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第十二話 リュカの答え
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昨日、「第七話 とある冬の日」を七話目に割り込み投稿しています。
そちらのエピソードがごっそり抜けておりました。なくても読める部分ではあるのですが、今後そちらのエピソードがリュカの心理描写に関わってきますので、未読の方はぜひ読んでいただけると幸いです。
―――――――――――――――――――――――――――――
その夜もクロヴィスは屋敷に帰って来なかった。
いつもであれば、夜半遅くにひっそりと帰って来るけれど、今日は新しい案件の対応のため砦の方に泊ると連絡があったという。もちろん、クロヴィスが連絡したのはリュカではなくクレマンである。
フレデリクは王都から仕事で来たと言っていた。
彼が何の目的で砦を訪れたのかは分からないが、仕事であることは間違いないだろう。隣国との情勢は落ち着いているものの、関所も兼ねた砦では関税や通行税などで小さないざこざは絶えることはない。そのあたりの調整をするのは王都から派遣されて来た事務官たちだが、どうやらクロヴィスはその事務官たちの管理も任されているようだった。リュカにはまったく知らされていないけれど、彼はそれなりに偉くて忙しい役職らしい。
寝台の上で胡坐をかいたまま、リュカはうーんと頭を捻る。
昼間聞いたフレデリクの話を何度も反芻していたのだ。
あのクロヴィスが尊重し、大切にしていた「オレール」という青年。幼い頃から彼と結婚するのだと思い生きて来たクロヴィスは、いったいどんな気持ちでリュカと結婚し、結婚生活を送っているのか。クロヴィスがリュカを愛してくれないのは、リュカがオレールとの結婚を邪魔したからだろうか。
家族に会わせてもらえないのは、どうしてなのか。リュカが貧困街育ちの元男娼であることを、恥じているのかもしれない。
よく考えなくても、リュカは生まれも育ちもクロヴィスの隣に立つにはまったく相応しくない。
それでもクロヴィスが責任を取ると言ってくれたから。出て行けとは言わないから、リュカはここにいてもいいのだと思っていた。けれど、それは自分に都合よく捉えすぎていたのかもしれない。
考えれば考えるほど思考は堂々巡りとなり、深みにはまっていくようだった。
普段のリュカであれば、きっとこれほど心を乱されなかっただろう。
確かに一年前のあの日、フェロモンを暴走させたのはリュカだが、項を噛んだのはクロヴィスだ。これまでクロヴィスの冷たい視線に晒されるたびに、お前にも責任がある、という強い気持ちでその視線を受け流してきた。しかし、リュカはつい先日自らの恋心を自覚したばかりだった。
初めての感情に大いに取り乱し、いつものような大らかな受け止め方が出来なくなっていた。おまけに最近は、露骨にクロヴィスから避けられている。その事実は、心にちくちくと刺さる針のようにリュカを苛んだ。
クロヴィスの不在が寂しくて苦しい。そう思うのに彼の行動の理由すら、オレールの婚約が原因なのだ。
婚約については、マリアとルイゼの噂話だけではなく、フレデリクからも裏が取れている。
オレールは本当に、婚姻が決まったらしい。
貴族の結婚はそのほとんどが政略結婚だ。家同士の契約であり、婚約から婚姻までは短くても一年以上はかかる。しかし、オレールの場合は婚姻をさんざん待たされたあげく、婚約を解消されたという過去があった。そのため、今回はそうならないように半年後には結婚する予定なのだという。
――ずっと好きだった人が見知らぬ相手と結婚する。
その事実を知ったとき、クロヴィスはどれほどの衝撃を受けただろう。
だからこそ、仕事を理由にその原因を作ったリュカを避けているのだ。
じくじくと痛む胸を抱えて、リュカは寝台に横になった。見上げた天蓋も肌触りのいい敷布も、この一年ですっかり見慣れてしまった。使用人たちとも打ち解けて、庭にはリュカのための小さな畑まである。
ヴァリエール家はとても居心地がいい。
客に抱かれなくても物が食べられるし、清潔な衣服だって買ってもらえる。働かずとも衣食住は保証されているだなんて、とても素晴らしい環境だと思う。貧しく苦しい暮らししか知らないリュカにとって、ヴァリエール家は聖書で垣間見る天国のようだった。
それに何より、ここにはクロヴィスがいる。
