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第十三話 乗合馬車にて
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砦の街から王都までは乗合馬車を乗り継いで二十日間ほどかかる。
隣国から繋がる大きな街道があり、それが砦の街を通って王都まで繋がっているのだ。その道を乗合馬車が走っている。けれども直通ではなく各街で停車するから、そのたびごとに乗り換えが必要になった。
リュカはまっすぐ王都へ向かうつもりだった。以前働いていた『月の花』でまた雇ってもらおうと思っているのだ。これでも一年前は売れっ子だったリュカだ。働かせて欲しいと言えば、否とは言われないだろう。
しかし、待遇はずっと悪くなるはずだ。一般的にアルファに番を解消されたオメガは、番がいたことがないオメガよりも価値が下がる。独占欲の強いアルファは、他人の匂いを嫌がるものだ。
男娼相手に「他人の匂い」なんてちゃんちゃらおかしいが、やはりそういうオメガは「中古品」として安く買い叩かれてしまうものだった。おそらく稼ぎは以前の半分にも満たないだろう。
けれども、あの頃と違って今のリュカには店への借金がない。抱えていた借金は、身請けされたときに全てクロヴィスが返してくれたからだ。
まぁ、自分ひとり食べて行くくらいは稼げるだろう、とリュカは楽観的に考えていた。
しばらく馬車乗り場で待っていると、客を迎えに来た乗合馬車がやって来た。
この街に来たときは娼館が手配した専用の馬車に乗って来た。だから、リュカは乗合馬車に乗るのは初めてだった。
乗合馬車は二頭立ての箱馬車で、座席が五列あり十数人ほどが乗車できるようになっている。座面は硬く、乗り心地はあまりよくなかった。
リュカは空いていた一番後ろの席の窓際に座った。僅かな私物の入った鞄を膝に抱え、外套のフードを目深に被って窓の方を向く。
乗客はそう多くはなく、リュカも含めて七人ほどだった。リュカの隣には年若い女性が座り、そのさらに隣には果物籠を抱えた老婆が座っていた。彼女らの陰に隠れるように、リュカは背を丸めて息を潜める。
リュカは自分の容姿が優れていることを知っていた。オメガらしくほっそりとした肢体も目立つ容貌も、娼館ではもてはやされても市井ではあまり役に立たない。それどころか悪目立ちしてしまい、オメガであることがすぐにばれてしまう。
周囲にオメガだとばれてよかったことなど一度もなかった。ベータの中にあって、オメガは異質以外の何ものでもないのだ。だからこそ、リュカは出来るだけ人目を惹かないように細心の注意を払った。
ヴァリエール家で買い与えられたものは、全て置いてきた。
生成りのシャツも動きやすいトラウザーズも柔らかい革靴も、全てリュカ個人ではなく「ヴァリエール家の奥方」のために用意された物だと思ったからだ。
とはいえ、あれほど金のある家だ。新しく来るであろうオレールが、リュカのおさがりを使うとも思えない。捨てるなり、使用人たちに与えるなりいいようにするだろう。
けれども、どうしても置いてこられなかったものがあった。
それが、今リュカが着ている外套だ。
あの冬の日に、クロヴィスが贈ってくれた毛織の外套。
春を迎えた今の季節に着るには少々暑いが、どうしても名残惜しくて着て来てしまった。
それはリュカがヴァリエール家で過ごしたたったひとつの思い出だった。他にクロヴィスがくれたのは雪だるまくらいだが、あれは気温の上昇とともに消えてなくなってしまったから。
寒い日に触れた、痛いほどに冷たい雪の感触。自らのマフラーをリュカに巻いてくれた不器用な優しさを思って、リュカはそっと目を瞑る。
