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第13章
2 温もり④
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「ごめんね、優子さん……。俺、優子さんの、生活リズムを、崩すようなこと、したくないって、思ってたのに……、自分本位で、甘えて、こんな時間まで、つき合わせて、ごはんすら、おあずけして……」
「そんなこと考えててくれたの? 嬉しい」
そう言った優子さんの瞳は、愛情を溢れさせるように細まった。
抱きしめたい。
でもその衝動を、ギュッと拳を握りしめて制止する。今日はダメだ。
「旅行……さ、こんなんじゃ、行けないよね……」
「そうだね、今回はキャンセルだな」
本当なら、明後日から鬼怒川温泉に行くはずだった。
自分のタイミングの悪さに、本当に呆れる。
せっかく優子さんが電車も宿も手配してくれたのに。
「ごめんね、優子さん、俺……迷惑しかかけてなくて」
「ううん。旅行なんていつでも行けるし、亮弥くんの体のほうが何千倍も大事。それに私、今日思いがけず亮弥くんと会えて、嬉しかったから」
「えっ……」
「会いたいなって思ってたの。だから、来れて良かった」
「……実家で、何かあったの?」
「あはは、ちょっとね」
「何があったの?」
聞くと、優子さんは少し目を伏せて、
「亮弥くんが元気になったら、話聞いてくれる?」
「今でも、聞くよ」
「ううん。急がないから、また今度でいいの」
まただ。
前にも、優子さんが傷ついている時に、俺はすぐに話を聞いてあげられなかった。
駆けつけて抱きしめてあげることもできなかった。
今日はこんなに近くにいるのに、ウイルスを持っているから抱きしめてあげられない。
気を遣わせて、話すら聞いてあげられない。
つくづく自分が嫌になる。
「ごめんね、本当に、タイミング悪くて……」
「亮弥くん」
優子さんはアイスをベッドに置いて、両手で俺の手を包んだ。
「そんなこと、全く気にしなくていいよ。迷惑とも、タイミング悪いとも、全く思ってない。私は、亮弥くんが居てくれるだけで、本当に幸せだから。今こうして、亮弥くんが辛い時に側に居られて、本当に幸せだから」
そう言った優子さんの瞳には、涙が滲んで見えた。
優しい言葉をかけられて泣きそうなのは俺のほうなのに、なんで優子さんが涙ぐむんだろう。
「うん……、ありがとう」
俺は優子さんの手を握り返した。
「優子さんの手、冷たい」
「ほんと? 亮弥くんの手が熱いからだよ」
優子さんはふふっと笑う。
「でも……温かい。優子さんて、本当に、温かいね……」
俺みたいな男が、こんなに素敵な人から、こんな幸せを与えてもらって、いいのだろうか。
どうすればもっと、ちゃんと、優子さんを幸せにしてあげられるだろう。
俺が受け取っている以上の優しさや愛情を、どうすれば優子さんに届けることができるだろう。
優子さんがもっとたくさんのことを求めてくれたら、いくらでも応えてあげるのに、何も求めない人に何かを与えるのは、とても難しい。
それでも満足させてあげたい。
心を満たしてあげたい。
それは俺の特権だと胸を張れるくらいに。
アイスクリームを食べ終わって薬を飲んだのを確認すると、優子さんはサンドイッチを食べ始めた。
もう十一時が過ぎていた。
ソファにちょこんと座ってサンドイッチを上品にかじっていく優子さんを、かわいいなと思いながら眺めていたら、優子さんは「そんなに見られると食べづらい」と笑った。
「亮弥くんさ……」
「うん」
「あの時のポストカード、大事にしててくれたんだね」
「あっ……!」
しまった。
全部見られてしまった。
俺は、十八の時のデートで優子さんに買ってもらったレンブラントのポストカード――だけでなく、ツーショットの写真をご丁寧にプリントしたものまで、コルクボードに貼りつけて部屋に飾っているのだった。
優子さんが来る時には隠そうと思っていたのに、写真があるのがすっかり当たり前になっていて、完全に忘れていた。
「……今気づいたの?」
「ううん、最初に部屋に入ってきた時」
「もしかして、"あ"って、言ったやつ?」
「そうそう、当たり」
「マジかー……最悪。恥ずかしい……」
