 お凛はなぜか身震いを覚え、膝の上で両手を握り締めた。
 数拍の間を置いて、ひやりとするその声を振りきるように長介はすっと立ち上がり────
 
「何のことやら、さっぱり」

 と黒い穴のような目を細くして、笑った。

***
 
 翌日、新吉と銀次郎が大番屋へ移されたらしいと御用聞きから聞いた。
 もう、時がない。ひたひたと押し寄せる絶望感で息が出来なくなりそうだった。鳥籠に餌と水を入れた小鉢を置いてやりながら、お凛は緋鸚哥をしんみりと見詰めた。

「あんたのご主人様が二人ともいなくなっちまうなんて、そんなひどいことってないわよね。……あんた、新吉さんとお伊予さんに何があったのか見ていたんでしょ? 『いつまで』ばっかりじゃなくて、何か他のことも言えないの?」

 だんだん憤懣やるかたない心地になってきて、お凛は鼻息荒く鳥に迫った。

「ご主人様の一大事なんでしょ? そら、『犯人はあいつだ!』とかなんとか、気の利いたことを言ってごらんよ! 聞いてる? ちょっと、呑気に歌ってないで真面目にやんなさいよ、旦那様じゃあるまいし! あんたそれでも妖なのっ?」

 拳を握り締めて散々発破をかけてみたものの、返ってくるのは能天気な囀りばかりだった。

──尻端折りの屈強そうな若い衆が、汗だくになって富蔵からの文を届けに現れたのは、それから二日後の夕刻のことだった。
 なんでも、宿場ごとに人を替え、六人あまりが取り次いで、朝から走り詰めに走ってきたのだそうな。

「来たか。でかしたぞ!」

 厚い封書を受け取った仙一郎が、茶の間に入っていきながらもどかしげにがさがさ文を開いていく。
 ぐるぐる茶の間と縁側を歩き回りながらそれを読み進める姿を、お凛は期待に胸を膨らませつつ追いかけた。

「旦那様、富蔵さんは何て? 今どこにいるんですか」

 うーん、と生返事を寄越す主は、部屋の端でくるりと踵を返し、お凛の鼻に文をがさりとぶつけてまた反対側の端へと歩いていく。

「ちょ、ちょっと、待ってくださいまし。その文、何なんですか?」

 追いかけっこを繰り返しながら文を読み耽っている主に訴えるも、まるで反応がない。一体、何が書かれてあるというのだろう。我慢できず背伸びしながら文をちらと覗き込むと、差出人の名に「おいと」とあるのが見えた。お糸? 女人の名前ではないか。お凛の眉間にみるみる険しい皺が寄る。

「……お糸さんて、誰なんですか? まさか、宿場にいる女の人じゃあないでしょうね? 艶書にうつつを抜かしている場合なんですか? 新吉さん、もうすぐ伝馬町の牢屋敷へ移されてしまうんでしょう? すぐに打ち首になってしまうんじゃ……」
「うるさいなぁ。ちょっと静かにしておくれ」

 お茶、とぞんざいに言いつけて、仙一郎はまた文に目を落とす。心なしか、両目が光って頬が緩んで見えやしないか。お凛は前掛けを握り締めると、憤然として地団太を踏んだ。
 
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