冷えたリュカを抱きしめてくれた逞しい腕も大きな身体も、もう二度と触れることは叶わない。それでいいと、全てを置いてきたのは他でもないリュカ自身だ。
昔から、仕方がないと諦めることは得意だった。おそらく貧民街で暮らす多くのオメガがそうであるように、そうやって自分の心を誤魔化さないと生きていけなかったのだ。
だから、今は名残惜しくてもすぐに忘れることが出来るはずだ。ヴァリエール家での穏やかな暮らしも、優しい使用人たちも、クロヴィスのことも。――そう思うのに。
どうにも、クロヴィスのことは心に残ってしまう。
脳裏に浮かぶのは、微かに眉根を寄せた不機嫌そうな顔だ。灰色の髪と紫色の瞳をした、リュカの運命の番。一緒にいた一年の間、とうとう彼の笑顔を見ることは出来なかった。
クロヴィスは今日も砦で仕事をしているのだろうか。屋敷にはときどきしか帰って来ないし、冬の間はほとんど顔を合わせなかった。最後に声を聞いたのは、果たしていつだったのか。
もう離婚届は受け取っただろうか。受け取ったとすれば、少しくらい悲しいと思ってくれただろうか。いや、きっと邪魔なリュカがいなくなって、大いに安堵したに違いない。
――最後にもう一度、声くらい聞きたかった。
それだけを思って、リュカはもうクロヴィスのことを考えるのをやめた。
目を開けて、窓の外を見る。流れていく景色は見知らぬ街そのもので、ここで一年も暮らしていたという実感は、ついぞ湧いてこなかった。
来たときと同じ街道を馬車は軽快に走って行く。
砦の街から次の街へは半日ほどかかる距離だ。堅牢な城壁で囲まれた砦の街は、かつては要塞として使われており、街の周りをいくつもの堀が囲っている。それを通り過ぎれば、敵の侵入を阻むように深い森が広がっていた。これも隣国と戦をしていた頃の名残だという。
窓硝子越しに射し込む陽気が心地いい。それはまるでクロヴィスの香りのようで、大きな安心感があった。
隣の女性と老婆が一切リュカに興味を示さなかったのもありがたかった。彼女たちは元から知り合いだったのか、ふたりで楽しげに会話に花を咲かせている。耳に入ってくるそれを聞いていると、どうやら若い女性は隣町まで婚約者に会いに行くらしい。その幸せそうな様子が眩しくて、少しだけ羨ましかった。
リュカはすっかり警戒を解いてうとうとと舟を漕いでいた。
次の街まで何事もなく到着するはずだった。
しかし、リュカは忘れていたのだ。ここ最近、何故クロヴィスが多忙を極めていたのかを。
森に入り、しばらく経った頃だった。
それまで軽快に走っていた馬車がふいにがたん、と派手な音を立てて止まった。
窓に頭を預けて舟を漕いでいたリュカは、受け身を取ることが出来ず思いっきり前の座席で頭を打つことになった。その衝撃で、それまで眠りの浅瀬を漂っていた意識がはっきりと覚醒する。
馬車が止まったからといって、もちろん街に到着したわけではない。周囲は鬱蒼とした木々に囲まれていて、濃い影が馬車を覆っていた。窓の外はもう夕暮れで、橙色の空が木々の向こうにかすかに見えている。
「なに……」
こんなところで止まる予定などなかったはずだ。
――何か、あったのか。
隣に座っている女性も不安そうに隣の老婆と囁き合っている。車内全体にざわめきが広がり、皆が外の様子を確かめようと窓の方を見たときだった。
大きな破壊音と怒声が聞こえた。外で言い争う声と辺りに響き渡る悲鳴。同時に、馬車の前方にあった扉が外側から壊されて、数人の男たちが怒鳴り声を上げながら馬車の中になだれ込んで来る。
くたびれた格好に無精ひげを生やした男たちは、全員が手に剣を持っていた。
それを見て、リュカはクレマンの言葉が脳裏に浮かぶ。
