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貴族が離縁をするケースは多くない。夫に愛人がいても、横暴でも、愛情がなくても、仮面夫婦としてやっていく貴族は多い。
そうまでしても離縁をしないのは、大抵の場合、女性が割を食うからだ。実家に戻されては肩身の狭い思いをし、以前より良い縁は確実に無く、どこかの後妻になるか修道院に入るか、平民になるか。
ベルフィーナの実家、ブランドン伯爵家には、両親と兄夫婦が住んでいる。皆ベルフィーナを溺愛している――何故か兄嫁も――為、ゆっくり過ごせば良いと言ってくれるのが目に浮かぶようだ。
だから、離縁をしてもベルフィーナは困る事はないのにも関わらず、今まで耐えていたのは。
結婚式で、幸せを祝ってくれた友人達。
娘と離れる寂しさに両の目に涙を溢した両親。
送り出してくれた、気心の知れた使用人達。
皆んなの『幸せになってね』という期待を裏切るような気がして、まだ頑張れる、まだやれる事はある、としがみついていた。
……もう、そう考えた時点でとっくに愛は無くなっていたことにも気付かず。
夫の不貞と暴言に、半ば放心状態になりながらも、ベルフィーナの仕事は早かった。
数日の内に、調査隊に依頼した夫の素行調査を取り寄せると、見事なまでの裏切りっぷりだった。
「デリック、アルド、サティアスに……、みんな体格の良い男性ばかりで、……妻帯者もいるじゃない。」
中庭で睦み合っていたデリックだけではなく、騎士団員や薬師、王太子の侍従など、それぞれ関わり会いの無さそうな人ばかりを狙っていた。
複数の不倫の露呈を防ぐためか。……頭は回る方なのに、頭の悪い不倫の仕方な上、誠実さのカケラもない。相手が一人だったとしても嫌悪感は止まらないが、こんな遊び方は吐き気すらする。
これまで、ウォルターが不貞をするなんてまるで思っていなかった。実のところ、夫はあまり令嬢に人気のあるタイプではない。『優しそう』『穏やかそう』という評価なら貰ったことがある程度。
だから、帰りが遅くなったり翌朝になっても、『仕事が忙しいのね』としか思っていなかったのだ。その信頼が、砂のように崩れていく。
執務室で頭を抱えるベルフィーナは、夫への、僅かに残っていた愛情が枯渇していくのを感じた。心には無しか無い。
木枯らしすら吹かない砂漠の心境。
釣った魚に餌をやらず、水すら抜かれて干からびそうな時、他の沢山の魚にはせっせと愛想を振りまく男。要る?要らないに決まっている。
ベルフィーナはただの魚では無い。口をパクパク開けて愛を乞う期間は過ぎた。自ら見切りをつけて出ていく時だ。
男に、負けた。その衝撃は大きかった。
負けたというよりは、同じ舞台にすら立てていなかったのかもしれない。
いつの間に趣向を変えてしまったのか。ベルフィーナにはさっぱり分からなかった。
同性同士のカップルは少数派であるものの、ベルフィーナは特に偏見はない。少し年齢層が高いと差別する人もいる。
当然ながら後継はどこからか養子に取るしか無いため、血筋を気にする貴族ならばあまり歓迎されないだろう。しかし、その苦境を乗り越えられる愛がそこにあるのならば、制度上、結婚は可能だ。
恐らくウォルターはベルフィーナと同衾してから、何か違うと思ったのだろう。
だって、新婚当初はまだ、夫婦生活はあったのだから。
せめて婚姻する前に分かっていたのならと、たらればを考えても意味はない。
「……潮時ね。」
ベルフィーナはそう呟くと、実家へ向けて二通の手紙を書いた。一枚は建前の、もう一枚は本音の。
家を出ていく準備は済ませている。領主の仕事も前倒しで済ませ、一週間くらいは保つだろう。
いつも定期的に引継ぎ書も作っていた上、家令へは詳しく報告もしている。
全ての使用人をホールに集めると、ベルフィーナは美しい微笑みを浮かべて告げた。
