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第四章 (王城 過去編)
フレッド 24−2
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今日は『イシューリニア』での視察だ。
昨日のシュウの発案に必要な蒸留酒『イシュトゥン』の製造地でもあるこの『イシューリニア』は、
我々の時代でも国内最大級の小麦の産地として名を馳せている。
馬車で蔵元に到着すると、あらかじめ早馬で大まかな話を伝えていたせいか、杜氏、蔵人も揃って我々の到着を待ちかねていた。
そして、到着後すぐに侯爵とアンドリュー王を交えての話し合いが始まった。
アンドリュー王から話し合いには参加しないようにと言われていたので、私はシュウとトーマ王妃と共に町へ散策に出ることになった。
我々3人の後ろからヒューバートが警護についてきたのはもちろんアンドリュー王の指示だ。
町でトーマ王妃とシュウに何かがあってはならないという判断だろう。
シュウたちは気づいていないが、若い騎士たち9人のうち半数以上はこっそりとついてきている。
それもアンドリュー王の指示だ。
過保護だと思うだろうが、私がアンドリュー王の立場であってもそうするに違いない。
それほどまでに2人が大事だということだ。
蔵元から歩いてすぐの場所にある町に出ると、あちらこちらから香ばしい香りが漂っている。
『イシューリニア』は酒の製造でも有名だが、パン屋が多いことでもよく知られている。
トーマ王妃もまたここのパンが好きなようで、その中でも故郷に似たパンを出す店に連れて行ってくれるという。
シュウたちが生まれ育った世界によく似たパン……うーん、惹かれるな。
手を取って連れて行こうとするトーマ王妃とに負けじと、シュウのもう片方の手をとり歩き進んでいく。
今日のトーマ王妃はアンドリュー王と揃いの衣装に身を包み、釦には王家の紋章が施されどこからどう見ても王妃だとわかる。
まぁ、トーマ王妃の代名詞ともいえる美しい黒髪が隠れていないのだから衣装はどんなものでもすぐに気づかれるだろうが。
そんなトーマ王妃が、美しい女性と2人で出歩いてはすぐに噂が駆け巡ることだろう。
例えシュウからトーマ王妃との散策に誘われなくても私はついていくつもりだったのだ。
シュウがトーマ王妃の愛人だと根も葉もない噂が流されても困るからな。
トーマ王妃もシュウも自分が目立つ存在なのだという意識が欠けている。
手をつなぎ合って歩いていればどれほど人目を惹くのかわかっていないのだ。
だからこそ、シュウを間に挟み私とシュウが腕を組んで歩くことで、トーマ王妃とのおかしな噂が流れないようにしている。
まぁ、トーマ王妃への対抗心もあるのだが……それは内緒にしておこう。
田舎町に突然現れた目を惹く我々に視線が集中し、周りがざわざわとしてきた。
ヒューバートに先に店に行って話をしてくるように言い、私は周りに注意しながら2人を連れパン屋へと向かった。
トーマ王妃推薦のパン屋は、煉瓦造りの可愛らしい雰囲気が漂う店だった。
シュウはこういう店が好きなんだよなとシュウをみると、やはり『わぁ』と感嘆の声を上げている。
それを見てトーマ王妃もまた嬉しそうな表情でシュウを見ていた。
そういう場面を見ると、やはり父親なのだなと思う。
子が喜ぶ姿を見るのは親として幸せなことだからな。
店の入り口で待つ店主とヒューバートに迎えられ、
ひととおり挨拶をしている間に店の外に人が集まりだんだんと騒ぎになっている。
外での話はこれくらいにして……と中に案内してもらうと、4人掛けの席に案内された。
この場合はどう考えても、夫夫である我々が隣同士に座るものだろう。
しかし、トーマ王妃の鋭い視線がそれを許そうとしない。
『トーマ王妃、広い席をお使いください』
『いや、アルフレッドさんがひとりで使った方がいいでしょう』
目は口ほどに物を言うというが、トーマ王妃の目がシュウと隣同士に座らせろと訴えかけてくる。
一瞬目を離した瞬間に、シュウはトーマ王妃の隣にちょこんと座らされていた。
はぁ……。
仕方ない。こんなことで喧嘩するなど大人の振る舞いではないからな。
今日この時だけはトーマ王妃に譲ってやることにしよう。
トーマ王妃は私に勝ち誇ったように笑顔を向け、先程の店主から品書きを持ってこさせた。
シュウから『お任せで』と頼まれたトーマ王妃は数種類のパンと紅茶を注文し頼んだものが来るまでの間、ひたすらシュウの方ばかりを向いて会話を楽しんでいた。
外に集まる人たちをみて、シュウが『手を振って見せて』とおねだりすると、トーマ王妃は少し照れながらも、外に集まる町人に手を振って応えていた。
先ほどまでシュウに向けていた柔らかな表情から、一瞬にして王妃の表情へと変わる。
ここがトーマ王妃の凄いところだろう。
トーマ王妃が手を振ると、外に集まっている者たちから熱狂的な歓声が上がる。
その激しさにトーマ王妃本人は恥ずかしそうだが、シュウは自分の父親がここまで国民に慕われているのを見て感激しているようだ。
シュウがトーマ王妃の顔が赤くなっていることを揶揄いながら、お互いに寄り添って話をしていると
外にいる者たちからさっきとはまた違う歓声が上がっている。
『きゃーっ、きゃーっ』
『可愛い! あの子誰?』
『なんか距離が近すぎない??』
『もしかして王妃さまの愛人とか?』
『きゃーっ、あれだけお似合いならそれでもいいわ』
2人が寄り添って話をしている光景はまさに芸術のようだ。
年の近いシュウとトーマ王妃が親子だとは決して誰も思うまい。
やはりあれだけ距離が近いと愛人だと勘違いすることも有り得る。
しかし、シュウは私だけのものなのだ。
たとえ、トーマ王妃が父親であったとしてもシュウを渡せるわけがない。
シュウは何故外にいる者たちが騒いでいるのかもわかっていないようだ。
「シュウとトーマ王妃が話している姿は絵になるからな。
シュウ、お前……自分が美しい女性だって自覚はあるか?」
そう教えてやると、シュウはやはりわかっていなかった。
トーマ王妃に尋ね返すと、トーマ王妃は私の心をわざと揺さぶるようにシュウに甘い言葉をかけ、頭を優しく撫でて見せた。
その瞬間、外から『きゃーっ、王妃さまー!!』とより一層大きな歓声が上がった。
「トーマ王妃、そんなことをしていては若い娘と浮気をされていると誤解されますよ」
さりげなく、アンドリュー王のことを間接的に言ってみると、
『あっ、それは困るな』と慌ててシュウの髪から手を離した。
やはりこれが一番効果があるな。ふふっ。
トーマ王妃にとってシュウはもちろん大事だが、アンドリュー王もまた大切な存在なのだ。
