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第13章

3 未来の可能性①

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 玄関のドアを押し開けると、亮弥くんが嬉しそうに目を輝かせて立っていた。
 数日会わなかっただけでこんな顔を見せてくれるのだから、会い甲斐がある。

「いらっしゃい」
「こんにちは」
 中に招き入れ、ドアを閉める。
「もうすっかり良いの?」
「おかげさまで、もう、すっかり!」
 亮弥くんは玄関先で、腕の中に私をすっぽりと収めた。
 ふっと香ったフレグランスに、なんだか懐かしさを感じながら、私も抱きしめ返す。
「本当にありがとうね、優子さん。すごく助けられた」
「ううん、私も看病するの楽しかったから」
「優子さんも具合悪い時は俺を頼ってね。ちゃんと役に立てるようにがんばるから」
「うん、ありがとう」

 亮弥くんの体は、いつもどおりの体温。
 顔色も良く、熱でぼうっとしていた目にも力が戻った。
 好きな人が健康な状態にあるというのは、幸せなことだ。

「でも優子さんに移らなくて本当に良かった」
「ふふふ、免疫力高いでしょ」
「暮らしが健康的だもんね。……あのさ」
「うん」
「俺も今、生活リズム整えようと思ってね、いろいろがんばってるの」
「え……」
「そのためにちょっと無理し過ぎて、今回はあんなことになっちゃったけど……。でももう少ししたら、仕事終わる時間も早くなると思う。そしたら……その……」
 亮弥くんは体を離して、私の目をじっと覗き込んだ。
「うん」
「えっと……、その、……家でごはん作ったりとか、もっとちゃんとしようと思って」
「ほんと? 偉い!」
「優子さんの話聞いて、けっこう危機感持っちゃったりして……。いろいろちゃんとしなきゃなって」
「そうなんだ。嬉しい」
 その言葉が本心だということは、伝わっていた。
 でも、亮弥くんが飲み込んだであろう言葉にも、私は気づいていた。
 ただ、それを聞いても返事に困ってしまうかもしれないと思ったから、ずるいけど、敢えてその言葉を引き出しには行かなかった。

 私の生活リズムを崩したくないと言ってくれた亮弥くんが生活リズムを見直す動機は、容易に察せる。
 その望みを、私は既に聞かされている。
 でも今は、私には、何も決められない。

 この前のお礼にと、亮弥くんがケーキを買ってきてくれたので、私はコーヒーを淹れ始めた。
「あとこの前出してもらった費用、デスクに置いとくね」
「えー、そんなの別にいいのに」
「全然よくないし。めっちゃお金使わせたじゃん。足りてなかったら言って?」
「足りる足りる」
 本当に気にしてなかったけど、亮弥くんきっちりしてるなーと、私は嬉しく思った。

 数日前――熱が下がった日、「このまま治ったら週末に会いに行っていい?」と淋しそうな顔を見せる亮弥くんに、私はいいよと答えた。
 いいよ、なんて余裕ぶっているけど、一日でも早くゆっくり会いたかったのは、むしろ私のほうだった。
 あの後連休が明けて仕事が始まって、実家での辛かった記憶は薄らいでいった。
 でも、亮弥くんを求める気持ちは変わらず残った。
 いつの間にか、亮弥くんを心の支えにして、少しでもながく一緒に居たい、そしてできるだけ触れていたいという気持ちが、私を支配するようになっている。
 そのことに不安を感じる自分も、同時に存在している。
 それでも今は、二人で居られる時間がもたらす安らぎに身を委ねていたいのだ。

「それじゃ、優子さんの話聞かせて」
 二人でテーブルにつき、ケーキを食べ始めるやいなや亮弥くんが言った。
「もう聞くの?」
「もう聞く。今日は何よりそれが最優先だから。ずっと気になってたし」
「……ありがとう」
 気にかけててくれて嬉しいなと思いつつも、少しためらった。
 日が経って気持ちが落ち着いたこともあり、亮弥くんに聞いてもらうほどのことだったのか、あるいは聞かせていいことなのか、迷いが生じていた。
 あの出来事は、両親と私の、恥ずかしい部分なのだ。

 ケーキの手前でフォークを迷わせていた私に、亮弥くんが尋ねる。
「……話しにくいことなの?」
「うん……、少し」
「そっか……」
 俯く私の頬に、亮弥くんの手が伸びてきてそっと触れる。
 私は視線を上げた。
 切なげな瞳が私の目を覗き込む。
「何があったかわからないけど、優子さん、傷ついたんでしょ?」
「え……」
 なんでわかったんだろう、と私は少し驚いた。
「俺は優子さんの辛いこと、全部受け止めたいけど」
「亮弥くん……」
「話したくないことまで聞き出すつもりはないけど、共有できることなら共有したいって、俺は思ってるから……」
 亮弥くんは頬から手を離して、自分のケーキを一口フォークに掬い取り、スッとこちらに差し出した。
「はい。まずはケーキの共有から」
 その唐突な行動に、思わず笑ってしまう。
「あはは、何それ」
 亮弥くんも、口角の上がった美しい微笑みを見せる。
「ほら、口開けて」
 私は亮弥くんのケーキを口に迎え入れた。
 ココアを振ってあるほろ苦のチョコレートケーキは、ねっとりとした感触を残しながら消えていく。
「優子さんのもちょうだい」
「うん、いいよ」
 私も一口差し出すと、亮弥くんがそれを口に含む。
 下げられた瞼の淵に長い睫毛が降りて、薄く覗く瞳を隠す。
「おいしい」
「ね、おいしいね」
 二人でにこにこしていたら、だんだん気持ちもほぐれてきた。
 亮弥くんの作戦は、成功だったようだ。

「あのね、恥ずかしい話なんだけど、私、両親とあんまり相性が良くなくて……」
 私は実家であったことと、自分が感じたことを、できるだけ冷静に、できるだけそのまま、亮弥くんに伝えた。

 転職のことを話すために実家に行ったこと。
 なかなか話を聞いてもらえなかったこと。
 それが普段からよくあることで、私は理不尽に思っていること。
 ようやく話せた時の状況、反応。飲み込んだ言葉。
 それでも精いっぱい笑顔で別れてきたことや、帰りの車の中での母との会話。
 電車で妹に言われたこと――つまり私にも非があったということも。

 亮弥くんは途中で口を挟まず、真剣な顔で相づちを打ちながら私の話を聞いてくれて、それだけでも私はホッとしていた。
 最後まで聞き終えると、亮弥くんは言った。
「なんか……酷くて、悲しくなっちゃった……」
 困惑とやるせなさが混ざるその声は、力を失った視線と共に床に落ちていく。
「……なんて言えばいいのかホント……、わからないんだけど」
 亮弥くんはもどかしそうに下唇を噛んだ。
「優子さん、館山に移るつもりでいるくらいだし、実家だと安心できる部分もあるのかなって思ってたから……」
「そうだよね……」
 実家=安心という認識が無い私には、そんな期待すら起こらなかった。
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