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アンチノック・スターチスの誤算
15.
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まるで救助を待つ遭難者のように、凍えた指先で制服の裾を掴む。襖一枚を隔てた向こう側の世界が、ずっと騒がしい。とりわけ、一之進の婚礼が惚れ合った者同士のそれではなく、咲という女の想い人を探すための手段だったと説明する声が一番大きかった。パーテーションを隔てた鳴海にもしっかり聞こえるように、普段の彼の性格からは想像もできないくらい、声を張り上げてくれたのがわかる。
鳴海の肩を持ってくれたのではない。事実を知らされないままでいるのは不公平だ、とぐらいにしか思っていないのかもしれない。拓真にとっては、ただそれだけのことだ。誰に対してもリベラルであろうとする彼の生真面目さが、この瞬間凍えきった鳴海の指先に再び血脈を思い起こさせた。
ずっと、何ひとつ納得なんかしていない。
一之進が駄目だと頭から否定するそれらすべてが、鳴海にとっては愛のかたちそのものだった。生きているとか、死んでいるとか。本当に、心の底からどうでもいい。今好きな子が近くにいて、望めば毎日だって会える。その体に触ることを許されているのも、この世界でただひとり自分だけ。
その現実以上に大事なものなんてないし、別の誰かの都合でその幸せが脅かされるだなんて我慢できない。
正直、詳細を知った今でも、咲だとかいう女の諸事情をどうにかしてあげようなんて仏心は一ミリも生まれてこなかった。知ったことかよ。この一言に尽きる。けれど、誰にでも優しいあの子が、鳴海に全く可愛くない嘘をついてまで、どうにかしてあげたいと全力で動いているというのなら――。
「やめよう」
考えるのを。
我慢するのを。
一之進が鳴海の望む未来を、一番嬉しいタイミングで、選んで、許して、迎えに来てくれるのを、ただ何もせずに大人しく待つのを。
一番じゃなくたっていい。世界一最悪なタイミングでも構わない。駄々を捏ねてまで手に入れたかったすべてを取り上げられたって、鳴海が夢見る未来のかたちを、何ひとつ許してくれなくたって。
鳴海がそうしたいと願った時に、そのように生きることを許してあげられるのは、鳴海以外にいないのだから。
競馬でスタートダッシュを踏み込む競走馬の後ろ足みたいに、強く畳を蹴り上げて鳴海は立ち上がった。黒い縁に爪を引っ掛けて、隣町にまで響くんじゃないかと思う程大きな音を立てながら襖を開く。
天の岩戸が開いた、と拓真は思った。
ビリビリと首筋を這い上がるような怒りのエネルギーにあてられ、恐る恐る音のした方を振り返る。
相変わらず、少女漫画のヒロインのように長い睫毛に縁取られた大きな目がしっかりとこちらを見ていた。にっこりと微笑みかけられたのに、背後にどす黒い百鬼夜行のような禍々しさを感じるのは錯覚だろうか。
「俺、いち君を迎えに行きたい」
きっぱりと、鳴海が言った。一切のしがらみから解き放たれたような朗らかな声だった。
「……幼稚園のお迎えじゃないんだぞ。迎えに行きたいからって、やすやすと迎えに行く方法なんかない」
「俺を描いたらいいよ」
「は?」
うんざりした声で鳴海を嗜める烏丸に従わず、鳴海がとんでもないことを言い出した。顰めっ面でぽかんと口をあけたまま、烏丸はゆっくりと視線をキャンバスに移す。主語はなかったが、何にどうしろと言っているのかは「描く」というワードで否が応でもわかってしまった。
「な……っ、鳴海さん……!?」
拓真が咄嗟に鳴海を引き止める。悲鳴のような声だった。
「意味がわからない」
ややあってから烏丸は、宥めるというより率直な気持ちでそう言った。心からの言葉だった。
「わかんなくても良い。ちゃんと考えようと思ったけど、やめた。最初からわかってるしとっくに結論が出てることを、わざわざちゃんと考えようとしたって、ろくなことになんないってわかったから」
「お前はさっきから何を言ってるんだ」