トーマ王妃が浮気している噂などが立ったらそれが嘘だとわかっていてもきっとアンドリュー王が傷つくのを知っているからきっとこれ以上はシュウにちょっかいなどかけるはずがない。
「はぁーっ。ですから、私が隣に座った方が……」
わざと大袈裟にため息をついて言ってやると、トーマ王妃は残念そうに『変装してくればよかった』と呟いた。
そうだな。以前、シュウと2人で町に出た時のように2人とも女性の姿なら王妃だとは気付かれずに、今以上にもっとくっついていたのかもしれない。
変な噂が立たぬようにとシュウから距離をとるトーマ王妃の姿を見て、私はひとり満足していた。
先程の店主がトレイにいっぱいのパンを持ってやってきた。
まだ湯気の立つそのパンたちは香ばしく美味しそうな匂いを放っている。
ああ、シュウが喜びそうなパンだな。
さすが、トーマ王妃だけあってシュウの好みを熟知しているようで少し悔しかったが、まぁ、それくらいは仕方がないか。
「わぁっ、美味しそう!」
シュウは目をキラキラと輝かせてそのパンを食い入るように見つめ、運んできた店主に向かって笑顔で
『ありがとうございます』とお礼を言った。
どんなものに対しても必ず笑顔でお礼を言う……私はシュウのこういうところが好きなのだ。
シュウは当たり前のことだというが、それが当たり前だと思えることが素晴らしいということに気付いていないだろうな。
突然、近くで『くぅぅー』と可愛らしい音が響いた。
これは……この可愛らしい音はシュウの腹の音に間違いない。
ああ、なんて可愛いんだ……。
本当なら私しか聞かせたくはなかったのだが、トーマ王妃ならまだ許せるか。
さっきの店主がいる前でなくてよかった。
パッと顔を赤らめたからきっとはずがしがっているはずだ。
これを指摘してしまえば、きっとシュウは照れて目の前にあるパンを食べなくなる。
それだけはさせるわけにはいかない。
そっとトーマ王妃をみると、シュウに気付かれぬようにそっと瞬きを繰り返した。
おそらく何もいうなということだろう。
私たちは素知らぬふりをして、シュウを見やった。
シュウは私たちに聞こえていないと思ったか、安堵した表情で目の前のパンのことをトーマ王妃に尋ねた。
ふぅ……シュウに悟られずによかった。
トーマ王妃にパンのことを教えてもらい、シュウはその中から一つ選んで端の方をちぎり口に入れた。
いつも思うが、シュウの食べ方は高位貴族のような綺麗な所作で驚いてしまう。
「美味しい~!!」
これを作った者が聞けば泣いて喜ぶだろうな。
トーマ王妃も嬉しそうに同じパンに手を伸ばした。
シュウと同じような綺麗な所作はやはり親子だからだろうか。
それともこれが天に愛される才というやつなのか、食べている姿を見るだけで心が癒される。
2人の綺麗な所作をおかずに私も同じパンを一欠片試食した。
普段馴染みのあるパンはスープやバターをつけて食べられるように硬いものが主流だが、ここのパンはかなりふわふわとして柔らかい。
これだけ食事として成立しそうだ。
なるほど、こんなパンもあったのだな。
シュウはトーマ王妃が注文した全てのパンを食べ比べて、やはり最初のパンが気に入ったようだった。
「ねぇ、この食パン……トーマさまが昨日作ってくれたレモンの蜂蜜づけを付けて食べても美味しいんじゃないかな?」
シュウの放った言葉に一瞬時が止まったような気がした。
――レモンの蜂蜜づけをパンに付けて食べる。
そうか。この考えもまたシュウの発案だったのだな……。
てっきりトーマ王妃のレモンの蜂蜜づけが流行ってから、後々考え出されたものだとばかり思っていた。
シュウの思いつくことが全て我々のいた時代まで残っているのだから、これがいっときの流行だけで終わらなかったということだ。
きっと素晴らしい感性の持ち主なんだろうな、シュウは。
トーマ王妃はシュウの考えに手放しで喜んでいたのだが、
「ああーっ、昨日作ったやつ持ってきたらよかったな。今、試せたのに……」
と、物凄くがっかりした様子で目の前に残ったパンを見つめていた。
たしかにそうだ。
サヴァンスタックの屋敷でも時折食卓に上がっていたものと差異があるかを私も試してみたかった。
そういえば、シュウがいた時にはレモンの蜂蜜づけを出したことはなかったな……。
これもまた運命というものなのかもしれない。
落胆しているトーマ王妃にヒューバートが声を掛け、レモンの蜂蜜づけが馬車に積んであることを知らせてくれたのだ。
何と準備の良いと思ったら、アンドリュー王の指示だという。
未来を知っているかのような、その先見の明の素晴らしさにただただ驚くことしかできない。
アンドリュー王の偉大さを身をもって知るとはこういうことなのだな。
ものの数分でヒューバートは戻ってきた。
瓶詰めされたレモンの蜂蜜づけの蓋をポンと開けると、レモンの甘酸っぱい香りが漂ってきた。
ああ、これは期待できるな。
店主に小皿とナイフを用意してもらい、トーマ王妃は手際良く取り出したレモンを小さく切り分けた。
それを小さくちぎったパンに器用に乗せ、
「ほら、柊ちゃん『あーん』」
とシュウの口に運んだ。
シュウはなんの躊躇いもなく、口を開けパクリとパンを食べた。
その瞬間、窓の外で『きゃーーっ!』とひときわ大きな声が上がった。
シュウは外から聞こえるその声に一瞬驚いた表情を見せたが、口の中にあるパンをゆっくりと味わっていくうちにどんどん頬を緩ませ柔らかな表情を浮かべた。
「ねぇ、フレッドも食べてみて!」
そういうが早いが、目の前にあるパンを小さくちぎり同じようにレモンの蜂蜜づけを器用に乗せ、私に向かって『あーん』と差し出してくれた。
私にとってはとんでもないご馳走だ。
あまりにも嬉しい出来事に喜びをあらわにしながら口を大きく開けると、シュウは私の口にパンを入れてくれた。
私はパンと共にシュウの甘い指先までぺろっと舐めつくして
「本当に美味しいな」
とシュウを見つめながらニヤリと笑った。
ああ、こんな幸せを外で、しかもトーマ王妃の前で味わえるとはな。
最高だ。
シュウは私が舐めた指を見つめた後、無意識なのかもしれないが、私が舐めた指先をそっと口に入れているのを見た時は思わず愚息が勃ちそうになってしまった。
こういう無意識に私を煽るシュウを小悪魔だと思ってしまうのだ。
「ああーっ、アルフレッドさんだけズルい! 僕も柊ちゃんに『あーん』して食べさせてもらいたい!」
アンドリュー王はいつもこんな風に駄々をこねて拗ねる姿をみているのだろうか。国民に優雅に手を振っているときのトーマ王妃とは全く別人のような姿に思わず微笑ましく思ってしまう。
外が騒ぎになるからと諌めたが、
『ズルい、ズルい』と声を上げ続けるトーマ王妃に
「トーマ王妃は先ほどシュウに食べさせたではありませんか。私だってしていないのに……」
思わず本音が漏れ出てしまった。
