深川あやかし屋敷奇譚

笹目いく子

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化け猫こわい(五)

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 翌日、夕闇が鋭い陰影を刻みはじめた中を、長岡が駕篭を伴って現れた。

「おみょうどの、参るぞ。外に駕篭が待たせてある」

 刀を預かろうとするお凛を再び振り切って、ずかずかと居間に入ってきた男は、青ざめたまま座り込んでいるおみょうに促した。
 仙一郎の姿がないことに、お凛は内心はらはらしていた。おかしい。話が違うじゃないの。長岡が現れたことは伝えたのに、何をしているのだろう。心ノ臓がどきりとする。まさか、心変わりして尻尾を巻いて逃げ出したんではなかろうな。

……それとも、だろうか。あれを使う気だろうか?だけど一体、どう使うつもりなんだろう?

 おみょうは必死に長岡を睨みつけていたが、そんな抵抗などそよ風よりも無力だった。石のように動かぬ男に屈したように、やがて娘はのろのろと立ち上がった。
 と、その時。

「長岡様ぁ」

 緊張感に欠ける声と共に隣の間の唐紙が細めに開き、仙一郎がひょいと顔を覗かせた。長岡は怪訝そうな顔で青年をじろりと睨んだ。

「何事か」
「これはどうも、お役目ご苦労様でございます。実はですね、ご出発の前に見ていただきたいものがあるんですが……」
「お前の話になぞ付き合っておれん。急いでおる」
「いやぁ、そうつれないことをおっしゃらずに。お手間は取らせません。勝手にやりますんで」

 なに?と男が尋ねる間もなく、仙一郎は唐紙を開け放った。
 途端、隣室から矢のように次々飛び出してきたものが長岡に殺到していく。

「な、何だ!」うろたえてたたらを踏む男の足元で、凄まじい猫の鳴き声が一斉に響いた。

 見れば、五匹ほどの猫が、男の足に登ろうとぴょんぴょん飛びはね、体を擦り付け、あるいは興奮に踊り狂うようにしながら、一塊の毛玉のようになっているのであった。
 これは何だ、とお凛とおみょうが唖然としていると、

「あれ?」

 仙一郎は無邪気に丸い目を光らせて声を上げた。

「長岡様、妙に猫に好かれていらっしゃいますねぇ。こいつはどうしたことでしょう」

 引きつった顔で仁王立ちになっている男の足元で、猫たちが狂気のように喚き、取っ組み合い、悲鳴を上げている。

「……これは、またたびですね?」

 仙一郎の囁きに、ぴくり、と長岡の精悍な頬が痙攣したようだった。

「またたびの匂いが、まだたっぷり染み付いているみたいですねぇ。これで、お玉や他の猫を誘い出したわけですか。長岡様の着物にも、その時またたびがついたんですね」
「……何を言う」
「ついでに波路様というお女中様の着物にも、またたびを溶かした水でも塗りつけたんでしょう?それで猫を興奮させて、襲わせたんですね?猫にまたたびというと、猫が酔っ払っていい気分になるもんだと思い勝ちですけど、逆にえらく凶暴になる猫もいるってご存じでした?私知らなかったんですが、長岡樣はご存じだったんですねぇ。で、わざわざそういう猫を集めてきて、頃合いを見計らって波路様を突き倒し、尖った石に頭をぶつけるように仕向けた……なんていう次第ですか」

 馬鹿な、と長岡が顔を引き攣らせた。

「いや、申し訳ないとは思いましたんですが、ちいっと探りを入れまして、長岡様がどちらのご家中なのかを突き止めたんでございますよ。あ、長岡様はご奏者番様でいらっしゃるそうで。偉いお方なんですねぇ。黙っていらっしゃるなんてお人が悪い」

 毛ほども申し訳ないとは思っていない顔で言う。長岡のこめかみに、不穏な青筋が浮くのが見えた。

「手前の実家がちっと知られた料理茶屋なぞを営んでおりましてね、お武家様にもご贔屓にしていいただいております。まぁ、色々な話が耳に入って参りますよ。化け猫の怪異伝というものは皆様お好きですからねぇ。そこは庶民もお武家様も同じでございますな。で、そういう話が聞こえてくるご家門を訪ねてみましたんです。
 昨今のお武家様の奉公人は、譜代ではなく口入れ屋の斡旋した渡りが多ございましょう?ご家中の方々は口が堅くとも、下働きの者はお家に忠誠など誓っておりませんでしょう。なんとも嘆かわしいことですな。ま、そういうわけで、お屋敷の中間ちゅうげんにちょっと小遣いを握らせたら、簡単に口を割ってくれましたよ」