「他の女と結婚なんて、嘘でだってしてほしくない。俺はいち君を迎えに行くよ」
「それじゃわざわざむかさりを描かせた意味がないだろ!」
我慢ならなくなった烏丸が、雷槌を振り下ろすように叫んだ。閃光が真っ二つに空気を割いたような勢いがあったが、鳴海はつるりとした顔でそれを受け取めた。
「猿芝居だろうがなんだろうが、一之進と咲を結婚させる。弟をこっち側に丸め込めば、姉の頭だって冷静になるだろ。あの山は今、姉が積み上げた呪いと恨みで覆われて、外部の何かがどうやっても干渉できない状況だ。何でもいいから突破口を作らないと、深手を負った恭介が満足な治療も受けられないまま、あの山に閉じ込められることになるんだぞ!」
その山の中には圭吾さんもいるんだけどな、とは拓真は思っても口にしなかった。沈黙以上に正解のない場面だと本能で悟った。
「咲さんは多分、嘘をついてると思うよ」
鳴海が、落ち着き払った声で烏丸に立ち向かう。我関せずといった顔で柱と一体化していた智也が、ちらりと視線を鳴海にやった。
「あの人の全部を、信用することはできない」
「何を言ってるんだお前」
本日二回目のそれを、烏丸は口にする羽目になった。まさか、今更そんなことを言われるとは思いもしなかったから。
「……おかしいと思わない?」
対して、鳴海の声はひどく冷静だった。まるで、ターゲットを狙うスナイパーのように。或いは、狩りに出る直前の獣のように。己の感情と本能を、確実に獲物を仕留めるために自ら律しているような声だった。
「それならどうして、咲さんだけがその山から外に出られているの? 弟の婚約者だなんて、当事者も良いとこじゃん。なのに何で咲さんだけが山を離れることができて、離れたがために今、改めて恋人を見つける必要ができてむかさりを描くだなんて回りくどいことをしているのか、誰か説明できる?」
「……」
「……仮に、咲という女が嘘をついているとして……何のために、そんな嘘をつく必要があったんだ?」
黙した烏丸に代わって、智也が鳴海を促す。検察官が裁判で冒頭陳述を読み上げるように理路整然とした声だった。
「知らないよそんなの」
にべもなく、鳴海が言った。拓真はずっこけたかったが、とてもそんなコミカルなリアクションを取ることが許される空気ではなかったため、しゃんと背筋を正すのに留める。
「何か嘘をついているのは確実だし、咲さんに会ったら、真意を確かめるくらいのことはするよ。必要なら……というかいち君が望むんなら、彼女のために最低限の手助けはするけど。俺的にはいち君を取り戻すことが最重要ミッションだから。後のことはその都度、その時に決めるよ」
あらゆる反対を薙ぎ払うように凛とした声で、鳴海がはっきりと言い切った。灘を眼の前で真横に切られたのではと錯覚するくらい、太刀打ちできない強い意志がそこにはあった。
「……手段ならある」
「おい!」
傍観者を決め込んでいた絵師が言った。制する烏丸の声をひらりと躱し、画材の中から筆の水分を吸わせるためのガーゼを取り出し、食パンのように乱暴に千切る。
「俺は、倫理観に重きを置くタイプの大人じゃないからな。方法があることについては反対しないし、提案はする。お前をむかさりに描いてもお前が無事でいられる保証はないが、やり方を間違えず、保険をかければ多少なりとも生存率はあがる」
「生存率?」
「これにお前の血を吸わせろ」
親指と人差し指で軽く潰しながら、解け損なった雪のようなガーゼを鳴海の前に翳した。
「俺が、それをもとに依代を作る。生者がむかさりの中に居続けられるのは、四十分が限度だ。四十分経ったら、お前の目的が達成していようがいなかろうが、俺がお前の魂を依代に引き戻す」
「……」
「理想は、咲の真意を探り、一之進を説得する。その上で弟の霊をむかさりの中に捉える方法を見つけ出し、恭介と圭吾が捕われている山の結界に歪みを作って二人を救出する……までできたら御の字だろうけど。繰り返し言うが、タイムリミットは四十分だ。それ以上は待てない」
「鳴海さん……あまり危険なことはやめた方が……」