しかし、トーマ王妃は『食べさせてもらう方がいい!』と言って聞かない。
そう言い合っていると、シュウが困った表情で
「ね、ねぇ……もうケンカしないでよ。
ほら、お父さん、『あーん』して」
と手ずからトーマ王妃に食べさせてあげたではないか。
ううっ。羨ましい……。
ふふんと得意げな顔をしているトーマ王妃にも腹が立つ。
やはり伴侶より父親なのか……となんとも言えない思いがこみ上げてきた時、
「ねぇ、フレッド。ぼくにももうひとつ食べさせて」
と可愛い口を開けて強請ってきた。
口の中からピンク色の舌が見えているのが妙にエロく感じる。
私はシュウの気持ちが嬉しくて意気揚々とシュウにレモンの蜂蜜づけを乗せたパンを食べさせた。
すると、シュウは自分の口に触れた私の指をパクッと咥えてちゅっと吸い付いてきたのだ。
一瞬何が起こったかわからなかったが、シュウに舐められた指が熱い。
私はその熱さが消えないうちにシュウが舐めてくれた指を自分でもう一度ちゅっと吸い付いて見せた。
シュウはそれを見てほんのり頬を赤らめながら嬉しそうに笑った。
私たちのやりとりを見ていたらしい外の者たちから
『きゃー、きゃー』とはしゃぎ騒いでいるのが聞こえたが、そんなことはどうだっていい。
私は目の前で少し照れながら微笑むシュウを見つめることで頭がいっぱいだったが、外はもう収拾のつかないような騒ぎになってきていた。
ヒューバートはそれを見て早急に対応せねばと思ったのだろう。
「少し失礼致します」
そう言って外へ出たのも束の間、あっという間にあれだけの騒ぎを収めて戻ってきた。
さすが王室騎士団団長だけあって人を纏めるなど容易いと見える。
ヒューバートは静かにしている人だけにトーマ王妃が話をしてくれると言ってきたらしい。
なるほど、人の心理をついたうまい作戦だな。
勝手に約束してきたことを詫びていたが、興奮しすぎて大きな騒ぎを起こされたほうが困るのだからこれは良い判断だっただろう。
トーマ王妃も『大したことじゃない、ヒューバートのおかげで助かった』と言ってあげていたから、ヒューバートは安堵した表情を見せていた。
下の者へのこういう声かけがトーマ王妃は素晴らしいんだよな。
トーマ王妃はレモンの蜂蜜づけの入った瓶を見つめて、『よし』と納得した様子で店主に声をかけた。
そして、レモンの蜂蜜づけの入った瓶を差し出しながら、店主に隣町『フィリウス』で収穫したレモンを使って作った蜂蜜づけをここでも作ってみないか? 試食してみないか? と尋ねた。
店主は王妃自ら作ったものを試食するということに驚いていたものの、感想を聞かせて欲しいとの言葉に頷いた。
緊張した面持ちで新しいパンにレモンの蜂蜜づけをつけ口に運びゆっくりと味わっていたのだが,
トーマ王妃が『どう?』と尋ねてもなんの反応もない。
素人である我々はとてもおいしいと思ったが、やはり職人には受け入れられないところでもあったのだろうか?
そう思ったが、店主は目を丸くして、
「こ、これ……こんなに美味しいもの初めて食べました!!
これ、パンにつけるだけではもったいないです!
パンに乗せて焼いても美味しそうですし、パン生地によって食感も変わりますからうちだけではもったいないですね!
他のパン屋にも広めてそれぞれで独自のパンを作ったら、『イシューリニア』のパンが国内中で評判になるかもしれません」
と興奮冷めやらぬ様子で意見を述べていた。
トーマ王妃が紅茶に浮かべて飲むためにレモンの蜂蜜づけを作ったのだというと、店主はそれにも興味を示しすぐに紅茶を用意した。
私たち用にも新しい紅茶を用意してくれて、みんなで紅茶に浮かべて試飲する。
うん。美味しい。
私は普段、そのままかミルクを入れることが多いが、時々疲れている時にはマクベスがレモンの蜂蜜づけを入れてくれていたのを思い出す。
あの時と似た味わいに私は懐かしさを覚えた。
店主は初めての味に感動しながらも、さすが職人だけあって色々な案を出していく。
そして、このレモンの蜂蜜づけを『イシューリニア』の新たな特産にするために組合で話をしたいと言ってくれた。
そのために必要なこのレモンの蜂蜜づけの作り方をトーマ王妃から直々に教えてもらい、それを食い入るように見つめていた。
まだ誰も知らないことだが、これからこの町はレモンの蜂蜜づけとフルーツ酒、フルーツ酢という新たな特産を得て、さらに発展していくのだ。
レナゼリシア侯爵にとってはこれから大変なこともあるだろうが、頑張れば大成功の道が待っている。
ヴォルフと共に力を合わせて頑張って欲しいものだ。
「さて、そろそろ陛下たちの話し合いも終わる頃だろう。酒蔵に戻るとしよう」
席を立ち、支払いに向かうと
「素晴らしいお考えを賜りましたのに、これでお代までいただくなど勿体のうございます。
今日のお代は結構でございます」
と言い出した。
店主の気持ちもわからんではないが、そういうわけにはいかない。
相手がアンドリュー王でもないかぎり、シュウの前で奢られるなどそんなことできるはずがない。
『其方の美味しいパンに代金を払うのだ』というと、受け取りを固辞していた店主はやっと受け取ってくれた。
受け取った手が微かに震えて、顔を真っ赤にしていたのが気になったが、こんな対応には慣れている。
もしかしたらこの店主には私は好かれていないのかもしれないな。
それでもいい。ここでの時間は楽しかったのだから、礼は言わねばな。
シュウの腰を抱き、
「私の大切な伴侶に美味しいパンをありがとう」
と礼を言うと、店主は一瞬ほんの少しがっかりしたような表情を見せたもののすぐに笑顔になった。
シュウの伴侶が私みたいなものだということにがっかりしたのかもしれないが、まぁそれはいつものことだからどうでもいい。
店主はアンドリュー王への贈り物だと言って、焼き立てのパンを紙袋に詰めてくれた。
その気持ちに感謝しながら店を後にした。
外に出ると、トーマ王妃を待ちかねていた人たちが我々を囲むように近づいてきた。
シュウやトーマ王妃が怪我でもしたら危ないので、ヒューバートと共に2人を守りながら町の中心にある噴水へと向かった。
トーマ王妃は噴水を背に、
「みなさん、静かに待っていてくれてありがとう」
と優しく微笑みかけながら声をかけると、『わぁっ』と歓声が上がった。
その歓声が途切れた瞬間、『おうひさまぁー』という可愛らしい声が響いた。
トーマ王妃はすぐにその声の持ち主を見つけ、その場にしゃがみ込んだ。
「どうしたのかな?」
優しく尋ねるその眼差しは国母そのものだ。
我々の前では拗ねたり駄々をこねたり、時にはとんでもない行動をして私とアンドリュー王を困らせることもあるが、やはり国民を前にすると王妃のしての意識に切り替わるのだろうか。
「あのね、おうひさまといっしょにいるひと、めがみさまなの?