――隣街までの街道沿いに、盗賊が出る。
クロヴィスが多忙になり、帰って来なくなったのは、街道を荒らすという盗賊たちが原因だった。そのことを今更ながら思い出す。
「大人しくしろ!」
盗賊たちの乱入に動転した乗客たちが次々に悲鳴を上げる。それに応えるように男たちが大声で怒鳴り散らした。
リュカの心臓がばくばくと嫌な音をたてた。
――どうしよう。どうすればいい。
背中を冷たい汗が流れていくのが分かった。
盗賊のことを忘れていたわけではない。
だってここ数日、クロヴィスはずっと砦から帰ってきていなかった。それはつまり、帰宅する暇もないほど盗賊の被害が増えたということだ。しかし、リュカは心のどこかでクロヴィスが帰って来ないのは、リュカに会いたくないからだと思っていたのだ。
それに、盗賊というのは金目の物を持っていそうな商人たちを狙うと聞いていたことも、リュカが盗賊たちを警戒していなかった一因だった。女中たちがため息交じりに話してくれた噂では、騎士たちが警護している隙を突いて日に何度も商人が襲われていたという。
けれども、彼らがこんな庶民が使う乗合馬車まで襲うと聞いたこともなかった。
しかし、これは現実だった。
目の前には盗賊がいて、彼らはリュカ達に剣を向けていた。
逆らえば殺す、そう言って醜く口の端を歪めるその顔は、決して冗談なんかではない。
「金目の物を出せ」
盗賊たちは震える乗客たちに金品を要求し始めた。しかし、ここは乗合馬車だ。リュカがちらりと見ただけでも、乗客は町人や農夫たちばかりでとてもじゃないが金目の物など持っていそうもなかった。
「ちっ、やっぱしけてんなぁ」
前列にいた町人が差し出した財布を見て、盗賊のひとりが言った。
それは乗客たちが裕福ではないのが分かっていた口調だった。けれども、男たちは馬車の中を巡り、金品を奪っていく。
リュカは膝に抱えていた鞄をぎゅっと握りしめた。
この中には僅かな衣服と金しか入っていない。金はリュカが男娼をしながら少しずつ貯めたものだ。
娼館での暮らしは華やかに見えるが、食費も衣装代も全て娼婦や男娼が自ら払わなければならない。借金を返しながらの身では、砦の街から王都までの旅費を支払えばすぐに尽きてしまう程度の金額しか貯めることが出来なかった。
ここは大人しく命を優先するべきだということは分かっている。金は失ってもまた稼げばいいが、命がなくなれば取り返しがつかない。
けれど、ここで旅費がなくなればリュカは王都には行けなくなってしまう。
砦の街にも娼館はあるだろう。そこで見ず知らずのリュカを雇ってくれるだろうか。
――雇ってくれなかったら、どうするかな。
ずっと男娼として働いていたリュカは、娼館の暮らししか知らない。今更、発情期のあるオメガの身体で下働きが出来るとも思えなかった。
そんなことを考えていたときだった。とうとう髭面の男が一番後ろまでやって来てリュカ達を見た。後ろに座っているのはリュカと、隣の女性。それから果物を抱えた老婆だけだ。
髭の男はリュカの隣――若い女性を見て、厭らしく笑った。
「おい、いるじゃねぇか。女だ」
「きゃあ!?」
突然、腕を掴まれた女性は悲鳴を上げた。しかし、男たちはその様子をひどく愉快そうに笑う。
「よかったなぁ。乗客が男ばっかりじゃ、乗合馬車襲った意味がねぇもんな」
ぎゃはは、と背後の男もヤジを飛ばした。その言葉に、リュカは一瞬で盗賊たちの意図を理解する。
普段、商人たちばかりを襲う彼らがわざわざ乗合馬車を襲った理由。
それはきっと金ではない。金目当てであれば、庶民しか乗っていない乗合馬車なんかよりも、いつもどおり商人を狙った方がよほど効率がいい。
けれども、商人たちでは扱っていない「もの」がある。