お人好しの拓真が、まるで自分がそうしろと言われたかのように青ざめて鳴海を引き止める。その優しさだけを受け取り、鳴海はゆるく首を振った。
「俺、思ったより大人げないみたい。だからごめんね、駄目って言われてもやめられないや」
親指を食み、爪に歯を立てて噛みちぎる。ギザギザののこぎりのようになったその爪で、人差し指の腹を真っ二つにするみたいに引っ掻いた。滲み出たその鮮血を、受け取ったガーゼに染み込ませる。
薄く描かれた、花婿衣装を身に纏ったむかさりの一之進をちらりと見遣って、鳴海は改めて喉で息を殺すように呻いた。
そんな可愛い格好で、俺以外の隣に立つなんて絶対に許さない。
「……万一、恭介が悲しむようなことになったら一生根に持つからな」
ふいに、そんなことを烏丸が言った。無事に帰って来いと言われたようにもとれるが、本当のところはわからない。恭介以外は野菜、良くて果物だと真顔で言い出しそうな男だ。言葉の通り、恭介を泣かせたくなかっただけなのかもしれないが、そんなことはどっちであろうと大した問題じゃない。
絵師が、筆を取った。マジマジと見るのはやめて、鳴海は意味もなく欄間に視線を走らせる。
むかさりに描かれたことで、ここに戻れなくて、うっかり死んじゃうことになったとしても。
(構わないんだけどな)
とは、思っても言葉にしない方が良い。
きっと、世界一大好きなあの子に嫌われてしまうから。
もしかしたらこの世の中に、偶然だなんてロマンチックな現象はないのかもしれない。
あらゆる出来事には、大抵理由が紐づいてくる。後付であれ、明確であれ。行動した結果に生まれるのは必然で、立っている場所の後ろには辿ってきた軌跡が続いているし、足元には自身の選択で動いた数だけの責任が転がっている。
責任とは、悪行や善行に関わらずひっついてくるものだ。大袈裟な言い方をすれば、人が一人分の命を抱え、その場から一歩足を踏み出すだけで生まれるものなのだと思う。
息を吸って、吐いて、瞬きをして。そんなささやかな行為でさえ、世界には簡単に変化を与えてしまうし、行為の裏側には某かの因果がひっついてくる。
生きている、ただそれだけで世界は動く。
たとえ僅かな風でさえ、何も揺らさずにそこに存在していることはできないのだから。
「しのが、子供の霊を見たって言わなきゃわからなかったな」
まるで山肌に張り巡らされた動脈のように、あちこち隆起している木の根を避けながら恭介が言った。しっとりと貼り付くシャツからは、殆どの水分が蒸発している。小脇に抱えていた青碧のブレザーは、躓いた時にうまく手をつけなかったのを切欠に、腰に巻き付けてしまった。スラックスについた砂利を乱暴に払い、布地に刷り込まれた粒を雑にはたき落とす。
ブレザーの袖を縛りつけた瞬間だけ、脇腹の傷が痛んだがうまく誤魔化せた、と思う。
「もし、しのの言ってた子供の霊が、依頼者に取り憑いてる悪霊の弟で、咲さんの婚約者だったとしたら辻褄があわない」
「ええ。昔と言えど、あの歳の子供はまだ結婚できませんからね」
湿気を孕んだ枯葉が、安っぽい絨毯のように圭吾の靴底に纏わりついてくる。まるで、森全体がその行く手を拒んでいるみたいだった。
「幽霊の姿は、イコール死んだ年齢とは限りません。自身が一番幸せだったと思う時のそれに、無意識に変えてしまうこともありますから。なので咲さんの服装や髪型について、改めて拓真さんに確認を取ったんです。結果、」
滴に濡れた松の葉を避けながら、圭吾が言った。
「肩まで届くセミロングの髪に、オフホワイトのワンピース。ライトブラウンのブーティを履いて、薄手のカーディガンを羽織っているそうですよ」
「……どう考えても、亡くなったのは最近だな」
溜息をついて、恭介が寝起きの猫のように髪の毛を掻き毟った。
「人は、うまく嘘をつこうとする時に、半分は事実を交えて話すことがあります。咲さんが亡くなったのが最近で、それでも弟さん、或いはお姉さんに某かの因果があって、誰かの婚約者だったというのが事実だとしたら……」
「姉が」
かさついた唇が震える。
もしかしたら、でも想像したくない事実がそこにあった。