すごくきれいー!!」
トーマ王妃の目の前の子どもは、シュウに恍惚とした表情で見つめている。
はぁ……。またか。
この子にとってシュウが初恋になったのは間違いないだろうな。
トーマ王妃はシュウのことをなんと紹介するだろうか。
「ふふっ。そう、女神さまみたいに綺麗でしょう。この子はね……ぼくが娘、いや妹のように大切に思っている子で……この人の大切な奥さんだよ」
トーマ王妃はその子だけでなく、集まった皆に見せつけるように私とシュウを押し出した。
たくさんの視線が私たちに注がれる。
私は先程のパン屋での店主の反応を思い出して緊張したのだが、
「わぁっ!! かっこいい!! おにあいだねー!」
と目を輝かせて言ってくれた。
他の者たちからも一斉に賛辞の声が上がり、私は叫び出したくなるような喜びを感じながら隣に立つシュウを見つめると、シュウもまた嬉しそうに私を見上げていた。
私たちが見つめ合い微笑むだけで
「きゃー! きゃー!」
と歓声が上がる。
その声にシュウが反応して、お礼の言葉をかけると集まった者たちが次々とその場に崩れ落ちていく。
シュウの色気にやられたか……。
シュウは慌てて手を差し伸べようとするが、そんなことをさせるわけがない。
シュウの手に触れさせたりするものか。
さっとシュウの手を掴むと、トーマ王妃も同じことを考えたようで一緒にシュウの手を掴んだ。
「大丈夫だから心配するな」
「大丈夫だから心配しないでいいよ」
2人で声を合わせるように注意すると、シュウは大人しく言うことを聞いてくれた。
はぁ、よかった。
ヒューバートがさっと手を挙げ、周りにいた騎士たちに合図を送ると、騎士たちが倒れ込んだものたちに声をかけていくと落ち着きを取り戻した者たちがゆっくりと立ち上がった。
これでシュウも安心できるな。よかった、よかった。
ヒューバートが『そろそろ戻りましょう』とトーマ王妃に声をかけると、
「今日はありがとう。また『イシューリニア』に来た時はこうやってお話しいたしましょう」
と優雅に手を振ってその場を離れた。
こんなに近くで王妃と話ができる機会というのは王都であっても稀なことだ。
『イシューリニア』の人たちにとっては素晴らしい時間になったことだろう。
酒蔵に着いた時、ちょうど話し合いを終えた頃だったようだ。
皆が笑顔だったところを見ると、有意義な話し合いができたようだな。
「ああ、トーマ。帰ったのか? 町の散策はどうだった?」
そう尋ねられたトーマ王妃がアンドリュー王のおかげですごいことになりそうと、パン屋での出来事を詳しく話すと、
アンドリュー王はもちろん、隣で話を聞いていた侯爵の方が
「なんということでしょう!!
あのレモンの蜂蜜づけが……パンに??
陛下! これはすごいことになりますよ!
ああっ、トーマ王妃……奥方さま……本当にありがとうございます!!」
と飛び上がりそうなほど興奮した様子でシュウとトーマ王妃にお礼を言っていた。
アンドリュー王は興奮しきりの侯爵を
『これがうまくいくように、机上の空論で終わらぬようしっかりと領民たちと話し合いながら進めていってくれ』と嗜めながらも表情は明るく、自信に満ち溢れたようだった。
領民たちの声に耳を傾ける侯爵ならばきっとうまくいくだろう。
決して驕らず、独断にならぬよう力を合わせていって欲しい。
さて、明日の朝、このレナゼリシア侯爵家を出発する。
到着してからの数日間は色々なことがあったが、ようやくこの日がきたのだ。
アンドリュー王はこの日のために頑張ってきたと言っても過言ではない。
トーマ王妃と共に『神の泉』で神に永遠の愛を誓うのだから。
緊張した様子のトーマ王妃を前にシュウが、
「ヒューバートさんにはあのこと教えておいた方がいいんじゃない?」
と言い出した。
ヒューバートに?
何か伝えることでもあっただろうか?
シュウは私の耳元に顔を近づけ、
「『神の泉』でルーカスさんが心配していたでしょう?