それを盗賊たちは求めていた。
男たちは自らの欲望を満たすために、若い女性を狙って馬車を襲ったのだ。
隣国から繋がる大きな街道があり、それが砦の街を通って王都まで繋がっているのだ。その道を乗合馬車が走っている。けれども直通ではなく各街で停車するから、そのたびごとに乗り換えが必要になった。
リュカはまっすぐ王都へ向かうつもりだった。以前働いていた『月の花』でまた雇ってもらおうと思っているのだ。これでも一年前は売れっ子だったリュカだ。働かせて欲しいと言えば、否とは言われないだろう。
しかし、待遇はずっと悪くなるはずだ。一般的にアルファに番を解消されたオメガは、番がいたことがないオメガよりも価値が下がる。独占欲の強いアルファは、他人の匂いを嫌がるものだ。
男娼相手に「他人の匂い」なんてちゃんちゃらおかしいが、やはりそういうオメガは「中古品」として安く買い叩かれてしまうものだった。おそらく稼ぎは以前の半分にも満たないだろう。
けれども、あの頃と違って今のリュカには店への借金がない。抱えていた借金は、身請けされたときに全てクロヴィスが返してくれたからだ。
まぁ、自分ひとり食べて行くくらいは稼げるだろう、とリュカは楽観的に考えていた。
しばらく馬車乗り場で待っていると、客を迎えに来た乗合馬車がやって来た。
この街に来たときは娼館が手配した専用の馬車に乗って来た。だから、リュカは乗合馬車に乗るのは初めてだった。
乗合馬車は二頭立ての箱馬車で、座席が五列あり十数人ほどが乗車できるようになっている。座面は硬く、乗り心地はあまりよくなかった。
リュカは空いていた一番後ろの席の窓際に座った。僅かな私物の入った鞄を膝に抱え、外套のフードを目深に被って窓の方を向く。
乗客はそう多くはなく、リュカも含めて七人ほどだった。リュカの隣には年若い女性が座り、そのさらに隣には果物籠を抱えた老婆が座っていた。彼女らの陰に隠れるように、リュカは背を丸めて息を潜める。
リュカは自分の容姿が優れていることを知っていた。オメガらしくほっそりとした肢体も目立つ容貌も、娼館ではもてはやされても市井ではあまり役に立たない。それどころか悪目立ちしてしまい、オメガであることがすぐにばれてしまう。
周囲にオメガだとばれてよかったことなど一度もなかった。ベータの中にあって、オメガは異質以外の何ものでもないのだ。だからこそ、リュカは出来るだけ人目を惹かないように細心の注意を払った。
ヴァリエール家で買い与えられたものは、全て置いてきた。
生成りのシャツも動きやすいトラウザーズも柔らかい革靴も、全てリュカ個人ではなく「ヴァリエール家の奥方」のために用意された物だと思ったからだ。
とはいえ、あれほど金のある家だ。新しく来るであろうオレールが、リュカのおさがりを使うとも思えない。捨てるなり、使用人たちに与えるなりいいようにするだろう。
けれども、どうしても置いてこられなかったものがあった。
それが、今リュカが着ている外套だ。
あの冬の日に、クロヴィスが贈ってくれた毛織の外套。
春を迎えた今の季節に着るには少々暑いが、どうしても名残惜しくて着て来てしまった。
それはリュカがヴァリエール家で過ごしたたったひとつの思い出だった。他にクロヴィスがくれたのは雪だるまくらいだが、あれは気温の上昇とともに消えてなくなってしまったから。
寒い日に触れた、痛いほどに冷たい雪の感触。自らのマフラーをリュカに巻いてくれた不器用な優しさを思って、リュカはそっと目を瞑る。
冷えたリュカを抱きしめてくれた逞しい腕も大きな身体も、もう二度と触れることは叶わない。それでいいと、全てを置いてきたのは他でもないリュカ自身だ。