「弟の供養ために殺した、霊能者の中に……いたのか。彼女の、婚約者が」
「……可能性はあると思います」
低く答えて、圭吾が目を伏せた。
「もしそうであるなら、咲さんを動かしている原動力は強い恨みです。万一、むかさりの降霊が成功してしまったら……弟さんの霊を目の前にして、何をしでかすかわかりません」
「急ごう。一之進のことも心配だ」
ネクタイを緩めて、その端を胸ポケットにねじ込む。ぐん、と足にスピードを乗せ、恭介は相棒に一言言い置いた。
「これ以上、絶対に犠牲者なんか出さない」
「ええ。承知の上です」
鳴海の肩を持ってくれたのではない。事実を知らされないままでいるのは不公平だ、とぐらいにしか思っていないのかもしれない。拓真にとっては、ただそれだけのことだ。誰に対してもリベラルであろうとする彼の生真面目さが、この瞬間凍えきった鳴海の指先に再び血脈を思い起こさせた。
ずっと、何ひとつ納得なんかしていない。
一之進が駄目だと頭から否定するそれらすべてが、鳴海にとっては愛のかたちそのものだった。生きているとか、死んでいるとか。本当に、心の底からどうでもいい。今好きな子が近くにいて、望めば毎日だって会える。その体に触ることを許されているのも、この世界でただひとり自分だけ。
その現実以上に大事なものなんてないし、別の誰かの都合でその幸せが脅かされるだなんて我慢できない。
正直、詳細を知った今でも、咲だとかいう女の諸事情をどうにかしてあげようなんて仏心は一ミリも生まれてこなかった。知ったことかよ。この一言に尽きる。けれど、誰にでも優しいあの子が、鳴海に全く可愛くない嘘をついてまで、どうにかしてあげたいと全力で動いているというのなら――。
「やめよう」
考えるのを。
我慢するのを。
一之進が鳴海の望む未来を、一番嬉しいタイミングで、選んで、許して、迎えに来てくれるのを、ただ何もせずに大人しく待つのを。
一番じゃなくたっていい。世界一最悪なタイミングでも構わない。駄々を捏ねてまで手に入れたかったすべてを取り上げられたって、鳴海が夢見る未来のかたちを、何ひとつ許してくれなくたって。
鳴海がそうしたいと願った時に、そのように生きることを許してあげられるのは、鳴海以外にいないのだから。
競馬でスタートダッシュを踏み込む競走馬の後ろ足みたいに、強く畳を蹴り上げて鳴海は立ち上がった。黒い縁に爪を引っ掛けて、隣町にまで響くんじゃないかと思う程大きな音を立てながら襖を開く。
天の岩戸が開いた、と拓真は思った。
ビリビリと首筋を這い上がるような怒りのエネルギーにあてられ、恐る恐る音のした方を振り返る。
相変わらず、少女漫画のヒロインのように長い睫毛に縁取られた大きな目がしっかりとこちらを見ていた。にっこりと微笑みかけられたのに、背後にどす黒い百鬼夜行のような禍々しさを感じるのは錯覚だろうか。
「俺、いち君を迎えに行きたい」
きっぱりと、鳴海が言った。一切のしがらみから解き放たれたような朗らかな声だった。
「……幼稚園のお迎えじゃないんだぞ。迎えに行きたいからって、やすやすと迎えに行く方法なんかない」
「俺を描いたらいいよ」
「は?」
うんざりした声で鳴海を嗜める烏丸に従わず、鳴海がとんでもないことを言い出した。顰めっ面でぽかんと口をあけたまま、烏丸はゆっくりと視線をキャンバスに移す。主語はなかったが、何にどうしろと言っているのかは「描く」というワードで否が応でもわかってしまった。
「な……っ、鳴海さん……!?」
拓真が咄嗟に鳴海を引き止める。悲鳴のような声だった。
「意味がわからない」
ややあってから烏丸は、宥めるというより率直な気持ちでそう言った。心からの言葉だった。
「わかんなくても良い。ちゃんと考えようと思ったけど、やめた。最初からわかってるしとっくに結論が出てることを、わざわざちゃんと考えようとしたって、ろくなことになんないってわかったから」
「お前はさっきから何を言ってるんだ」
「他の女と結婚なんて、嘘でだってしてほしくない。俺はいち君を迎えに行くよ」
「それじゃわざわざむかさりを描かせた意味がないだろ!」