時間の流れが違うみたいだってフレッドも言ってたから、そのことをヒューバートさんに教えてあげていた方がいいんじゃないかな」
と囁いた。
そうか、そうだった。
ヒューバートに心労を与えるのも可哀想だからな。
シュウはいつでも周りのことを気遣って本当に優しい子だ。
部屋の外で警護をしているヒューバートに声をかけ、部屋の中へと招き入れた。
アンドリュー王とトーマ王妃もいる部屋に突然招き入れられて困惑の表情をしているが、まぁ、誰だってそう思うだろうな。
ヒューバートに『神の泉』での時間の流れの違いについて教えると、いつも冷静なヒューバートとは思えぬほど驚いていた。
「あの『神の泉』は我々の住むこの地とは別次元なのだ。だから、明日もおそらく長い時を待つことになるだろうが、決して慌てず、陛下とトーマ王妃のお戻りをお待ちしろ」
あのルーカスでさえ、我々が帰ってこないことに取り乱していたのだからな。
ヒューバートにはあらかじめ教えておくことで心構えできることだろう。
ヒューバートが部屋の外へと戻っていき、『ふぅ』と一息ついたのも束の間、
「フレデリック、ちょっと」
アンドリュー王から声をかけられた。
シュウはトーマ王妃と話をしているようだ。
私はアンドリュー王の元へといき、『何かございましたか?』と声をかけると、
「実はな、其方たちが散策をする『神の泉』近くの町は――――だ。
其方たちにはヒューバート以外の騎士たちを全員護衛につけるから、其方も十分気をつけるようにな」
と真剣な表情で忠告を受けた。
まさか、そんなことがあろうとはな。
だが、私がシュウを守るから問題ない。
そう。絶対に私が守ってみせる。
昨日のシュウの発案に必要な蒸留酒『イシュトゥン』の製造地でもあるこの『イシューリニア』は、
我々の時代でも国内最大級の小麦の産地として名を馳せている。
馬車で蔵元に到着すると、あらかじめ早馬で大まかな話を伝えていたせいか、杜氏、蔵人も揃って我々の到着を待ちかねていた。
そして、到着後すぐに侯爵とアンドリュー王を交えての話し合いが始まった。
アンドリュー王から話し合いには参加しないようにと言われていたので、私はシュウとトーマ王妃と共に町へ散策に出ることになった。
我々3人の後ろからヒューバートが警護についてきたのはもちろんアンドリュー王の指示だ。
町でトーマ王妃とシュウに何かがあってはならないという判断だろう。
シュウたちは気づいていないが、若い騎士たち9人のうち半数以上はこっそりとついてきている。
それもアンドリュー王の指示だ。
過保護だと思うだろうが、私がアンドリュー王の立場であってもそうするに違いない。
それほどまでに2人が大事だということだ。
蔵元から歩いてすぐの場所にある町に出ると、あちらこちらから香ばしい香りが漂っている。
『イシューリニア』は酒の製造でも有名だが、パン屋が多いことでもよく知られている。
トーマ王妃もまたここのパンが好きなようで、その中でも故郷に似たパンを出す店に連れて行ってくれるという。
シュウたちが生まれ育った世界によく似たパン……うーん、惹かれるな。
手を取って連れて行こうとするトーマ王妃とに負けじと、シュウのもう片方の手をとり歩き進んでいく。
今日のトーマ王妃はアンドリュー王と揃いの衣装に身を包み、釦には王家の紋章が施されどこからどう見ても王妃だとわかる。
まぁ、トーマ王妃の代名詞ともいえる美しい黒髪が隠れていないのだから衣装はどんなものでもすぐに気づかれるだろうが。
そんなトーマ王妃が、美しい女性と2人で出歩いてはすぐに噂が駆け巡ることだろう。
例えシュウからトーマ王妃との散策に誘われなくても私はついていくつもりだったのだ。
シュウがトーマ王妃の愛人だと根も葉もない噂が流されても困るからな。
トーマ王妃もシュウも自分が目立つ存在なのだという意識が欠けている。
手をつなぎ合って歩いていればどれほど人目を惹くのかわかっていないのだ。
だからこそ、シュウを間に挟み私とシュウが腕を組んで歩くことで、トーマ王妃とのおかしな噂が流れないようにしている。
まぁ、トーマ王妃への対抗心もあるのだが……それは内緒にしておこう。
田舎町に突然現れた目を惹く我々に視線が集中し、周りがざわざわとしてきた。
ヒューバートに先に店に行って話をしてくるように言い、私は周りに注意しながら2人を連れパン屋へと向かった。
トーマ王妃推薦のパン屋は、煉瓦造りの可愛らしい雰囲気が漂う店だった。
シュウはこういう店が好きなんだよなとシュウをみると、やはり『わぁ』と感嘆の声を上げている。
それを見てトーマ王妃もまた嬉しそうな表情でシュウを見ていた。
そういう場面を見ると、やはり父親なのだなと思う。
子が喜ぶ姿を見るのは親として幸せなことだからな。
店の入り口で待つ店主とヒューバートに迎えられ、
ひととおり挨拶をしている間に店の外に人が集まりだんだんと騒ぎになっている。
外での話はこれくらいにして……と中に案内してもらうと、4人掛けの席に案内された。
この場合はどう考えても、夫夫である我々が隣同士に座るものだろう。
しかし、トーマ王妃の鋭い視線がそれを許そうとしない。
『トーマ王妃、広い席をお使いください』
『いや、アルフレッドさんがひとりで使った方がいいでしょう』
目は口ほどに物を言うというが、トーマ王妃の目がシュウと隣同士に座らせろと訴えかけてくる。
一瞬目を離した瞬間に、シュウはトーマ王妃の隣にちょこんと座らされていた。
はぁ……。
仕方ない。こんなことで喧嘩するなど大人の振る舞いではないからな。
今日この時だけはトーマ王妃に譲ってやることにしよう。
トーマ王妃は私に勝ち誇ったように笑顔を向け、先程の店主から品書きを持ってこさせた。
シュウから『お任せで』と頼まれたトーマ王妃は数種類のパンと紅茶を注文し頼んだものが来るまでの間、ひたすらシュウの方ばかりを向いて会話を楽しんでいた。
外に集まる人たちをみて、シュウが『手を振って見せて』とおねだりすると、トーマ王妃は少し照れながらも、外に集まる町人に手を振って応えていた。
先ほどまでシュウに向けていた柔らかな表情から、一瞬にして王妃の表情へと変わる。
ここがトーマ王妃の凄いところだろう。
トーマ王妃が手を振ると、外に集まっている者たちから熱狂的な歓声が上がる。
その激しさにトーマ王妃本人は恥ずかしそうだが、シュウは自分の父親がここまで国民に慕われているのを見て感激しているようだ。
シュウがトーマ王妃の顔が赤くなっていることを揶揄いながら、お互いに寄り添って話をしていると
外にいる者たちからさっきとはまた違う歓声が上がっている。
『きゃーっ、きゃーっ』
『可愛い! あの子誰?』
『なんか距離が近すぎない??』
『もしかして王妃さまの愛人とか?』
『きゃーっ、あれだけお似合いならそれでもいいわ』
2人が寄り添って話をしている光景はまさに芸術のようだ。
年の近いシュウとトーマ王妃が親子だとは決して誰も思うまい。
やはりあれだけ距離が近いと愛人だと勘違いすることも有り得る。
しかし、シュウは私だけのものなのだ。
たとえ、トーマ王妃が父親であったとしてもシュウを渡せるわけがない。
シュウは何故外にいる者たちが騒いでいるのかもわかっていないようだ。