昔から、仕方がないと諦めることは得意だった。おそらく貧民街で暮らす多くのオメガがそうであるように、そうやって自分の心を誤魔化さないと生きていけなかったのだ。
だから、今は名残惜しくてもすぐに忘れることが出来るはずだ。ヴァリエール家での穏やかな暮らしも、優しい使用人たちも、クロヴィスのことも。――そう思うのに。
どうにも、クロヴィスのことは心に残ってしまう。
脳裏に浮かぶのは、微かに眉根を寄せた不機嫌そうな顔だ。灰色の髪と紫色の瞳をした、リュカの運命の番。一緒にいた一年の間、とうとう彼の笑顔を見ることは出来なかった。
クロヴィスは今日も砦で仕事をしているのだろうか。屋敷にはときどきしか帰って来ないし、冬の間はほとんど顔を合わせなかった。最後に声を聞いたのは、果たしていつだったのか。
もう離婚届は受け取っただろうか。受け取ったとすれば、少しくらい悲しいと思ってくれただろうか。いや、きっと邪魔なリュカがいなくなって、大いに安堵したに違いない。
――最後にもう一度、声くらい聞きたかった。
それだけを思って、リュカはもうクロヴィスのことを考えるのをやめた。
目を開けて、窓の外を見る。流れていく景色は見知らぬ街そのもので、ここで一年も暮らしていたという実感は、ついぞ湧いてこなかった。
来たときと同じ街道を馬車は軽快に走って行く。
砦の街から次の街へは半日ほどかかる距離だ。堅牢な城壁で囲まれた砦の街は、かつては要塞として使われており、街の周りをいくつもの堀が囲っている。それを通り過ぎれば、敵の侵入を阻むように深い森が広がっていた。これも隣国と戦をしていた頃の名残だという。
窓硝子越しに射し込む陽気が心地いい。それはまるでクロヴィスの香りのようで、大きな安心感があった。
隣の女性と老婆が一切リュカに興味を示さなかったのもありがたかった。彼女たちは元から知り合いだったのか、ふたりで楽しげに会話に花を咲かせている。耳に入ってくるそれを聞いていると、どうやら若い女性は隣町まで婚約者に会いに行くらしい。その幸せそうな様子が眩しくて、少しだけ羨ましかった。
リュカはすっかり警戒を解いてうとうとと舟を漕いでいた。
次の街まで何事もなく到着するはずだった。
しかし、リュカは忘れていたのだ。ここ最近、何故クロヴィスが多忙を極めていたのかを。
森に入り、しばらく経った頃だった。
それまで軽快に走っていた馬車がふいにがたん、と派手な音を立てて止まった。
窓に頭を預けて舟を漕いでいたリュカは、受け身を取ることが出来ず思いっきり前の座席で頭を打つことになった。その衝撃で、それまで眠りの浅瀬を漂っていた意識がはっきりと覚醒する。
馬車が止まったからといって、もちろん街に到着したわけではない。周囲は鬱蒼とした木々に囲まれていて、濃い影が馬車を覆っていた。窓の外はもう夕暮れで、橙色の空が木々の向こうにかすかに見えている。
「なに……」
こんなところで止まる予定などなかったはずだ。
――何か、あったのか。
隣に座っている女性も不安そうに隣の老婆と囁き合っている。車内全体にざわめきが広がり、皆が外の様子を確かめようと窓の方を見たときだった。
大きな破壊音と怒声が聞こえた。外で言い争う声と辺りに響き渡る悲鳴。同時に、馬車の前方にあった扉が外側から壊されて、数人の男たちが怒鳴り声を上げながら馬車の中になだれ込んで来る。
くたびれた格好に無精ひげを生やした男たちは、全員が手に剣を持っていた。
それを見て、リュカはクレマンの言葉が脳裏に浮かぶ。
――隣街までの街道沿いに、盗賊が出る。
クロヴィスが多忙になり、帰って来なくなったのは、街道を荒らすという盗賊たちが原因だった。そのことを今更ながら思い出す。
「大人しくしろ!」