「あはは、私は嬉しかったよ。私も亮弥くんの写真部屋に飾ろうかなぁ~」
「マジで?」
それはちょっと嬉しいかもしれない。
「でもあんな昔のポストカードをまだ持ってると思わなかった。私は全部コレクションしてるから部屋にあるけど……」
「持ってないわけ、ないでしょ。ずっと、優子さんのこと、好きだったのに……」
本当はそれが入ってた袋もとってあるなんて言ったら、さすがに引かれるだろうか。
それだけじゃない。
再会した時に優子さんが書いてくれた、名前とメールアドレスの付箋もとってある。
もちろんこれまでのデートで残った半券も。
女々しいと言われようと、俺は優子さんに対してだけはガチなのだ。
「亮弥くんはすごいね……。私はあんなにキッパリと断っちゃったのに、それでも気持ちを無くさずにいてくれたなんて……」
「だって俺……、確信してたから」
「え?」
優子さんは食事の手を止めてこちらを見る。
「あの時優子さん……俺を好きって、言ってくれたでしょ。だから、立派な大人になれば、きっと、チャンスが来る。きっと優子さん、俺を受け入れてくれるって、確信してたの。あとは時を待つ、だけだって。だから俺、ホントに……いつか再会できた時に、チャンスを掴めるように……って、それだけ目指して、生きてきたんだよ」
「亮弥くん……」
「やばいヤツでしょ」
「やばいね」
「褒めてよそこは」
二人で笑い合いながら、今この部屋は愛情で満たされていると感じることができた。
優子さんは幸せそうにはにかみながらサンドイッチを口に運ぶ。
俺はその姿を、今にも両腕で抱き寄せたい気持ちで見つめていた。
優子さんは帰り支度をすると、テーブルをベッドに近づけて、その上に体温計と経口補水液を置いてくれた。
「ありがとう……」
「うん」
最後に、アイスノンを新しいものに取り替えて、
「それじゃ、帰るね。ごめんね、遅くまでつき合わせて……」
そんなの、どう考えても、
「こっちの台詞、でしょ」
「だって、本当は少しでも早く眠ってほしいのに……」
「それも、お互い様だし」
俺は優子さんを見送りに玄関まで出た。
淋しい。
「明日も様子見に来ていい?」
「ほんと?」
「うん、午後からになると思うけど……」
「それまで一人で、がんばる」
「本当は、泊まってあげたいんだけど、ごめんね……」
優子さんはそう言って、俺の髪を軽くかきあげながら頭を撫でた。
そんな風に触れられると、二十センチの距離に耐えられなくなる。
「優子さん、帰ったらシャワー、浴びる?」
「うん、そのつもりだけど……」
「じゃあさ、頭にちょっとだけ、キスしてもいい?」
優子さんの瞳は少しだけ力を緩めて、
「……いいよ」
俺はそっと顔を近づけて、左耳の上辺りに、マスク越しにキスをした。
「大好き」
気持ちを抑えきれずに囁くと、優子さんは恥ずかしそうに、「もう、今日はそういうの、ダメ」と言った。
やば。
めっちゃ可愛いしなんかエロいんですけど。
「本当に、気をつけて帰ってね。帰り着いたら、メールして」
「うん、わかった。でも連絡待たないですぐに眠ってね。明日起きた時に確認してくれたらいいから」
「わかった」
「ちゃんと水分とってね」
「うん」
「おやすみなさい」
「おやすみなさい」
ドアを閉めて鍵をかけ、そのまま連絡が来るまで起きていようと思いながら部屋に戻ったが、ベッドに入ると熱に引きずり込まれるように眠りに落ちてしまった。
翌朝目を覚ますと、体中が汗でベッタリしていた。
腕を伸ばして経口補水液を掴み、体を少し起こして飲んでから、スマホをチェックする。
"無事に帰りつきました"
優子さんの報告を見て、ホッとして、また体を横たえた。
開けたままだった窓からは、時折ひんやりした風が流れ込んでくる。
体温を計ると、三八度五分だった。
少しは下がってきたようだ。
アイスノンを取り替えにキッチンに行き、冷凍庫を開けると、カップアイスがあと二つ入っていた。
ついでに冷蔵庫も見てみたら、経口補水液のドリンクとゼリーも、あと二つずつ。
これにアイスノンを二つ買ってきたんだから、重かっただろうな。
それから熱が下がるまで二日間、優子さんはウチに通ってくれた。
汗をかいたシーツを取り替えて洗濯してくれたり、必要なものを買いに行ってくれたり、買ってきたりんごやキウイを切ってくれたり、お粥を作ってくれたりした。