我慢ならなくなった烏丸が、雷槌を振り下ろすように叫んだ。閃光が真っ二つに空気を割いたような勢いがあったが、鳴海はつるりとした顔でそれを受け取めた。
「猿芝居だろうがなんだろうが、一之進と咲を結婚させる。弟をこっち側に丸め込めば、姉の頭だって冷静になるだろ。あの山は今、姉が積み上げた呪いと恨みで覆われて、外部の何かがどうやっても干渉できない状況だ。何でもいいから突破口を作らないと、深手を負った恭介が満足な治療も受けられないまま、あの山に閉じ込められることになるんだぞ!」
その山の中には圭吾さんもいるんだけどな、とは拓真は思っても口にしなかった。沈黙以上に正解のない場面だと本能で悟った。
「咲さんは多分、嘘をついてると思うよ」
鳴海が、落ち着き払った声で烏丸に立ち向かう。我関せずといった顔で柱と一体化していた智也が、ちらりと視線を鳴海にやった。
「あの人の全部を、信用することはできない」
「何を言ってるんだお前」
本日二回目のそれを、烏丸は口にする羽目になった。まさか、今更そんなことを言われるとは思いもしなかったから。
「……おかしいと思わない?」
対して、鳴海の声はひどく冷静だった。まるで、ターゲットを狙うスナイパーのように。或いは、狩りに出る直前の獣のように。己の感情と本能を、確実に獲物を仕留めるために自ら律しているような声だった。
「それならどうして、咲さんだけがその山から外に出られているの? 弟の婚約者だなんて、当事者も良いとこじゃん。なのに何で咲さんだけが山を離れることができて、離れたがために今、改めて恋人を見つける必要ができてむかさりを描くだなんて回りくどいことをしているのか、誰か説明できる?」
「……」
「……仮に、咲という女が嘘をついているとして……何のために、そんな嘘をつく必要があったんだ?」
黙した烏丸に代わって、智也が鳴海を促す。検察官が裁判で冒頭陳述を読み上げるように理路整然とした声だった。
「知らないよそんなの」
にべもなく、鳴海が言った。拓真はずっこけたかったが、とてもそんなコミカルなリアクションを取ることが許される空気ではなかったため、しゃんと背筋を正すのに留める。
「何か嘘をついているのは確実だし、咲さんに会ったら、真意を確かめるくらいのことはするよ。必要なら……というかいち君が望むんなら、彼女のために最低限の手助けはするけど。俺的にはいち君を取り戻すことが最重要ミッションだから。後のことはその都度、その時に決めるよ」
あらゆる反対を薙ぎ払うように凛とした声で、鳴海がはっきりと言い切った。灘を眼の前で真横に切られたのではと錯覚するくらい、太刀打ちできない強い意志がそこにはあった。
「……手段ならある」
「おい!」
傍観者を決め込んでいた絵師が言った。制する烏丸の声をひらりと躱し、画材の中から筆の水分を吸わせるためのガーゼを取り出し、食パンのように乱暴に千切る。
「俺は、倫理観に重きを置くタイプの大人じゃないからな。方法があることについては反対しないし、提案はする。お前をむかさりに描いてもお前が無事でいられる保証はないが、やり方を間違えず、保険をかければ多少なりとも生存率はあがる」
「生存率?」
「これにお前の血を吸わせろ」
親指と人差し指で軽く潰しながら、解け損なった雪のようなガーゼを鳴海の前に翳した。
「俺が、それをもとに依代を作る。生者がむかさりの中に居続けられるのは、四十分が限度だ。四十分経ったら、お前の目的が達成していようがいなかろうが、俺がお前の魂を依代に引き戻す」
「……」
「理想は、咲の真意を探り、一之進を説得する。その上で弟の霊をむかさりの中に捉える方法を見つけ出し、恭介と圭吾が捕われている山の結界に歪みを作って二人を救出する……までできたら御の字だろうけど。繰り返し言うが、タイムリミットは四十分だ。それ以上は待てない」
「鳴海さん……あまり危険なことはやめた方が……」
お人好しの拓真が、まるで自分がそうしろと言われたかのように青ざめて鳴海を引き止める。その優しさだけを受け取り、鳴海はゆるく首を振った。
