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第2章

1 昔の恋人⑦

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 正直、心が動かなかったと言えば嘘になる。
 久しぶりに話してみて、私はあれから、恋愛感情抜きにしても、正樹以上に心を許せる人には出会っていないことに気づいていた。
 関係をイチから構築する必要もないし、お母さんともうまくやれるという安心感もある。
 もしもう一度誰かと恋愛をするのなら、正樹以上に私を満たしてくれる人はいないかもしれない。
 三十を超えると、いいなと思う年上の男性は結婚していることがほとんどで、そうでなくても結婚予定の彼女がいたりするから、正樹がフリーというのはある意味奇跡的でもある。
 しかも、私を想って一人でいてくれたなんて、贅沢にも程がある。これは私が幸せになれる最後のチャンスかもしれない。

 ……でも。
「ごめんね、すごく嬉しいけど、応えられない」
 桜井さんに話を聞いた時、「正樹が他の人に取られてしまう」と焦る気持ちが全くなかった。
 たった今も、心に何の引っかかりもなく正樹に桜井さんを勧めてた。
「私にはもう、正樹に自分だけ見ててほしいっていう気持ちが無い。そんな気持ちで応えたら、正樹にも、桜井さんにも失礼だから。ごめんなさい」

 自分の気持ちを隠さずに口にするのは勇気がいる。
 それが相手の意向に反するとわかっていれば、なおさらだ。
 私は少し緊張しながら、正樹の表情を見つめた。
 正樹はゆっくり視線を下ろした後、少し笑って、
「そっか……」
 そう呟いた後、またこちらに視線を戻した。
「残念だけど、ちゃんと返事聞けてよかった。ありがとう」

 私は胸が痛んで、弁解するように言葉を繰り出した。
「ごめんね、本当にすごく嬉しいよ。でも、正樹には私じゃ多分ダメなんだと思う。ていうか正樹に限らず、私は、ダメなんだと思う。誰かと生きるのは、向いてないんだと思う。だから、ごめんなさい」
「優子はダメなんかじゃないよ。俺が未熟で優子に相応しくなかっただけ。だから、ちゃんと優子に見合った人見つけて、幸せになってよ」
 「ううん、正樹より上はいないと思う。その正樹でダメになったんだから、もう、ダメだと思う」
「そんなことないって」
「あるよ。でもね、いいの。一人でいるのが一番合ってる気がするの」
 そう言うと、正樹は「そうなんだ」と笑った。
「まあ、結婚だけが幸せじゃないし、優子が優子らしくいられるなら、それが一番だから。それも含めて、幸せになって」
「うん、ありがとう……」
 一人がいいという思いを一回で聞き入れてもらえて、ホッとしている自分がいた。
 大人だな、正樹は。ちゃんと相手の気持ちを汲みながら受け答えできる。

 惜しい気持ちも少しだけ無くはない。
 でも、こういう時は手放しで飛び込めない自分の感覚を大事にしたほうがいい。

 あの時、お母さんのサポートを終えて正樹と別れた後、私は体調を崩して二ヶ月ほど仕事を休んだ。そのことを、正樹は知らない。
 無理して都合をつけてお世話を続けて、恋人には傷つけられ、挙げ句無理が祟って苦しい思いをして、職場にも迷惑をかけて、一連のことは私にとってとても苦い思い出だった。
 もちろんそれが正樹のせいだとは思っていないし、自分で決めてやったことなのだけど、もう一度正樹のもとに戻ったらいつかまた繰り返すのではという不安は心の奥に残っていた。

 私は誰かといると、つい自分の気持ちや都合よりも相手を優先させてしまうことが、これまでの経験でわかっている。
 相手からしてみれば、何にでも応えてくれる私はさぞ都合がいいだろう。
 優しさを当てにされて気が引けてしまうのは、優しさは慣れると都合の良さにすり替えられていくことを知っているからだ。
 だからもう誰とも深い関係になりたくない。
 私は一人で居て初めて、誰にも搾取されず、自分の都合で自分らしく生きることができる。
 そう気づいたのは、一人の日々が長く続いてからだった。

 やがて、桜井さんから正樹とおつき合いを始めたという報告があった。
 ホッとしたし、うまくいってほしいと心から思った。
 正樹にもう実家に行くなと言われた時、ぐっと飲み込まずに自分の意見をちゃんとぶつけて話し合えば、もっと軽くやり過ごせたのかもしれない。
 翌日謝られた時、自分はこんなに傷ついたと主張できれば、お互いに思いを共有して先に進めたのかもしれない。
 でも私にはそれができなかった。
 桜井さんなら、きっとできるだろう。

 そしてその後、正樹と直接話すことはなくなったけど、なぜか桜井さんこと実華ちゃんとは友人関係が深まっていくことになるのだった。
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