 斬り殺しそうな目で睨めつける男を、一反木綿いったんもめんのようなつかみ所のなさで見返すと、仙一郎が続けた。

「それでですねぇ、波路様のご遺骸はまだお屋敷にあって埋葬されていないと伺いましたので、仏様には大変失礼とは存じましたんですが、ちょいと猫を近づけてみてくれないかと頼んだんです。……そうしましたらね、猫が喜んで擦り寄って大騒ぎだったと、こう言うじゃありませんか。……あれ、またたび、ですよね?」
「いい加減なことを抜かすな。丸一日も経てば、またたびの匂いなんぞとうに消えておるわ。猫が擦り寄ったりするものか。大体、その時俺が着ていたのは別の着物で……」

 勝ち誇ったようにまくし立ててから、はっと男が口を噤んだ。
 しん、と冷たい静寂が広がった。

「ーーあ、やっぱりまたたびを使ったんですか?違うお着物でしたか。そうですかぁ」
「……違う。言葉の、綾だ」
「いやいや、だって今仰ったじゃございませんか。ねぇ?おっしゃる通り、ご遺骸に猫を近づけたなんてのは大嘘です、はい」

 無邪気な顔で青年が笑い、侍がみるみる顔色を失う様を、お凛は涙を堪えながらじいっと見た。

「その中間にはですね、今日長岡様がお出でになる前に、お着物にまたたびを塗りつけておいてくれと頼んだんでございます。びっくりなすったでしょう?いやぁ、よく働く中間をお持ちで。もうちょっと礼を弾んであげたらよかったなぁ」
「……貴様。ふざけた真似を……」長岡がきりきりと歯を噛み締める。「こんなことで、私に縄をかけられるとでも思うのか」
「いえいえ、お武家様にそんなこと、滅相もございません。ただまぁ、おみょう様に罪をなすりつけてねちねち苛めるのはやめにして、化け猫なんぞいやしません、とお殿様にご注進していただいて、さらっとご浪人にでもなって流れて下さったら男が上がるんじゃないかなーと、こう思うんでございますよ」
 
 しゃあしゃあと慇懃無礼に述べる仙一郎を見る男の目が、煮え滾るような憎悪に濁っていく。男は忌々しげに擦り寄る猫を蹴りつけた。

「町人ごときが、何を抜かす!そもそも、何故俺が波路どのを殺めねばならんのだ」
「だってですね、私聞いちゃったんですよ。そのう、亡くなった波路様ですか、そのお方がどうも長岡様といい仲だったらしいと」

 長岡の動きが一瞬止まった。

「……卑しい真似をしくさる」

 男の左手がねっとりとした動きで刀の鍔元を掴むのを見て、お凛はどっと背中に汗をかいた。昨今は侍といえど、庶民を無礼討ちにすることなど滅多とないし、刀を抜いただけで厳しく罰せられると聞く。しかし、長岡の尋常ではない殺意と憎悪を目の前にすると、今にも抜刀して襲いかかってくるような気がしてくる。何か、武器を、いや、自身番に助けを求めようか。ぐるぐると思うのに、凍りついたように体が動かない。

「相すみませんです。いや、私も不粋な真似は嫌いなんでございますが、行きがかり上仕方なく。胸が痛みますねほんと。……で、なんとですねぇ、その波路様、他にも恋人があったっていうじゃありませんか。いやはや、長岡様というお方がありながら、不実なことをなさいますな」
「波路と俺は、とうに切れておる」
「そのようですねぇ。二月ほど前になりますか。そりゃあ長岡様の沽券にかかわりますもんね。ところがところが、波路様はこれ幸いとその男と仲睦まじくお過ごしだったようですね。いやぁ、憎たらしい!まったく業腹だ。馬鹿にしておりますな。ーー殺してやりたい!……と、思っちゃったわけですか」