堅物で生真面目でいつも眉間に皺を寄せているから分かりにくいが、その本質はとても優しいリュカの番。リュカに生まれて初めて安らぎを与えてくれた人。
最初はあれほどいけ好かないアルファだと思っていたのに、この一年間ですっかり絆されてしまった。
出来ることならずっとそばにいたい。けれども、本当にそれでいいのだろうか。
オレールがこのまま結婚してしまえば、取り返しのつかないことになるのではないか。
それこそ、オレールはクロヴィスにとってもう二度と手に入らないものになってしまう。
でも、もし。――もし、リュカとクロヴィスが離婚して、クロヴィスが独身になったなら、どうだろうか。
元々、思い合っていたふたりである。ふたりの間にあった「障害」がなくなれば、自然と元の関係に戻れるのではないだろうか。
そうすれば、もしかしたらクロヴィスも笑顔を見せてくれるかもしれない。
ふいに思いついた考えではあったが、それは自分たちにとっての最適解のような気がした。
今まで気づかなかったけれど、たぶんリュカはずっとクロヴィスに笑って欲しいと思っていたのだ。
切れ長の紫色の瞳が柔らかく緩んで、薄く形のいい唇が弧を描く。
端整な顔をしたクロヴィスのことだ。笑顔もきっと美しいだろう。
結婚して一年。クロヴィスはついぞリュカの前で笑うことはなかった。
――一度でいいから、笑った顔が見て見たかった。
リュカは寝台に寝転がったまま、ぼんやりとそう思った。
もし離婚すれば、おそらくリュカは二度とクロヴィスには会えなくなる。元来、住む世界が違うのだ。交わることのない自分たちが番になったこと自体が間違いで、それこそ本当に運命の悪戯でしかなかった。
それを手放したところで、リュカは元の場所に戻るだけだ。昔から、リュカはどこでだって生きていけた。自分の足で立って、自分の力だけで生きていくことが出来る。
離婚すれば、いくらクロヴィスでも番は解消するだろう。そうなれば、また娼館で働くことが出来るのだ。
だから、クロヴィスと離れても大丈夫だ、とリュカは思った。
けれども、クロヴィスの顔を見られなくなるのは少しだけ――いや、けっこう辛い。今だって、それを考えるだけで胸の奥がぎゅうぎゅうと締め付けられるように痛んでいる。
あれほど見たいと願った笑顔をリュカ自身は見られない。けれど、それでも。
クロヴィスが笑えるようになるのなら、なんでもしてやりたいと思うくらいには彼のことを愛している。
この部屋にいるのがリュカではなくオレールであれば、きっとクロヴィスは毎日帰って来るしたくさん笑ってくれるに違いない。だって、クロヴィスはオレールのことを大切にしていたとフレデリクが言っていたのだから。
思いついてしまえば、リュカの行動は早かった。
次の日にはクレマンに頼んで離婚届を取り寄せてもらった。
もちろん、話をしたときクレマンは驚いた様子だったが、その理由は問われなかった。
クレマンはクロヴィスとリュカが結婚してからの一年間をずっとそばで見て来たのだ。ここ数か月、クロヴィスがリュカを避けていることも知っている。口にしないだけで離婚するのが最善だと、彼も思っていたのかもしれない。
離婚届は上質な羊皮紙に金箔が押されたとても高価そうな紙だった。そういえば、もらった婚姻証明書も提出した婚姻届もこんな見た目だった気がする。まったく正反対の役割を持った紙のくせに、見た目だけが似ているのが妙に面白い。
小難しいことがつらつらと書かれたそれに、リュカは黒インクで自分の名前を書いた。出来るだけ丁寧に、間違えないように。
――リュカ・ヴァリエール。
この一年間、ほとんど名乗らなかったその名前は、きっともう二度と使うこともない。
「よし」
書き上げた自らの署名を見て、リュカは満足そうに頷いた。
これでクロヴィスも自由になれるはずだ。
聞いたところによると、貴族は滅多に離婚はしないという。なんでも、貴族にとって婚姻は家同士の繋がりと契約であり、離婚はそれを破棄する恥ずべき行為だと思われているかららしい。
しかし、クロヴィスの場合は事情が事情だ。世間だって最初は面白おかしく騒ぎ立てるかもしれないが、相手は所詮姓すらない貧民のオメガだ。結局は「無理のないことだ」と受け入れてくれるはずだ。
それからリュカは庭師の回復を待って家を出た。
別れの挨拶をしたとき、庭師を始めとした使用人たちは名残惜しんでくれたが、それもオレールが来ればすぐに忘れるだろう。
最後までリュカは笑っていた。出来るだけ晴れやかに見えるように、冷酷な夫を捨てて奔放に生きるオメガを演じるように、楽しげな様子でリュカは彼らに手を振ったのだった。