盗賊たちの乱入に動転した乗客たちが次々に悲鳴を上げる。それに応えるように男たちが大声で怒鳴り散らした。
リュカの心臓がばくばくと嫌な音をたてた。
――どうしよう。どうすればいい。
背中を冷たい汗が流れていくのが分かった。
盗賊のことを忘れていたわけではない。
だってここ数日、クロヴィスはずっと砦から帰ってきていなかった。それはつまり、帰宅する暇もないほど盗賊の被害が増えたということだ。しかし、リュカは心のどこかでクロヴィスが帰って来ないのは、リュカに会いたくないからだと思っていたのだ。
それに、盗賊というのは金目の物を持っていそうな商人たちを狙うと聞いていたことも、リュカが盗賊たちを警戒していなかった一因だった。女中たちがため息交じりに話してくれた噂では、騎士たちが警護している隙を突いて日に何度も商人が襲われていたという。
けれども、彼らがこんな庶民が使う乗合馬車まで襲うと聞いたこともなかった。
しかし、これは現実だった。
目の前には盗賊がいて、彼らはリュカ達に剣を向けていた。
逆らえば殺す、そう言って醜く口の端を歪めるその顔は、決して冗談なんかではない。
「金目の物を出せ」
盗賊たちは震える乗客たちに金品を要求し始めた。しかし、ここは乗合馬車だ。リュカがちらりと見ただけでも、乗客は町人や農夫たちばかりでとてもじゃないが金目の物など持っていそうもなかった。
「ちっ、やっぱしけてんなぁ」
前列にいた町人が差し出した財布を見て、盗賊のひとりが言った。
それは乗客たちが裕福ではないのが分かっていた口調だった。けれども、男たちは馬車の中を巡り、金品を奪っていく。
リュカは膝に抱えていた鞄をぎゅっと握りしめた。
この中には僅かな衣服と金しか入っていない。金はリュカが男娼をしながら少しずつ貯めたものだ。
娼館での暮らしは華やかに見えるが、食費も衣装代も全て娼婦や男娼が自ら払わなければならない。借金を返しながらの身では、砦の街から王都までの旅費を支払えばすぐに尽きてしまう程度の金額しか貯めることが出来なかった。
ここは大人しく命を優先するべきだということは分かっている。金は失ってもまた稼げばいいが、命がなくなれば取り返しがつかない。
けれど、ここで旅費がなくなればリュカは王都には行けなくなってしまう。
砦の街にも娼館はあるだろう。そこで見ず知らずのリュカを雇ってくれるだろうか。
――雇ってくれなかったら、どうするかな。
ずっと男娼として働いていたリュカは、娼館の暮らししか知らない。今更、発情期のあるオメガの身体で下働きが出来るとも思えなかった。
そんなことを考えていたときだった。とうとう髭面の男が一番後ろまでやって来てリュカ達を見た。後ろに座っているのはリュカと、隣の女性。それから果物を抱えた老婆だけだ。
髭の男はリュカの隣――若い女性を見て、厭らしく笑った。
「おい、いるじゃねぇか。女だ」
「きゃあ!?」
突然、腕を掴まれた女性は悲鳴を上げた。しかし、男たちはその様子をひどく愉快そうに笑う。
「よかったなぁ。乗客が男ばっかりじゃ、乗合馬車襲った意味がねぇもんな」
ぎゃはは、と背後の男もヤジを飛ばした。その言葉に、リュカは一瞬で盗賊たちの意図を理解する。
普段、商人たちばかりを襲う彼らがわざわざ乗合馬車を襲った理由。
それはきっと金ではない。金目当てであれば、庶民しか乗っていない乗合馬車なんかよりも、いつもどおり商人を狙った方がよほど効率がいい。
けれども、商人たちでは扱っていない「もの」がある。
それを盗賊たちは求めていた。
男たちは自らの欲望を満たすために、若い女性を狙って馬車を襲ったのだ。
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