「シュウとトーマ王妃が話している姿は絵になるからな。
シュウ、お前……自分が美しい女性だって自覚はあるか?」
そう教えてやると、シュウはやはりわかっていなかった。
トーマ王妃に尋ね返すと、トーマ王妃は私の心をわざと揺さぶるようにシュウに甘い言葉をかけ、頭を優しく撫でて見せた。
その瞬間、外から『きゃーっ、王妃さまー!!』とより一層大きな歓声が上がった。
「トーマ王妃、そんなことをしていては若い娘と浮気をされていると誤解されますよ」
さりげなく、アンドリュー王のことを間接的に言ってみると、
『あっ、それは困るな』と慌ててシュウの髪から手を離した。
やはりこれが一番効果があるな。ふふっ。
トーマ王妃にとってシュウはもちろん大事だが、アンドリュー王もまた大切な存在なのだ。
トーマ王妃が浮気している噂などが立ったらそれが嘘だとわかっていてもきっとアンドリュー王が傷つくのを知っているからきっとこれ以上はシュウにちょっかいなどかけるはずがない。
「はぁーっ。ですから、私が隣に座った方が……」
わざと大袈裟にため息をついて言ってやると、トーマ王妃は残念そうに『変装してくればよかった』と呟いた。
そうだな。以前、シュウと2人で町に出た時のように2人とも女性の姿なら王妃だとは気付かれずに、今以上にもっとくっついていたのかもしれない。
変な噂が立たぬようにとシュウから距離をとるトーマ王妃の姿を見て、私はひとり満足していた。
先程の店主がトレイにいっぱいのパンを持ってやってきた。
まだ湯気の立つそのパンたちは香ばしく美味しそうな匂いを放っている。
ああ、シュウが喜びそうなパンだな。
さすが、トーマ王妃だけあってシュウの好みを熟知しているようで少し悔しかったが、まぁ、それくらいは仕方がないか。
「わぁっ、美味しそう!」
シュウは目をキラキラと輝かせてそのパンを食い入るように見つめ、運んできた店主に向かって笑顔で
『ありがとうございます』とお礼を言った。
どんなものに対しても必ず笑顔でお礼を言う……私はシュウのこういうところが好きなのだ。
シュウは当たり前のことだというが、それが当たり前だと思えることが素晴らしいということに気付いていないだろうな。
突然、近くで『くぅぅー』と可愛らしい音が響いた。
これは……この可愛らしい音はシュウの腹の音に間違いない。
ああ、なんて可愛いんだ……。
本当なら私しか聞かせたくはなかったのだが、トーマ王妃ならまだ許せるか。
さっきの店主がいる前でなくてよかった。
パッと顔を赤らめたからきっとはずがしがっているはずだ。
これを指摘してしまえば、きっとシュウは照れて目の前にあるパンを食べなくなる。
それだけはさせるわけにはいかない。
そっとトーマ王妃をみると、シュウに気付かれぬようにそっと瞬きを繰り返した。
おそらく何もいうなということだろう。
私たちは素知らぬふりをして、シュウを見やった。
シュウは私たちに聞こえていないと思ったか、安堵した表情で目の前のパンのことをトーマ王妃に尋ねた。
ふぅ……シュウに悟られずによかった。
トーマ王妃にパンのことを教えてもらい、シュウはその中から一つ選んで端の方をちぎり口に入れた。
いつも思うが、シュウの食べ方は高位貴族のような綺麗な所作で驚いてしまう。
「美味しい~!!」
これを作った者が聞けば泣いて喜ぶだろうな。
トーマ王妃も嬉しそうに同じパンに手を伸ばした。
シュウと同じような綺麗な所作はやはり親子だからだろうか。
それともこれが天に愛される才というやつなのか、食べている姿を見るだけで心が癒される。
2人の綺麗な所作をおかずに私も同じパンを一欠片試食した。
普段馴染みのあるパンはスープやバターをつけて食べられるように硬いものが主流だが、ここのパンはかなりふわふわとして柔らかい。
これだけ食事として成立しそうだ。
なるほど、こんなパンもあったのだな。
シュウはトーマ王妃が注文した全てのパンを食べ比べて、やはり最初のパンが気に入ったようだった。
「ねぇ、この食パン……トーマさまが昨日作ってくれたレモンの蜂蜜づけを付けて食べても美味しいんじゃないかな?」
シュウの放った言葉に一瞬時が止まったような気がした。
――レモンの蜂蜜づけをパンに付けて食べる。
そうか。この考えもまたシュウの発案だったのだな……。
てっきりトーマ王妃のレモンの蜂蜜づけが流行ってから、後々考え出されたものだとばかり思っていた。
シュウの思いつくことが全て我々のいた時代まで残っているのだから、これがいっときの流行だけで終わらなかったということだ。
きっと素晴らしい感性の持ち主なんだろうな、シュウは。
トーマ王妃はシュウの考えに手放しで喜んでいたのだが、
「ああーっ、昨日作ったやつ持ってきたらよかったな。今、試せたのに……」
と、物凄くがっかりした様子で目の前に残ったパンを見つめていた。
たしかにそうだ。
サヴァンスタックの屋敷でも時折食卓に上がっていたものと差異があるかを私も試してみたかった。
そういえば、シュウがいた時にはレモンの蜂蜜づけを出したことはなかったな……。
これもまた運命というものなのかもしれない。
落胆しているトーマ王妃にヒューバートが声を掛け、レモンの蜂蜜づけが馬車に積んであることを知らせてくれたのだ。
何と準備の良いと思ったら、アンドリュー王の指示だという。
未来を知っているかのような、その先見の明の素晴らしさにただただ驚くことしかできない。
アンドリュー王の偉大さを身をもって知るとはこういうことなのだな。
ものの数分でヒューバートは戻ってきた。
瓶詰めされたレモンの蜂蜜づけの蓋をポンと開けると、レモンの甘酸っぱい香りが漂ってきた。
ああ、これは期待できるな。
店主に小皿とナイフを用意してもらい、トーマ王妃は手際良く取り出したレモンを小さく切り分けた。
それを小さくちぎったパンに器用に乗せ、
「ほら、柊ちゃん『あーん』」
とシュウの口に運んだ。
シュウはなんの躊躇いもなく、口を開けパクリとパンを食べた。
その瞬間、窓の外で『きゃーーっ!』とひときわ大きな声が上がった。
シュウは外から聞こえるその声に一瞬驚いた表情を見せたが、口の中にあるパンをゆっくりと味わっていくうちにどんどん頬を緩ませ柔らかな表情を浮かべた。
「ねぇ、フレッドも食べてみて!」
そういうが早いが、目の前にあるパンを小さくちぎり同じようにレモンの蜂蜜づけを器用に乗せ、私に向かって『あーん』と差し出してくれた。
私にとってはとんでもないご馳走だ。
あまりにも嬉しい出来事に喜びをあらわにしながら口を大きく開けると、シュウは私の口にパンを入れてくれた。
私はパンと共にシュウの甘い指先までぺろっと舐めつくして
「本当に美味しいな」
とシュウを見つめながらニヤリと笑った。
ああ、こんな幸せを外で、しかもトーマ王妃の前で味わえるとはな。
最高だ。
シュウは私が舐めた指を見つめた後、無意識なのかもしれないが、私が舐めた指先をそっと口に入れているのを見た時は思わず愚息が勃ちそうになってしまった。
こういう無意識に私を煽るシュウを小悪魔だと思ってしまうのだ。
「ああーっ、アルフレッドさんだけズルい! 僕も柊ちゃんに『あーん』して食べさせてもらいたい!」
