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化け猫こわい(六)
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牡丹雪が庭と屋根に降り積もり、目に入るものすべてが白くまぁるく見えた。
はぁ、と切なそうな溜め息を吐き、仙一郎が炬燵に丸まったまま、少し開いた障子の隙間からその景色を眺めて言った。
「あーあ。おみょう様がいなくなって、火が消えたようだよ。おみょう様の葱の入った味噌汁が恋しいなぁ……」
「何おっしゃってるんですか。染吉さんと梅奴さんに言いつけますよ?」
足し炭をしながらお凛がしらっとした顔で言うと、青年は傷心の目を見開いた。
「おお、ひどいことを言うねぇ。叶わぬ恋と知りながら、尽くした男の純情ってもんがわからないかねぇ」
「殊勝なことを言いながら、羊羹なんぞ食べていないでくださいよ」
佐賀町『船橋』の練り羊羹をもりもり口に運ぶ男を、お凛は冷やかに見下ろした。
「この胸の空虚な洞を、羊羹で満たしているのさ……お凛、お茶お替わり……」
「そんなことより、あの長岡ってお侍はどうなったんでしょうね」
あの夕刻の出来事から、二日が経っていた。供侍の知らせを受けた殿様は、おみょうとお玉を即座にお屋敷へと呼び戻したのだった。お屋敷から差し向けられた立派な駕篭に乗り込むおみょうは、目に涙を浮かべながら幾度も仙一郎とお凛に礼を言った。
「おみょう様、行かないで……お殿様より私の方がいい男ですからぁ……」鼻水を垂らして泣きながら後を追おうとする主の袖をがっちり掴み、「どうぞお幸せに!」と満面の笑顔で手を振るお凛を見て、おみょうはあの、後光が差すような眩い笑顔を浮かべていた。
ーーしかし、あの男はどうなったのだろう。ご家中の方々も行方を追っているに違いないが、果たして捕まるものだろうか。去り際の異様な姿を思い出すと背筋にぶるっとふるえが走る。あれはまるで、化け猫そのものだった。いや、夕日のせいで目が眩んだのだ。そうに決まっている。けれど、とお凛は我知らず己の二の腕を両手でさすっていた。
あの身ごなし、鳴き声、爛々と光る双眸、耳まで裂けたような口……人というものは、憎悪と執着と殺意とであれほどまでに変貌するものなのだろうか……。
すると、ああ、と主が世間話のように言った。
「それがどうも、死んじゃったらしいよ」
「死んだ!?」
裏返った声で叫ぶと、仙一郎はうんうんと頷いた。
「あの後の深夜に、両国広小路の辺りで猫と取っ組み合ってる男がいるっていうんで、町方が様子を見にいったんだと。そうしたら、侍らしき男が何匹かの猫を相手にものすごい格闘をしていてさ。町方が唖然としていると、月明かりの下に顔が浮かび上がって……」
猫の頭をした男、に見えたという。
「男は逃げだし、行方が分からなくなった。けれど翌朝近くを探してみたら、薬研堀の側で息絶えているのが見つかったそうでね」
猫と激しく争ったのか、体中を噛み跡と爪の跡だらけにしていた。
着物は獣の爪に引き裂かれ、片方の耳と唇も千切れかかり、喉笛を執拗に噛まれて血まみれであったそうな。猫の牙は千枚通しのようなもので、噛み跡は小さくともずぶりと刺さり、傷は意外なほどに深くなる。それで喉を幾度も容赦なく噛まれたらたまらない。
「何でもちょっと前から、『化け猫がいやがる。化け猫がくる。やられてたまるか』って、ひどく憔悴してたって言ってたよ。……え?誰って、お屋敷の奉公人に聞いたんだよ。いやぁ、こんな話まで外に漏れるんだから世も末だぁね」
どうせまた、中間にえげつない額の金子を握らせて口を割らせたに違いないのに、いけしゃあしゃあと慨嘆して見せたものである。
「あれかねぇ。化け猫騒ぎを演じる内に、あのお侍自身が化け猫に取り憑かれちまったのかな。業ってのは恐ろしいもんだねぇ」
つるんとした瞳に牡丹雪を映しながら仙一郎が無邪気な声で言うのを、お凛は絶句したまま聞いた。怨念の黒い手に捕まってしまったのは、それを利用しようとした長岡自身だったということだろうか……。お玉が化け猫であったのかどうかお凛には到底わからないし、そんなものの存在は今も信じてなどいない。いないけれど。