そちらのエピソードがごっそり抜けておりました。なくても読める部分ではあるのですが、今後そちらのエピソードがリュカの心理描写に関わってきますので、未読の方はぜひ読んでいただけると幸いです。
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その夜もクロヴィスは屋敷に帰って来なかった。
いつもであれば、夜半遅くにひっそりと帰って来るけれど、今日は新しい案件の対応のため砦の方に泊ると連絡があったという。もちろん、クロヴィスが連絡したのはリュカではなくクレマンである。
フレデリクは王都から仕事で来たと言っていた。
彼が何の目的で砦を訪れたのかは分からないが、仕事であることは間違いないだろう。隣国との情勢は落ち着いているものの、関所も兼ねた砦では関税や通行税などで小さないざこざは絶えることはない。そのあたりの調整をするのは王都から派遣されて来た事務官たちだが、どうやらクロヴィスはその事務官たちの管理も任されているようだった。リュカにはまったく知らされていないけれど、彼はそれなりに偉くて忙しい役職らしい。
寝台の上で胡坐をかいたまま、リュカはうーんと頭を捻る。
昼間聞いたフレデリクの話を何度も反芻していたのだ。
あのクロヴィスが尊重し、大切にしていた「オレール」という青年。幼い頃から彼と結婚するのだと思い生きて来たクロヴィスは、いったいどんな気持ちでリュカと結婚し、結婚生活を送っているのか。クロヴィスがリュカを愛してくれないのは、リュカがオレールとの結婚を邪魔したからだろうか。
家族に会わせてもらえないのは、どうしてなのか。リュカが貧困街育ちの元男娼であることを、恥じているのかもしれない。
よく考えなくても、リュカは生まれも育ちもクロヴィスの隣に立つにはまったく相応しくない。
それでもクロヴィスが責任を取ると言ってくれたから。出て行けとは言わないから、リュカはここにいてもいいのだと思っていた。けれど、それは自分に都合よく捉えすぎていたのかもしれない。
考えれば考えるほど思考は堂々巡りとなり、深みにはまっていくようだった。
普段のリュカであれば、きっとこれほど心を乱されなかっただろう。
確かに一年前のあの日、フェロモンを暴走させたのはリュカだが、項を噛んだのはクロヴィスだ。これまでクロヴィスの冷たい視線に晒されるたびに、お前にも責任がある、という強い気持ちでその視線を受け流してきた。しかし、リュカはつい先日自らの恋心を自覚したばかりだった。
初めての感情に大いに取り乱し、いつものような大らかな受け止め方が出来なくなっていた。おまけに最近は、露骨にクロヴィスから避けられている。その事実は、心にちくちくと刺さる針のようにリュカを苛んだ。
クロヴィスの不在が寂しくて苦しい。そう思うのに彼の行動の理由すら、オレールの婚約が原因なのだ。
婚約については、マリアとルイゼの噂話だけではなく、フレデリクからも裏が取れている。
オレールは本当に、婚姻が決まったらしい。
貴族の結婚はそのほとんどが政略結婚だ。家同士の契約であり、婚約から婚姻までは短くても一年以上はかかる。しかし、オレールの場合は婚姻をさんざん待たされたあげく、婚約を解消されたという過去があった。そのため、今回はそうならないように半年後には結婚する予定なのだという。
――ずっと好きだった人が見知らぬ相手と結婚する。
その事実を知ったとき、クロヴィスはどれほどの衝撃を受けただろう。
だからこそ、仕事を理由にその原因を作ったリュカを避けているのだ。
じくじくと痛む胸を抱えて、リュカは寝台に横になった。見上げた天蓋も肌触りのいい敷布も、この一年ですっかり見慣れてしまった。使用人たちとも打ち解けて、庭にはリュカのための小さな畑まである。
ヴァリエール家はとても居心地がいい。
客に抱かれなくても物が食べられるし、清潔な衣服だって買ってもらえる。働かずとも衣食住は保証されているだなんて、とても素晴らしい環境だと思う。貧しく苦しい暮らししか知らないリュカにとって、ヴァリエール家は聖書で垣間見る天国のようだった。
それに何より、ここにはクロヴィスがいる。
堅物で生真面目でいつも眉間に皺を寄せているから分かりにくいが、その本質はとても優しいリュカの番。リュカに生まれて初めて安らぎを与えてくれた人。
最初はあれほどいけ好かないアルファだと思っていたのに、この一年間ですっかり絆されてしまった。