アンドリュー王はいつもこんな風に駄々をこねて拗ねる姿をみているのだろうか。国民に優雅に手を振っているときのトーマ王妃とは全く別人のような姿に思わず微笑ましく思ってしまう。
外が騒ぎになるからと諌めたが、
『ズルい、ズルい』と声を上げ続けるトーマ王妃に
「トーマ王妃は先ほどシュウに食べさせたではありませんか。私だってしていないのに……」
思わず本音が漏れ出てしまった。
しかし、トーマ王妃は『食べさせてもらう方がいい!』と言って聞かない。
そう言い合っていると、シュウが困った表情で
「ね、ねぇ……もうケンカしないでよ。
ほら、お父さん、『あーん』して」
と手ずからトーマ王妃に食べさせてあげたではないか。
ううっ。羨ましい……。
ふふんと得意げな顔をしているトーマ王妃にも腹が立つ。
やはり伴侶より父親なのか……となんとも言えない思いがこみ上げてきた時、
「ねぇ、フレッド。ぼくにももうひとつ食べさせて」
と可愛い口を開けて強請ってきた。
口の中からピンク色の舌が見えているのが妙にエロく感じる。
私はシュウの気持ちが嬉しくて意気揚々とシュウにレモンの蜂蜜づけを乗せたパンを食べさせた。
すると、シュウは自分の口に触れた私の指をパクッと咥えてちゅっと吸い付いてきたのだ。
一瞬何が起こったかわからなかったが、シュウに舐められた指が熱い。
私はその熱さが消えないうちにシュウが舐めてくれた指を自分でもう一度ちゅっと吸い付いて見せた。
シュウはそれを見てほんのり頬を赤らめながら嬉しそうに笑った。
私たちのやりとりを見ていたらしい外の者たちから
『きゃー、きゃー』とはしゃぎ騒いでいるのが聞こえたが、そんなことはどうだっていい。
私は目の前で少し照れながら微笑むシュウを見つめることで頭がいっぱいだったが、外はもう収拾のつかないような騒ぎになってきていた。
ヒューバートはそれを見て早急に対応せねばと思ったのだろう。
「少し失礼致します」
そう言って外へ出たのも束の間、あっという間にあれだけの騒ぎを収めて戻ってきた。
さすが王室騎士団団長だけあって人を纏めるなど容易いと見える。
ヒューバートは静かにしている人だけにトーマ王妃が話をしてくれると言ってきたらしい。
なるほど、人の心理をついたうまい作戦だな。
勝手に約束してきたことを詫びていたが、興奮しすぎて大きな騒ぎを起こされたほうが困るのだからこれは良い判断だっただろう。
トーマ王妃も『大したことじゃない、ヒューバートのおかげで助かった』と言ってあげていたから、ヒューバートは安堵した表情を見せていた。
下の者へのこういう声かけがトーマ王妃は素晴らしいんだよな。
トーマ王妃はレモンの蜂蜜づけの入った瓶を見つめて、『よし』と納得した様子で店主に声をかけた。
そして、レモンの蜂蜜づけの入った瓶を差し出しながら、店主に隣町『フィリウス』で収穫したレモンを使って作った蜂蜜づけをここでも作ってみないか? 試食してみないか? と尋ねた。
店主は王妃自ら作ったものを試食するということに驚いていたものの、感想を聞かせて欲しいとの言葉に頷いた。
緊張した面持ちで新しいパンにレモンの蜂蜜づけをつけ口に運びゆっくりと味わっていたのだが,
トーマ王妃が『どう?』と尋ねてもなんの反応もない。
素人である我々はとてもおいしいと思ったが、やはり職人には受け入れられないところでもあったのだろうか?
そう思ったが、店主は目を丸くして、
「こ、これ……こんなに美味しいもの初めて食べました!!
これ、パンにつけるだけではもったいないです!
パンに乗せて焼いても美味しそうですし、パン生地によって食感も変わりますからうちだけではもったいないですね!
他のパン屋にも広めてそれぞれで独自のパンを作ったら、『イシューリニア』のパンが国内中で評判になるかもしれません」
と興奮冷めやらぬ様子で意見を述べていた。
トーマ王妃が紅茶に浮かべて飲むためにレモンの蜂蜜づけを作ったのだというと、店主はそれにも興味を示しすぐに紅茶を用意した。
私たち用にも新しい紅茶を用意してくれて、みんなで紅茶に浮かべて試飲する。
うん。美味しい。
私は普段、そのままかミルクを入れることが多いが、時々疲れている時にはマクベスがレモンの蜂蜜づけを入れてくれていたのを思い出す。
あの時と似た味わいに私は懐かしさを覚えた。
店主は初めての味に感動しながらも、さすが職人だけあって色々な案を出していく。
そして、このレモンの蜂蜜づけを『イシューリニア』の新たな特産にするために組合で話をしたいと言ってくれた。
そのために必要なこのレモンの蜂蜜づけの作り方をトーマ王妃から直々に教えてもらい、それを食い入るように見つめていた。
まだ誰も知らないことだが、これからこの町はレモンの蜂蜜づけとフルーツ酒、フルーツ酢という新たな特産を得て、さらに発展していくのだ。
レナゼリシア侯爵にとってはこれから大変なこともあるだろうが、頑張れば大成功の道が待っている。
ヴォルフと共に力を合わせて頑張って欲しいものだ。
「さて、そろそろ陛下たちの話し合いも終わる頃だろう。酒蔵に戻るとしよう」
席を立ち、支払いに向かうと
「素晴らしいお考えを賜りましたのに、これでお代までいただくなど勿体のうございます。
今日のお代は結構でございます」
と言い出した。
店主の気持ちもわからんではないが、そういうわけにはいかない。
相手がアンドリュー王でもないかぎり、シュウの前で奢られるなどそんなことできるはずがない。
『其方の美味しいパンに代金を払うのだ』というと、受け取りを固辞していた店主はやっと受け取ってくれた。
受け取った手が微かに震えて、顔を真っ赤にしていたのが気になったが、こんな対応には慣れている。
もしかしたらこの店主には私は好かれていないのかもしれないな。
それでもいい。ここでの時間は楽しかったのだから、礼は言わねばな。
シュウの腰を抱き、
「私の大切な伴侶に美味しいパンをありがとう」
と礼を言うと、店主は一瞬ほんの少しがっかりしたような表情を見せたもののすぐに笑顔になった。
シュウの伴侶が私みたいなものだということにがっかりしたのかもしれないが、まぁそれはいつものことだからどうでもいい。
店主はアンドリュー王への贈り物だと言って、焼き立てのパンを紙袋に詰めてくれた。
その気持ちに感謝しながら店を後にした。
外に出ると、トーマ王妃を待ちかねていた人たちが我々を囲むように近づいてきた。
シュウやトーマ王妃が怪我でもしたら危ないので、ヒューバートと共に2人を守りながら町の中心にある噴水へと向かった。
トーマ王妃は噴水を背に、
「みなさん、静かに待っていてくれてありがとう」
と優しく微笑みかけながら声をかけると、『わぁっ』と歓声が上がった。
その歓声が途切れた瞬間、『おうひさまぁー』という可愛らしい声が響いた。
トーマ王妃はすぐにその声の持ち主を見つけ、その場にしゃがみ込んだ。
「どうしたのかな?」
優しく尋ねるその眼差しは国母そのものだ。
我々の前では拗ねたり駄々をこねたり、時にはとんでもない行動をして私とアンドリュー王を困らせることもあるが、やはり国民を前にすると王妃のしての意識に切り替わるのだろうか。
「あのね、おうひさまといっしょにいるひと、めがみさまなの?