お殿様とおみょう、長岡や奥女中たちの住まう屋敷には、化け猫は何匹もいたのではないかと、ふとそんなことが頭を過る。多くのきらびやかな人々の間に、化け猫の頭をした人間が何食わぬ顔をして紛れ込んでいる。隙あらば獲物を頭から噛み砕こうと、瞳を細くして狙いを定めている。そんな奇怪な想像が心を離れない。
「あ、そうそう」能天気な声に、お凛は物思いから引き戻された。「おみょう様はご息災にしていらっしゃるって話だよ。殿様の果報者め。涙を飲んで身を引いてあげたんだからさ、私に感謝して欲しいもんだ」
鼻をすすりながら、お茶、と湯飲みを振って見せる。
「旦那様、おみょう様たちは一体どちらのご家中なんですか?旦那様はご存知なんでしょう。教えて下さいよ」
「駄目だよ。下手に話が広まって、ご家名に傷がついたら困る」
にべもなく断られ、お凛はむっとした。
「私はそんなに口が軽い金棒引きじゃありません!ぺらぺら人に喋ったりしませんから」
「駄目だね。絶対駄目」
「けち!猫を集めるの大変だったんですよ?あちこち引っかかれそうになるし、逃げないようにご機嫌を取って餌もやって。ご褒美くらいくれたって罰は当たりませんよ!」
「それが褒美をもらおうって態度なのかい……」
言いかけて、今にも化け猫の如く飛びかかろうかと目を光らせるお凛にぎょっとして、仙一郎が炬燵から飛び出した。盆を片手に追いすがろうとするお凛から逃げながら、「ほらほら」と青年が開いた障子から庭を指して言う。
「うまさうな 雪がふうはり ふわりかな」
見れば、こんもりと積もった雪が、白い菓子のようにきらきらと薄い冬の日差しに輝いている。
ほう、とお凛は思わず納得し、しばしその景色に見惚れた。なるほどねぇ、美味しそうでほのぼのと和む景色だわ。おみょう様も、お玉とお殿様と一緒に、この雪景色を眺めているんだろうか……
「ん?」
そこまで考えてからふっと我に返った。あっ、と思って見回せば、茶の間はすでにもぬけの殻で、主の姿は猫よろしく、音もなく掻き消えているのであった。
どこかで、にゃあ、と鳴く猫の声が、幻のように聞こえた気がした。
おしまい
はぁ、と切なそうな溜め息を吐き、仙一郎が炬燵に丸まったまま、少し開いた障子の隙間からその景色を眺めて言った。
「あーあ。おみょう様がいなくなって、火が消えたようだよ。おみょう様の葱の入った味噌汁が恋しいなぁ……」
「何おっしゃってるんですか。染吉さんと梅奴さんに言いつけますよ?」
足し炭をしながらお凛がしらっとした顔で言うと、青年は傷心の目を見開いた。
「おお、ひどいことを言うねぇ。叶わぬ恋と知りながら、尽くした男の純情ってもんがわからないかねぇ」
「殊勝なことを言いながら、羊羹なんぞ食べていないでくださいよ」
佐賀町『船橋』の練り羊羹をもりもり口に運ぶ男を、お凛は冷やかに見下ろした。
「この胸の空虚な洞を、羊羹で満たしているのさ……お凛、お茶お替わり……」
「そんなことより、あの長岡ってお侍はどうなったんでしょうね」
あの夕刻の出来事から、二日が経っていた。供侍の知らせを受けた殿様は、おみょうとお玉を即座にお屋敷へと呼び戻したのだった。お屋敷から差し向けられた立派な駕篭に乗り込むおみょうは、目に涙を浮かべながら幾度も仙一郎とお凛に礼を言った。
「おみょう様、行かないで……お殿様より私の方がいい男ですからぁ……」鼻水を垂らして泣きながら後を追おうとする主の袖をがっちり掴み、「どうぞお幸せに!」と満面の笑顔で手を振るお凛を見て、おみょうはあの、後光が差すような眩い笑顔を浮かべていた。
ーーしかし、あの男はどうなったのだろう。ご家中の方々も行方を追っているに違いないが、果たして捕まるものだろうか。去り際の異様な姿を思い出すと背筋にぶるっとふるえが走る。あれはまるで、化け猫そのものだった。いや、夕日のせいで目が眩んだのだ。そうに決まっている。けれど、とお凛は我知らず己の二の腕を両手でさすっていた。
あの身ごなし、鳴き声、爛々と光る双眸、耳まで裂けたような口……人というものは、憎悪と執着と殺意とであれほどまでに変貌するものなのだろうか……。