出来ることならずっとそばにいたい。けれども、本当にそれでいいのだろうか。
オレールがこのまま結婚してしまえば、取り返しのつかないことになるのではないか。
それこそ、オレールはクロヴィスにとってもう二度と手に入らないものになってしまう。
でも、もし。――もし、リュカとクロヴィスが離婚して、クロヴィスが独身になったなら、どうだろうか。
元々、思い合っていたふたりである。ふたりの間にあった「障害」がなくなれば、自然と元の関係に戻れるのではないだろうか。
そうすれば、もしかしたらクロヴィスも笑顔を見せてくれるかもしれない。
ふいに思いついた考えではあったが、それは自分たちにとっての最適解のような気がした。
今まで気づかなかったけれど、たぶんリュカはずっとクロヴィスに笑って欲しいと思っていたのだ。
切れ長の紫色の瞳が柔らかく緩んで、薄く形のいい唇が弧を描く。
端整な顔をしたクロヴィスのことだ。笑顔もきっと美しいだろう。
結婚して一年。クロヴィスはついぞリュカの前で笑うことはなかった。
――一度でいいから、笑った顔が見て見たかった。
リュカは寝台に寝転がったまま、ぼんやりとそう思った。
もし離婚すれば、おそらくリュカは二度とクロヴィスには会えなくなる。元来、住む世界が違うのだ。交わることのない自分たちが番になったこと自体が間違いで、それこそ本当に運命の悪戯でしかなかった。
それを手放したところで、リュカは元の場所に戻るだけだ。昔から、リュカはどこでだって生きていけた。自分の足で立って、自分の力だけで生きていくことが出来る。
離婚すれば、いくらクロヴィスでも番は解消するだろう。そうなれば、また娼館で働くことが出来るのだ。
だから、クロヴィスと離れても大丈夫だ、とリュカは思った。
けれども、クロヴィスの顔を見られなくなるのは少しだけ――いや、けっこう辛い。今だって、それを考えるだけで胸の奥がぎゅうぎゅうと締め付けられるように痛んでいる。
あれほど見たいと願った笑顔をリュカ自身は見られない。けれど、それでも。
クロヴィスが笑えるようになるのなら、なんでもしてやりたいと思うくらいには彼のことを愛している。
この部屋にいるのがリュカではなくオレールであれば、きっとクロヴィスは毎日帰って来るしたくさん笑ってくれるに違いない。だって、クロヴィスはオレールのことを大切にしていたとフレデリクが言っていたのだから。
思いついてしまえば、リュカの行動は早かった。
次の日にはクレマンに頼んで離婚届を取り寄せてもらった。
もちろん、話をしたときクレマンは驚いた様子だったが、その理由は問われなかった。
クレマンはクロヴィスとリュカが結婚してからの一年間をずっとそばで見て来たのだ。ここ数か月、クロヴィスがリュカを避けていることも知っている。口にしないだけで離婚するのが最善だと、彼も思っていたのかもしれない。
離婚届は上質な羊皮紙に金箔が押されたとても高価そうな紙だった。そういえば、もらった婚姻証明書も提出した婚姻届もこんな見た目だった気がする。まったく正反対の役割を持った紙のくせに、見た目だけが似ているのが妙に面白い。
小難しいことがつらつらと書かれたそれに、リュカは黒インクで自分の名前を書いた。出来るだけ丁寧に、間違えないように。
――リュカ・ヴァリエール。
この一年間、ほとんど名乗らなかったその名前は、きっともう二度と使うこともない。
「よし」
書き上げた自らの署名を見て、リュカは満足そうに頷いた。
これでクロヴィスも自由になれるはずだ。
聞いたところによると、貴族は滅多に離婚はしないという。なんでも、貴族にとって婚姻は家同士の繋がりと契約であり、離婚はそれを破棄する恥ずべき行為だと思われているかららしい。
しかし、クロヴィスの場合は事情が事情だ。世間だって最初は面白おかしく騒ぎ立てるかもしれないが、相手は所詮姓すらない貧民のオメガだ。結局は「無理のないことだ」と受け入れてくれるはずだ。
それからリュカは庭師の回復を待って家を出た。
別れの挨拶をしたとき、庭師を始めとした使用人たちは名残惜しんでくれたが、それもオレールが来ればすぐに忘れるだろう。
最後までリュカは笑っていた。出来るだけ晴れやかに見えるように、冷酷な夫を捨てて奔放に生きるオメガを演じるように、楽しげな様子でリュカは彼らに手を振ったのだった。
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