すごくきれいー!!」
トーマ王妃の目の前の子どもは、シュウに恍惚とした表情で見つめている。
はぁ……。またか。
この子にとってシュウが初恋になったのは間違いないだろうな。
トーマ王妃はシュウのことをなんと紹介するだろうか。
「ふふっ。そう、女神さまみたいに綺麗でしょう。この子はね……ぼくが娘、いや妹のように大切に思っている子で……この人の大切な奥さんだよ」
トーマ王妃はその子だけでなく、集まった皆に見せつけるように私とシュウを押し出した。
たくさんの視線が私たちに注がれる。
私は先程のパン屋での店主の反応を思い出して緊張したのだが、
「わぁっ!! かっこいい!! おにあいだねー!」
と目を輝かせて言ってくれた。
他の者たちからも一斉に賛辞の声が上がり、私は叫び出したくなるような喜びを感じながら隣に立つシュウを見つめると、シュウもまた嬉しそうに私を見上げていた。
私たちが見つめ合い微笑むだけで
「きゃー! きゃー!」
と歓声が上がる。
その声にシュウが反応して、お礼の言葉をかけると集まった者たちが次々とその場に崩れ落ちていく。
シュウの色気にやられたか……。
シュウは慌てて手を差し伸べようとするが、そんなことをさせるわけがない。
シュウの手に触れさせたりするものか。
さっとシュウの手を掴むと、トーマ王妃も同じことを考えたようで一緒にシュウの手を掴んだ。
「大丈夫だから心配するな」
「大丈夫だから心配しないでいいよ」
2人で声を合わせるように注意すると、シュウは大人しく言うことを聞いてくれた。
はぁ、よかった。
ヒューバートがさっと手を挙げ、周りにいた騎士たちに合図を送ると、騎士たちが倒れ込んだものたちに声をかけていくと落ち着きを取り戻した者たちがゆっくりと立ち上がった。
これでシュウも安心できるな。よかった、よかった。
ヒューバートが『そろそろ戻りましょう』とトーマ王妃に声をかけると、
「今日はありがとう。また『イシューリニア』に来た時はこうやってお話しいたしましょう」
と優雅に手を振ってその場を離れた。
こんなに近くで王妃と話ができる機会というのは王都であっても稀なことだ。
『イシューリニア』の人たちにとっては素晴らしい時間になったことだろう。
酒蔵に着いた時、ちょうど話し合いを終えた頃だったようだ。
皆が笑顔だったところを見ると、有意義な話し合いができたようだな。
「ああ、トーマ。帰ったのか? 町の散策はどうだった?」
そう尋ねられたトーマ王妃がアンドリュー王のおかげですごいことになりそうと、パン屋での出来事を詳しく話すと、
アンドリュー王はもちろん、隣で話を聞いていた侯爵の方が
「なんということでしょう!!
あのレモンの蜂蜜づけが……パンに??
陛下! これはすごいことになりますよ!
ああっ、トーマ王妃……奥方さま……本当にありがとうございます!!」
と飛び上がりそうなほど興奮した様子でシュウとトーマ王妃にお礼を言っていた。
アンドリュー王は興奮しきりの侯爵を
『これがうまくいくように、机上の空論で終わらぬようしっかりと領民たちと話し合いながら進めていってくれ』と嗜めながらも表情は明るく、自信に満ち溢れたようだった。
領民たちの声に耳を傾ける侯爵ならばきっとうまくいくだろう。
決して驕らず、独断にならぬよう力を合わせていって欲しい。
さて、明日の朝、このレナゼリシア侯爵家を出発する。
到着してからの数日間は色々なことがあったが、ようやくこの日がきたのだ。
アンドリュー王はこの日のために頑張ってきたと言っても過言ではない。
トーマ王妃と共に『神の泉』で神に永遠の愛を誓うのだから。
緊張した様子のトーマ王妃を前にシュウが、
「ヒューバートさんにはあのこと教えておいた方がいいんじゃない?」
と言い出した。
ヒューバートに?
何か伝えることでもあっただろうか?
シュウは私の耳元に顔を近づけ、
「『神の泉』でルーカスさんが心配していたでしょう?
時間の流れが違うみたいだってフレッドも言ってたから、そのことをヒューバートさんに教えてあげていた方がいいんじゃないかな」
と囁いた。
そうか、そうだった。
ヒューバートに心労を与えるのも可哀想だからな。
シュウはいつでも周りのことを気遣って本当に優しい子だ。
部屋の外で警護をしているヒューバートに声をかけ、部屋の中へと招き入れた。
アンドリュー王とトーマ王妃もいる部屋に突然招き入れられて困惑の表情をしているが、まぁ、誰だってそう思うだろうな。
ヒューバートに『神の泉』での時間の流れの違いについて教えると、いつも冷静なヒューバートとは思えぬほど驚いていた。
「あの『神の泉』は我々の住むこの地とは別次元なのだ。だから、明日もおそらく長い時を待つことになるだろうが、決して慌てず、陛下とトーマ王妃のお戻りをお待ちしろ」
あのルーカスでさえ、我々が帰ってこないことに取り乱していたのだからな。
ヒューバートにはあらかじめ教えておくことで心構えできることだろう。
ヒューバートが部屋の外へと戻っていき、『ふぅ』と一息ついたのも束の間、
「フレデリック、ちょっと」
アンドリュー王から声をかけられた。
シュウはトーマ王妃と話をしているようだ。
私はアンドリュー王の元へといき、『何かございましたか?』と声をかけると、
「実はな、其方たちが散策をする『神の泉』近くの町は――――だ。
其方たちにはヒューバート以外の騎士たちを全員護衛につけるから、其方も十分気をつけるようにな」
と真剣な表情で忠告を受けた。
まさか、そんなことがあろうとはな。
だが、私がシュウを守るから問題ない。
そう。絶対に私が守ってみせる。
応援ありがとうございます!
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