旅行に行けなかったのは残念だったけど、優子さんが看病してくれる日々はまた新鮮な喜びがあって、これはこれで得がたい経験だったなと俺は思った。
「そんなこと考えててくれたの? 嬉しい」
そう言った優子さんの瞳は、愛情を溢れさせるように細まった。
抱きしめたい。
でもその衝動を、ギュッと拳を握りしめて制止する。今日はダメだ。
「旅行……さ、こんなんじゃ、行けないよね……」
「そうだね、今回はキャンセルだな」
本当なら、明後日から鬼怒川温泉に行くはずだった。
自分のタイミングの悪さに、本当に呆れる。
せっかく優子さんが電車も宿も手配してくれたのに。
「ごめんね、優子さん、俺……迷惑しかかけてなくて」
「ううん。旅行なんていつでも行けるし、亮弥くんの体のほうが何千倍も大事。それに私、今日思いがけず亮弥くんと会えて、嬉しかったから」
「えっ……」
「会いたいなって思ってたの。だから、来れて良かった」
「……実家で、何かあったの?」
「あはは、ちょっとね」
「何があったの?」
聞くと、優子さんは少し目を伏せて、
「亮弥くんが元気になったら、話聞いてくれる?」
「今でも、聞くよ」
「ううん。急がないから、また今度でいいの」
まただ。
前にも、優子さんが傷ついている時に、俺はすぐに話を聞いてあげられなかった。
駆けつけて抱きしめてあげることもできなかった。
今日はこんなに近くにいるのに、ウイルスを持っているから抱きしめてあげられない。
気を遣わせて、話すら聞いてあげられない。
つくづく自分が嫌になる。
「ごめんね、本当に、タイミング悪くて……」
「亮弥くん」
優子さんはアイスをベッドに置いて、両手で俺の手を包んだ。
「そんなこと、全く気にしなくていいよ。迷惑とも、タイミング悪いとも、全く思ってない。私は、亮弥くんが居てくれるだけで、本当に幸せだから。今こうして、亮弥くんが辛い時に側に居られて、本当に幸せだから」
そう言った優子さんの瞳には、涙が滲んで見えた。
優しい言葉をかけられて泣きそうなのは俺のほうなのに、なんで優子さんが涙ぐむんだろう。
「うん……、ありがとう」
俺は優子さんの手を握り返した。
「優子さんの手、冷たい」
「ほんと? 亮弥くんの手が熱いからだよ」
優子さんはふふっと笑う。
「でも……温かい。優子さんて、本当に、温かいね……」
俺みたいな男が、こんなに素敵な人から、こんな幸せを与えてもらって、いいのだろうか。
どうすればもっと、ちゃんと、優子さんを幸せにしてあげられるだろう。
俺が受け取っている以上の優しさや愛情を、どうすれば優子さんに届けることができるだろう。
優子さんがもっとたくさんのことを求めてくれたら、いくらでも応えてあげるのに、何も求めない人に何かを与えるのは、とても難しい。
それでも満足させてあげたい。
心を満たしてあげたい。
それは俺の特権だと胸を張れるくらいに。
アイスクリームを食べ終わって薬を飲んだのを確認すると、優子さんはサンドイッチを食べ始めた。
もう十一時が過ぎていた。
ソファにちょこんと座ってサンドイッチを上品にかじっていく優子さんを、かわいいなと思いながら眺めていたら、優子さんは「そんなに見られると食べづらい」と笑った。
「亮弥くんさ……」
「うん」
「あの時のポストカード、大事にしててくれたんだね」
「あっ……!」
しまった。
全部見られてしまった。
俺は、十八の時のデートで優子さんに買ってもらったレンブラントのポストカード――だけでなく、ツーショットの写真をご丁寧にプリントしたものまで、コルクボードに貼りつけて部屋に飾っているのだった。
優子さんが来る時には隠そうと思っていたのに、写真があるのがすっかり当たり前になっていて、完全に忘れていた。
「……今気づいたの?」
「ううん、最初に部屋に入ってきた時」
「もしかして、"あ"って、言ったやつ?」
「そうそう、当たり」
「マジかー……最悪。恥ずかしい……」
「あはは、私は嬉しかったよ。私も亮弥くんの写真部屋に飾ろうかなぁ~」
「マジで?」
それはちょっと嬉しいかもしれない。
「でもあんな昔のポストカードをまだ持ってると思わなかった。私は全部コレクションしてるから部屋にあるけど……」
「持ってないわけ、ないでしょ。ずっと、優子さんのこと、好きだったのに……」