「俺、思ったより大人げないみたい。だからごめんね、駄目って言われてもやめられないや」
親指を食み、爪に歯を立てて噛みちぎる。ギザギザののこぎりのようになったその爪で、人差し指の腹を真っ二つにするみたいに引っ掻いた。滲み出たその鮮血を、受け取ったガーゼに染み込ませる。
薄く描かれた、花婿衣装を身に纏ったむかさりの一之進をちらりと見遣って、鳴海は改めて喉で息を殺すように呻いた。
そんな可愛い格好で、俺以外の隣に立つなんて絶対に許さない。
「……万一、恭介が悲しむようなことになったら一生根に持つからな」
ふいに、そんなことを烏丸が言った。無事に帰って来いと言われたようにもとれるが、本当のところはわからない。恭介以外は野菜、良くて果物だと真顔で言い出しそうな男だ。言葉の通り、恭介を泣かせたくなかっただけなのかもしれないが、そんなことはどっちであろうと大した問題じゃない。
絵師が、筆を取った。マジマジと見るのはやめて、鳴海は意味もなく欄間に視線を走らせる。
むかさりに描かれたことで、ここに戻れなくて、うっかり死んじゃうことになったとしても。
(構わないんだけどな)
とは、思っても言葉にしない方が良い。
きっと、世界一大好きなあの子に嫌われてしまうから。
もしかしたらこの世の中に、偶然だなんてロマンチックな現象はないのかもしれない。
あらゆる出来事には、大抵理由が紐づいてくる。後付であれ、明確であれ。行動した結果に生まれるのは必然で、立っている場所の後ろには辿ってきた軌跡が続いているし、足元には自身の選択で動いた数だけの責任が転がっている。
責任とは、悪行や善行に関わらずひっついてくるものだ。大袈裟な言い方をすれば、人が一人分の命を抱え、その場から一歩足を踏み出すだけで生まれるものなのだと思う。
息を吸って、吐いて、瞬きをして。そんなささやかな行為でさえ、世界には簡単に変化を与えてしまうし、行為の裏側には某かの因果がひっついてくる。
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ブレザーの袖を縛りつけた瞬間だけ、脇腹の傷が痛んだがうまく誤魔化せた、と思う。
「もし、しのの言ってた子供の霊が、依頼者に取り憑いてる悪霊の弟で、咲さんの婚約者だったとしたら辻褄があわない」
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「幽霊の姿は、イコール死んだ年齢とは限りません。自身が一番幸せだったと思う時のそれに、無意識に変えてしまうこともありますから。なので咲さんの服装や髪型について、改めて拓真さんに確認を取ったんです。結果、」
滴に濡れた松の葉を避けながら、圭吾が言った。
「肩まで届くセミロングの髪に、オフホワイトのワンピース。ライトブラウンのブーティを履いて、薄手のカーディガンを羽織っているそうですよ」
「……どう考えても、亡くなったのは最近だな」
溜息をついて、恭介が寝起きの猫のように髪の毛を掻き毟った。
「人は、うまく嘘をつこうとする時に、半分は事実を交えて話すことがあります。咲さんが亡くなったのが最近で、それでも弟さん、或いはお姉さんに某かの因果があって、誰かの婚約者だったというのが事実だとしたら……」
「姉が」
かさついた唇が震える。
もしかしたら、でも想像したくない事実がそこにあった。
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「……可能性はあると思います」
低く答えて、圭吾が目を伏せた。
「もしそうであるなら、咲さんを動かしている原動力は強い恨みです。万一、むかさりの降霊が成功してしまったら……弟さんの霊を目の前にして、何をしでかすかわかりません」
「急ごう。一之進のことも心配だ」
ネクタイを緩めて、その端を胸ポケットにねじ込む。ぐん、と足にスピードを乗せ、恭介は相棒に一言言い置いた。
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