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第四章

117 エピローグ

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 その幼い兄妹は息を切らして森の中を走っていた。
(こんなはずじゃ……っ!)
 兄であるアランは妹の手を引いて走る。
 彼はただちょっと試練の塔を覗き見しに来ただけだったのだ。
 第3の塔までは親に連れられて観光で見たことがあった。だから第4の塔を見に来たのだ。本当は一人でこっそり見に行くつもりだったのに、妹のアイリスに見つかって仕方なく妹のことも連れて。
 その道中のことである。あの三つ目の熊の野良精霊に出会ってしまったのは。
 ひぃひぃと息を切らせて走る。慌てすぎて来た道ではなく森の方に来てしまっていた。
 大人の姿はどこにもなく、助けを求められる場所も当然ない。
「……いっ!」
「アイリス!」
 転んでしまった妹をアランは慌てて立ち上がらせた。その膝からは血が流れている。
 そうしている間にも、熊は迫って来ていた。
(こんなことなら、せめてアイリスを連れて来なければよかった……っ!)
 アランは悲壮な覚悟を決めると、泣いている妹を近くの木のうろへと押し込んで、その木から少し距離を取ると「おい! こっちだ、デカブツ!!」と熊に叫んだ。
 熊が迫ってくる。
 アランは少しでも妹から熊を引き離そうと走り出そうとして、
「よく頑張ったね」
 唐突に響いたその声に立ち止まった。
 断末魔の悲鳴が上がる。
 振り返った彼の目の前で、三つの目を持つ熊はいくつもの棘に串刺しにされ、絶命した。
 呆然と立ち尽くすアランの前に熊の死体が崩れ落ちる。
「大丈夫?」
 天使の輪のかかったハニーブロンドの短い髪、風のない湖面のような静謐な青い瞳。目が覚めるような美少女が、そこには立っていた。
「聖騎士様だ!」
 妹が木のうろから這い出して嬉しそうに声を上げる。それに彼女はちょっと驚いた顔を作ると「しー」と人差し指を立てて口元に当てた。
「今日ここで僕に会ったことは内緒だよ」
「なんで?」
 無邪気に尋ねる妹の膝から血が出ているのに気づいたのか、彼女は屈んでその膝にハンカチを巻きながら言う。
「仕事をサボって出てきてるから、バレたら怒られちゃうんだよ」
「………いや、そこは怒られとけよ」
 助けてもらっておいてなんだが、アランは思わず言っていた。

 幼い兄妹を家まで送り届け、ミモザはレオンハルト邸に帰宅した。
 オルタンシアからのお叱りは明日以降に持ち越すのでいいだろうとの判断である。
 叱られたところで進む仕事ではないからだ。
 聖騎士を拝命してからというもの、オルタンシアからもアズレン王子からも無茶振りに近い仕事ばかりを投げられていた。一体レオンハルトはどうしていたのだろうと思うが、こうして思い返してみると任されている仕事の種類がまったく違う気がする。
(たぶん本当に違うんだろうなぁ……)
 ミモザはげんなりとする。
 まぁ、確かに人には適正というものがある。とはいえ違法行為すれすれな案件や状況やら人間関係やらがややこしすぎる案件ばかり投げなくとも、と思ってしまうのはミモザが悪いわけではないだろう。たぶんミモザは二人に厄介ごとを放り込むゴミ箱か何かと勘違いされている。
 ため息をつきつつミモザは部屋へと続く扉を開けた。
「おかえり」
「ただいま帰りました」
 扉の向こうではレオンハルトがソファにしなだれかかるようにして本を読んでいた。
 『元聖騎士』という単語に『ヒモ』とふりがながふられた文字がデカデカと書かれた黒いパーカーを着て。
(気に入ってしまったんだろうか……)
 ミモザは首を傾げる。
 このパーカーはもちろんミモザが作ったものでもレオンハルトが作ったものでもない。
 なんと市販品である。
 あの試合の後、ミモザとレオンハルトのやりとりを聞いていた誰かがこの元聖騎士パーカーを作って巷で流行らせてしまったのである。
 ガブリエルが面白がって買ってきた物を、レオンハルトは当初ミモザへの当て付けで着ている様子だったが、もはや普通に普段着の中に紛れ込んでしまっている。
 ちなみに今、レオンハルトは働いていない。が、何もすることがないと暇なのか最近は聖騎士時代に稼いだ有り余る金を使って投資に手を出しているようだ。
 正直、レオンハルトの資産は減るどころか増えている。
(ヒモってなんだっけ?)
 謎である。
 はてさて聖騎士とはなんだったか、仕事とは……? とミモザの思考が宇宙へ旅立ちかけた時、
「どうした? 座れ」
 とレオンハルトが促してきた。とりあえずそれに従ってミモザはソファの空いているところにちょこんと腰を下ろすと「それ気に入ったんですか?」と最初の疑問を投げかけた。
「うん? いや別に」
「はぁ、でも着るの嫌じゃないんですね」
 ミモザの言葉に彼はふんと鼻を鳴らした。
「あの一件で一生分の恥をかいたからな、もうあまり怖いものがない」
「それってゴ、」
 ゴキブリもですか、と言いかけたミモザの軽口はひとにらみで黙らされた。
 しばらくのんびりとレオンハルトは本を読み、ミモザはぼうっとオルタンシアへの言い訳と仕事をどう片付けるかについて考えるという時間が過ぎた。しかしいきなりレオンハルトはむくりと起き上がると、
「ミモザ」
 と呼んでぽい、と小さな箱を投げてよこす。思わず受け取ってその顔を見返すと、顎をしゃくられた。
 開けろと言うことだろう。
 ぱかりと躊躇なく開けると中には、
「指輪」
 が入っていた。おそらくダイヤモンドであろう石がはまったシンプルな金の指輪をミモザはしげしげと眺める。
「結婚するぞ」
 レオンハルトが断言した。ミモザは首をかしげる。
「するんですか」
 それに彼はちょっと嫌そうに目を細めた。
「しない理由がないだろう」
「うーん?」
 ミモザはちょっと考えてみる。一緒に住んで一緒に生活して、もはや家計まで一緒である。
「確かに」
 静かに頷く。レオンハルトは視線をよそにやったまま、もう一度、
「するぞ」
 と言った。
「はい」
 今度はミモザも素直に頷く。
「しましょう、結婚」
「ああ」
 二人は視線を合わせると、ちょっと微笑んだ。
 金色の瞳と青い瞳は見つめ合うと、どちらともなく唇を合わせる。
 ふと、ミモザの視界の隅に積まれた皿が見えた。それはいつだったかに見たレオンハルトの姿絵が描かれた皿と同じように、今度はミモザの姿絵が描かれている物である。
 ミモザは唇を離すとそれをじぃっと見た。初めてレオンハルト邸を訪れ、倉庫で皿を見つけてレオンハルトに質問したことを思い出す。
「どうした?」
 ミモザの視線の先を見て不思議そうにするレオンハルトに、
「レオン様」
 ミモザは彼を見上げて神妙に口を開くと、
「ああいう商品があるってことは……」
 あの時とまったく同じ質問をした。
「エロ本のたぐいもあるんでしょうか?」
「……君なぁ!」
 あの時よりも嫌そうに顔をしかめて、レオンハルトは語気を荒くする。
「何を言うかと思ったら! 俺は知らないし知りたくもない! くだらないことを言うな!」
「ちー……」
 そのまったく進歩のない会話の内容に、処置なし、といったふうに横で話を聞いていたチロは首を振ってみせた。
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