本当はそれが入ってた袋もとってあるなんて言ったら、さすがに引かれるだろうか。
それだけじゃない。
再会した時に優子さんが書いてくれた、名前とメールアドレスの付箋もとってある。
もちろんこれまでのデートで残った半券も。
女々しいと言われようと、俺は優子さんに対してだけはガチなのだ。
「亮弥くんはすごいね……。私はあんなにキッパリと断っちゃったのに、それでも気持ちを無くさずにいてくれたなんて……」
「だって俺……、確信してたから」
「え?」
優子さんは食事の手を止めてこちらを見る。
「あの時優子さん……俺を好きって、言ってくれたでしょ。だから、立派な大人になれば、きっと、チャンスが来る。きっと優子さん、俺を受け入れてくれるって、確信してたの。あとは時を待つ、だけだって。だから俺、ホントに……いつか再会できた時に、チャンスを掴めるように……って、それだけ目指して、生きてきたんだよ」
「亮弥くん……」
「やばいヤツでしょ」
「やばいね」
「褒めてよそこは」
二人で笑い合いながら、今この部屋は愛情で満たされていると感じることができた。
優子さんは幸せそうにはにかみながらサンドイッチを口に運ぶ。
俺はその姿を、今にも両腕で抱き寄せたい気持ちで見つめていた。
優子さんは帰り支度をすると、テーブルをベッドに近づけて、その上に体温計と経口補水液を置いてくれた。
「ありがとう……」
「うん」
最後に、アイスノンを新しいものに取り替えて、
「それじゃ、帰るね。ごめんね、遅くまでつき合わせて……」
そんなの、どう考えても、
「こっちの台詞、でしょ」
「だって、本当は少しでも早く眠ってほしいのに……」
「それも、お互い様だし」
俺は優子さんを見送りに玄関まで出た。
淋しい。
「明日も様子見に来ていい?」
「ほんと?」
「うん、午後からになると思うけど……」
「それまで一人で、がんばる」
「本当は、泊まってあげたいんだけど、ごめんね……」
優子さんはそう言って、俺の髪を軽くかきあげながら頭を撫でた。
そんな風に触れられると、二十センチの距離に耐えられなくなる。
「優子さん、帰ったらシャワー、浴びる?」
「うん、そのつもりだけど……」
「じゃあさ、頭にちょっとだけ、キスしてもいい?」
優子さんの瞳は少しだけ力を緩めて、
「……いいよ」
俺はそっと顔を近づけて、左耳の上辺りに、マスク越しにキスをした。
「大好き」
気持ちを抑えきれずに囁くと、優子さんは恥ずかしそうに、「もう、今日はそういうの、ダメ」と言った。
やば。
めっちゃ可愛いしなんかエロいんですけど。
「本当に、気をつけて帰ってね。帰り着いたら、メールして」
「うん、わかった。でも連絡待たないですぐに眠ってね。明日起きた時に確認してくれたらいいから」
「わかった」
「ちゃんと水分とってね」
「うん」
「おやすみなさい」
「おやすみなさい」
ドアを閉めて鍵をかけ、そのまま連絡が来るまで起きていようと思いながら部屋に戻ったが、ベッドに入ると熱に引きずり込まれるように眠りに落ちてしまった。
翌朝目を覚ますと、体中が汗でベッタリしていた。
腕を伸ばして経口補水液を掴み、体を少し起こして飲んでから、スマホをチェックする。
"無事に帰りつきました"
優子さんの報告を見て、ホッとして、また体を横たえた。
開けたままだった窓からは、時折ひんやりした風が流れ込んでくる。
体温を計ると、三八度五分だった。
少しは下がってきたようだ。
アイスノンを取り替えにキッチンに行き、冷凍庫を開けると、カップアイスがあと二つ入っていた。
ついでに冷蔵庫も見てみたら、経口補水液のドリンクとゼリーも、あと二つずつ。
これにアイスノンを二つ買ってきたんだから、重かっただろうな。
それから熱が下がるまで二日間、優子さんはウチに通ってくれた。
汗をかいたシーツを取り替えて洗濯してくれたり、必要なものを買いに行ってくれたり、買ってきたりんごやキウイを切ってくれたり、お粥を作ってくれたりした。
旅行に行けなかったのは残念だったけど、優子さんが看病してくれる日々はまた新鮮な喜びがあって、これはこれで得がたい経験だったなと俺は思った。
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