すると、ああ、と主が世間話のように言った。
「それがどうも、死んじゃったらしいよ」
「死んだ!?」
裏返った声で叫ぶと、仙一郎はうんうんと頷いた。
「あの後の深夜に、両国広小路の辺りで猫と取っ組み合ってる男がいるっていうんで、町方が様子を見にいったんだと。そうしたら、侍らしき男が何匹かの猫を相手にものすごい格闘をしていてさ。町方が唖然としていると、月明かりの下に顔が浮かび上がって……」
猫の頭をした男、に見えたという。
「男は逃げだし、行方が分からなくなった。けれど翌朝近くを探してみたら、薬研堀の側で息絶えているのが見つかったそうでね」
猫と激しく争ったのか、体中を噛み跡と爪の跡だらけにしていた。
着物は獣の爪に引き裂かれ、片方の耳と唇も千切れかかり、喉笛を執拗に噛まれて血まみれであったそうな。猫の牙は千枚通しのようなもので、噛み跡は小さくともずぶりと刺さり、傷は意外なほどに深くなる。それで喉を幾度も容赦なく噛まれたらたまらない。
「何でもちょっと前から、『化け猫がいやがる。化け猫がくる。やられてたまるか』って、ひどく憔悴してたって言ってたよ。……え?誰って、お屋敷の奉公人に聞いたんだよ。いやぁ、こんな話まで外に漏れるんだから世も末だぁね」
どうせまた、中間にえげつない額の金子を握らせて口を割らせたに違いないのに、いけしゃあしゃあと慨嘆して見せたものである。
「あれかねぇ。化け猫騒ぎを演じる内に、あのお侍自身が化け猫に取り憑かれちまったのかな。業ってのは恐ろしいもんだねぇ」
つるんとした瞳に牡丹雪を映しながら仙一郎が無邪気な声で言うのを、お凛は絶句したまま聞いた。怨念の黒い手に捕まってしまったのは、それを利用しようとした長岡自身だったということだろうか……。お玉が化け猫であったのかどうかお凛には到底わからないし、そんなものの存在は今も信じてなどいない。いないけれど。
お殿様とおみょう、長岡や奥女中たちの住まう屋敷には、化け猫は何匹もいたのではないかと、ふとそんなことが頭を過る。多くのきらびやかな人々の間に、化け猫の頭をした人間が何食わぬ顔をして紛れ込んでいる。隙あらば獲物を頭から噛み砕こうと、瞳を細くして狙いを定めている。そんな奇怪な想像が心を離れない。
「あ、そうそう」能天気な声に、お凛は物思いから引き戻された。「おみょう様はご息災にしていらっしゃるって話だよ。殿様の果報者め。涙を飲んで身を引いてあげたんだからさ、私に感謝して欲しいもんだ」
鼻をすすりながら、お茶、と湯飲みを振って見せる。
「旦那様、おみょう様たちは一体どちらのご家中なんですか?旦那様はご存知なんでしょう。教えて下さいよ」
「駄目だよ。下手に話が広まって、ご家名に傷がついたら困る」
にべもなく断られ、お凛はむっとした。
「私はそんなに口が軽い金棒引きじゃありません!ぺらぺら人に喋ったりしませんから」
「駄目だね。絶対駄目」
「けち!猫を集めるの大変だったんですよ?あちこち引っかかれそうになるし、逃げないようにご機嫌を取って餌もやって。ご褒美くらいくれたって罰は当たりませんよ!」
「それが褒美をもらおうって態度なのかい……」
言いかけて、今にも化け猫の如く飛びかかろうかと目を光らせるお凛にぎょっとして、仙一郎が炬燵から飛び出した。盆を片手に追いすがろうとするお凛から逃げながら、「ほらほら」と青年が開いた障子から庭を指して言う。
「うまさうな 雪がふうはり ふわりかな」
見れば、こんもりと積もった雪が、白い菓子のようにきらきらと薄い冬の日差しに輝いている。
ほう、とお凛は思わず納得し、しばしその景色に見惚れた。なるほどねぇ、美味しそうでほのぼのと和む景色だわ。おみょう様も、お玉とお殿様と一緒に、この雪景色を眺めているんだろうか……
「ん?」
そこまで考えてからふっと我に返った。あっ、と思って見回せば、茶の間はすでにもぬけの殻で、主の姿は猫よろしく、音もなく掻き消えているのであった。
どこかで、にゃあ、と鳴く猫の声が、幻のように聞こえた気がした。
おしまい
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