 男の目から表情が消えた。死んだ魚のように虚ろで、剣呑な目が、仙一郎を物か何かのように見据えている。

「ーーそれで長岡様はまた、真面目なお方だから……どうしても波路様を罰しないことには収まらぬと思いつめたんですか。どうもどうも、一途なんですなぁ」

 哀れむような眼差しで男を見返すと、仙一郎は眠たそうな声で言った。

「波路様を殺したのは、あなたですね?長岡様。おみょう様の祟りに紛れ込ませてしまえばいいと思ったんでしょう。波路樣らがただの病や事故を化け猫の祟りだと騒ぎ立てたり、おみょう樣が化け猫を使役したのだとか言い立てているのを見て、こいつを利用しようと思いついたわけですか?」

 話のおどろおどろしさとはまるでそぐわぬ軽快な口調が、妙に寒気をもよおさせる。

「それでぼろが出ないようにと、さっさとおみょう様をどこかへやってしまいたいわけですね。だけどほら、いくら確たる証拠はないとはいえ、私が色んな手を使って騒ぎ立てたら色々まずいんじゃございませんか?別に本当にやるとは申しませんが、ご家中の偉いお方が実家の料理屋をご贔屓にして下さってるそうなんで、ちょっとご相談することもできるかなぁと。うっかり波路様とのあれこれがお殿様のお耳に入って、いらぬ疑いがかかったら困るでしょう?……穏便に済ませた方が、いいんじゃございませんかねぇ」

 居間に満ちた沈黙を埋めるように、ひゅう、と障子の外で風が鳴るのが耳に届いた。

「……おみょうどのは強情で」

 不意に、沈黙を破るようにして長岡は嘆息した。

「早々に国元へ帰ってくれていたら、あの猫にすべての責任を負わせて始末すれば、万事うまく行ったのだがな。私とておみょうどのに害を加えたいとは思わぬ。しかし、どうあっても帰らぬというから往生したわ。お陰で思わぬ邪魔が入った。……結局、おみょうどのも成敗せねばならん羽目になったようだ」

 長岡の双眸がぎらりと光った気がした。つうっと瞳孔が細く、細くなっていく。まるで猫のように。
 右手が刀の柄を握り、左手がゆっくりと鯉口を切る。おみょうに向かって一歩足を進める。おみょうがひゅっと喉を鳴らし、畳の上を後ずさろうとするが、もがくばかりで動けない。
 侍の全身から、禍々しい殺気がどっと溢れたその時。

ーーぎゃあ、という叫び声と共に、どこからか現れた白っぽい猫が男に襲いかかった。

(……お玉!)

 日頃のふてぶてしく緩慢な動きが嘘のように、毛を逆立て、目を金色に光らせたお玉は、長岡の手に鋭い牙を立て、顔と言わず耳と言わず食らいつき、爪で掻きむしる。
 それに呼応したかのように、他の猫たちが、ぎゃああ、と鳴きながら侍に躍りかかっていく。

「う、うわっ!やめろ!」

 よろめいた侍が、慌てふためいて障子をがたがたと開き庭に飛び降りる。
 腹の底からふるえがくるような声を立てながら、猫たちは男に飛びかかっては容赦のない攻撃を執拗に加えた。
 呆気にとられて見ている内に、お凛は目を疑った。猫たちに襲われながら暴れる長岡の黒い影が、人間離れした動きを見せはじめている。飛び跳ね、四つ這いになってお玉らを威嚇し、かっと口を開いて尖った歯と真っ赤な舌を覗かせる。あれは、あれではまるでーー

 ぎゃああああ!と怒り狂った猫のような凄まじい声を上げて、長岡らしき影が鳴いた。

 びゅっと影が飛んだかと思うと、屋根に身を踊らせる。真っ赤な夕日に照らされて、深い陰影の中に浮かび上がった男を見上げ、お凛はへたり込みそうになった。男の口は耳まで裂け、目は凶暴な野性を滾らせ爛々と光り、振り乱した髪はたてがみのようだ。
 その人ならぬ姿の何かは、瞳を縦に細くするなり身を翻し、敏捷な動きで屋根瓦の上を音もなく走って、消えて行った。
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