「みんな、仕事中にわざわざごめんなさいね。急遽ブランドン家の方に里帰りすることになったの。これは餞別よ。……これまで良く働いてくれたお礼だから、美味しいものを食べるなりしてちょうだい。」
嘘でも、『これからも良く旦那様に仕えて頂戴。』とは言えなかった。
戸惑う彼らに、一人一人金貨一枚ずつ握らせると、少しの荷物と侍女ハンナと共に馬車へと乗り込んだ。
これは、モーティス伯爵家の馬車ではなく、呼び寄せた貸し馬車だ。
随分質素だが、家を出るベルフィーナにはちょうど良い。
「……あんまりです。おく……ベルお嬢様をこんなに蔑ろにして、こんな、」
「ハンナ。いいのよ。お父様に叱ってもらうから。」
ガタガタと揺れる馬車の中で、怒りを抑え切れないハンナを嗜める。全てを知るハンナは鬼の形相で泣いている。奥様ではなく、もう、結婚前の呼び方に戻したのは彼女の気持ちの表れだ。
ハンナは元々ベルフィーナの実家、ブランドン伯爵家で雇っていた侍女なので、二台呼んだ馬車のうち一台に乗せてブランドン伯爵家へ送る予定だ。
「……お母様に宜しく伝えて。必ず戻るから、2、3年は自由にさせてと。」
「本当に、ご同行しなくて良いのですか?そりゃあ、ベルお嬢様はなんでも卒なくこなすのは知っていますが、今のお嬢様を一人にするのは……、」
「私はもう22歳なのよ。家に戻ってももう使い道のある駒でもないし、どこかの後妻になるにしても、少しぐらい自由な時間を過ごさせて欲しい……我儘だけれど。」
手紙を見て怒り狂う両親と、兄の顔を思い浮かべて苦笑した。ベルフィーナに甘い三人なら、こってりとウォルターを絞り、離縁の手続きを進めてくれるだろう。
証拠も送りつけておいたので、夫を煮るなり焼くなり、どころでは無く爆散するまで追い詰めそうな家族に後を任せ、自分はその間修道院へ優雅に避難する予定だ。
修道院で、貴族の余裕のある暮らしとは違う清貧な生活を送ることで、身を清めたい気持ちでいっぱいだった。
そうまでしても離縁をしないのは、大抵の場合、女性が割を食うからだ。実家に戻されては肩身の狭い思いをし、以前より良い縁は確実に無く、どこかの後妻になるか修道院に入るか、平民になるか。
ベルフィーナの実家、ブランドン伯爵家には、両親と兄夫婦が住んでいる。皆ベルフィーナを溺愛している――何故か兄嫁も――為、ゆっくり過ごせば良いと言ってくれるのが目に浮かぶようだ。
だから、離縁をしてもベルフィーナは困る事はないのにも関わらず、今まで耐えていたのは。
結婚式で、幸せを祝ってくれた友人達。
娘と離れる寂しさに両の目に涙を溢した両親。
送り出してくれた、気心の知れた使用人達。
皆んなの『幸せになってね』という期待を裏切るような気がして、まだ頑張れる、まだやれる事はある、としがみついていた。
……もう、そう考えた時点でとっくに愛は無くなっていたことにも気付かず。
夫の不貞と暴言に、半ば放心状態になりながらも、ベルフィーナの仕事は早かった。
数日の内に、調査隊に依頼した夫の素行調査を取り寄せると、見事なまでの裏切りっぷりだった。
「デリック、アルド、サティアスに……、みんな体格の良い男性ばかりで、……妻帯者もいるじゃない。」
中庭で睦み合っていたデリックだけではなく、騎士団員や薬師、王太子の侍従など、それぞれ関わり会いの無さそうな人ばかりを狙っていた。
複数の不倫の露呈を防ぐためか。……頭は回る方なのに、頭の悪い不倫の仕方な上、誠実さのカケラもない。相手が一人だったとしても嫌悪感は止まらないが、こんな遊び方は吐き気すらする。
これまで、ウォルターが不貞をするなんてまるで思っていなかった。実のところ、夫はあまり令嬢に人気のあるタイプではない。『優しそう』『穏やかそう』という評価なら貰ったことがある程度。
だから、帰りが遅くなったり翌朝になっても、『仕事が忙しいのね』としか思っていなかったのだ。その信頼が、砂のように崩れていく。
執務室で頭を抱えるベルフィーナは、夫への、僅かに残っていた愛情が枯渇していくのを感じた。心には無しか無い。
木枯らしすら吹かない砂漠の心境。
釣った魚に餌をやらず、水すら抜かれて干からびそうな時、他の沢山の魚にはせっせと愛想を振りまく男。要る?要らないに決まっている。
ベルフィーナはただの魚では無い。口をパクパク開けて愛を乞う期間は過ぎた。自ら見切りをつけて出ていく時だ。
男に、負けた。その衝撃は大きかった。
負けたというよりは、同じ舞台にすら立てていなかったのかもしれない。
いつの間に趣向を変えてしまったのか。ベルフィーナにはさっぱり分からなかった。
同性同士のカップルは少数派であるものの、ベルフィーナは特に偏見はない。少し年齢層が高いと差別する人もいる。
当然ながら後継はどこからか養子に取るしか無いため、血筋を気にする貴族ならばあまり歓迎されないだろう。しかし、その苦境を乗り越えられる愛がそこにあるのならば、制度上、結婚は可能だ。
恐らくウォルターはベルフィーナと同衾してから、何か違うと思ったのだろう。
だって、新婚当初はまだ、夫婦生活はあったのだから。
せめて婚姻する前に分かっていたのならと、たらればを考えても意味はない。
「……潮時ね。」
ベルフィーナはそう呟くと、実家へ向けて二通の手紙を書いた。一枚は建前の、もう一枚は本音の。
家を出ていく準備は済ませている。領主の仕事も前倒しで済ませ、一週間くらいは保つだろう。
いつも定期的に引継ぎ書も作っていた上、家令へは詳しく報告もしている。
全ての使用人をホールに集めると、ベルフィーナは美しい微笑みを浮かべて告げた。
「みんな、仕事中にわざわざごめんなさいね。急遽ブランドン家の方に里帰りすることになったの。これは餞別よ。……これまで良く働いてくれたお礼だから、美味しいものを食べるなりしてちょうだい。」
嘘でも、『これからも良く旦那様に仕えて頂戴。』とは言えなかった。
戸惑う彼らに、一人一人金貨一枚ずつ握らせると、少しの荷物と侍女ハンナと共に馬車へと乗り込んだ。
これは、モーティス伯爵家の馬車ではなく、呼び寄せた貸し馬車だ。
随分質素だが、家を出るベルフィーナにはちょうど良い。
「……あんまりです。おく……ベルお嬢様をこんなに蔑ろにして、こんな、」
「ハンナ。いいのよ。お父様に叱ってもらうから。」
ガタガタと揺れる馬車の中で、怒りを抑え切れないハンナを嗜める。全てを知るハンナは鬼の形相で泣いている。奥様ではなく、もう、結婚前の呼び方に戻したのは彼女の気持ちの表れだ。
ハンナは元々ベルフィーナの実家、ブランドン伯爵家で雇っていた侍女なので、二台呼んだ馬車のうち一台に乗せてブランドン伯爵家へ送る予定だ。
「……お母様に宜しく伝えて。必ず戻るから、2、3年は自由にさせてと。」
「本当に、ご同行しなくて良いのですか?そりゃあ、ベルお嬢様はなんでも卒なくこなすのは知っていますが、今のお嬢様を一人にするのは……、」
「私はもう22歳なのよ。家に戻ってももう使い道のある駒でもないし、どこかの後妻になるにしても、少しぐらい自由な時間を過ごさせて欲しい……我儘だけれど。」
手紙を見て怒り狂う両親と、兄の顔を思い浮かべて苦笑した。ベルフィーナに甘い三人なら、こってりとウォルターを絞り、離縁の手続きを進めてくれるだろう。
証拠も送りつけておいたので、夫を煮るなり焼くなり、どころでは無く爆散するまで追い詰めそうな家族に後を任せ、自分はその間修道院へ優雅に避難する予定だ。
修道院で、貴族の余裕のある暮らしとは違う清貧な生活を送ることで、身を清めたい気持ちでいっぱいだった。
応援ありがとうございます!
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