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第十話 来訪者
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箝口令を敷かれた使用人たちは、オレールのことを訊ねるとみな一様に口を噤んでしまう。
あのクレマンでさえ、リュカからさっと視線を逸らすのだ。八方塞がりだな、と思っていたリュカだったが、数日後思わぬ機会があった。
その日、リュカはひとりで庭の水やりをしていた。
本来ならば、水やりを始めとした庭の手入れは庭師の仕事だ。しかし、先日、いつもリュカに畑仕事を教えてくれる庭師が、足首を捻挫したのだ。怪我自体は酷くはないが、高齢であることも考慮して、数日間の安静が必要だという医者の診断だった。
春のこの時期、庭仕事は山のようにある。芽吹きだした草木に水やりをするのだって、生えすぎた花の蕾を摘芯するのだって毎日行わなければならない。
しかし、ヴァリエール家には庭師は捻挫した老爺ひとりしかいなかった。他の家の庭師に頼むか、と悩んでいた庭師にリュカはじゃあ、自分がやると庭の世話を買って出たのだった。
本来、リュカには屋敷の主人の伴侶としてやるべきことがある。それは使用人たちの管理だったり、屋敷全体の出納だったりするのだが、如何せん学のないリュカには不可能なことばかりだった。
孤児だったリュカは当然、学校には行っていない。娼館で最低限の読み書きを習い、貴族たちを楽しませるための教養は叩き込まれたが、計算などはからっきしだ。
ヴェリエール家の管理はクレマンにまかせっきりで、それでうまく回っているのだから、リュカには口を出す必要も権利もない。つまり、リュカにはこなすべき役割がなかった。
日がな一日庭に出たり、好きな本を読んだりしてのんびりと過ごしている。僻地である砦の街には社交するような相手もおらず、時間だけはたっぷりと余っていた。
当然、庭師はひどく恐縮していたが、リュカの熱意と有り余る時間を知って、最終的には彼の指示に従うことを条件に庭の世話を任せてくれた。もちろん、クレマンからの許可は得ている。
そういうわけで、庭師の足がよくなるまで庭の世話全般を、リュカが担当することになったのだ。
何をしていてもクロヴィスとオレールのことは考えてしまうが、それでもひとりで考え込んでいるよりも身体を動かしている方が何倍もマシだった。
桶に入った水を運んで、柄杓で草木に撒いていく。水やりと雑草抜きは庭の端から端まで丁寧に行って欲しいと言われているから、リュカもことさら慎重に水を撒いた。
せっせと水を撒いていると、じんわりと汗をかいてくる。そろそろ砦の街も屋外で動いていると汗ばむ陽気になって来たな、と腰を伸ばしたときだった。
「ごめんください」と見知らぬ声が聞こえた。
そのときリュカがいたのは丁度正面門の横手にある植木の前で、顔を上げて見れば柵の向こうに来客の姿が見えた。こういうとき、客の対応をするのは門番の役割だ。しかし、いつもであれば常に控えているはずの門番が不在だった。
交代の時間だったろうか、と首を傾げながらリュカは来客の方を見た。
来客はずいぶんと体格のいい若い男だった。背が高く、くたびれた旅装の上からでもその鍛えた体躯が分かった。おまけに連れている馬は毛並みがよく、腰に高そうな剣を佩いている。
「旦那様へ御用の方ですか?」
あまりにも立派な男の様子に、思わずリュカは訊ねた。
最近、屋敷には砦の騎士たちが頻繁に出入りしているから、彼もそのひとりかと思ったのだ。
明らかにアルファである男が、出入りの業者であるわけがなかった。
すると、男は被っていたローブのフードを取ってリュカの方をまじまじと見た。その明るいヘーゼルの瞳に既視感を覚えて、リュカも麦わら帽子を取る。
「「あ」」
おそらく、声を出したのはふたりとも同時だった。
「ラファイエット卿?」
「君は、『月の花』の……?」
『月の花』とは、クロヴィスと結婚するまでリュカがいた娼館のことだ。
リュカはこの男のことを知っていた。
男の名前はフレデリク・ド・ラファイエット。『月の花』の常連で、王国騎士団の騎士を務めている。つまり、クロヴィスの同僚もしくは上司か部下だ。
フレデリクの方もリュカに見覚えがあったのだろう。リュカ自身、彼の相手を務めたことはないが、同僚たちと一緒に酒宴に参加した際に酌くらいはしたことがあった。
あの頃とは違い、化粧もしていなければ艶やかな衣装も着ていないが、それでもリュカは目を惹く容貌をしている。
「『月の花』を辞めたとは聞いていたが、どうしてここに?」
フレデリクが破顔しながら、門の前まで近寄ってくる。『月の花』のオメガたちは国から保証された公娼たちだ。だからこそフレデリクも警戒を解いたのだろう。
庭師でもしているのか、と冗談交じりに問われて首を横に振る。
「結婚したので、店は辞めたんです」
「結婚?……まさか」
ひどく驚いたフレデリクの顔に、リュカは苦笑する。
『月の花』は王都でも有数の高級娼館だから、そこの男娼を身請けするためには多額の身請け金が必要になる。そんな金を用意できる人物など、この屋敷にはたったひとりしかいない。
「クロヴィスがオレール以外のオメガと結婚したとは聞いていたが、相手は君だったのか」
フレデリクの言葉に今度はリュカが驚いた。彼の口ぶりがクロヴィスと親しいそれだったからだ。
「旦那様とは親しいんですか?」
「幼馴染だ。腐れ縁と言った方がいいかもしれないな。今もこうやって仕事で付き合いがある」
「幼馴染……」
先ほど、フレデリクが口にした「オレール」の名前。きっと彼はオレールのことも知っているのだろう。
「では、ラファイエット卿は旦那様についてお詳しいんですね」
手に持った麦わら帽子を弄りながら、リュカは呟いた。フレデリクの庇護欲をそそるように、軽く見上げるのも忘れない。
こういった小技はクロヴィスにはとんと効果がない――というか気づきもしないが、遊び人として浮名を流しているフレデリクには効果は抜群だった。フレデリクは娼婦たちが媚びを売るのを分かった上で楽しむ余裕を持った男だ。
「詳しいとも。貴族学校から士官学校まで一緒だ。あいつについて知りたいことがあるなら何でも聞いてくれ」
「じゃあ、旦那様のお好きな食べ物は何ですか?」
「食べ物? 昔からホロホロ鳥のローストが好きだったと思うが」
フレデリクの答えにリュカはやっぱり、と小さく笑う。ローストが一番好みだが、煮たり蒸したりしたホロホロ鳥も好みのようで、晩餐に出るとあの仏頂面が微かに綻ぶのだ。
「嫌いなものはキノコですか?」
「そうだ。子どもの頃、お父上と領地でキノコ狩りに行って毒キノコに当たったんだ。もうずいぶんと食べられるようになったが、子どもの頃はそれこそキノコだけを皿の端に避けて怒られていたな」
くつくつと笑いながらフレデリクが言った。きっと彼の脳裏には幼い頃のクロヴィスが思い浮かんでいるのだろう。
それからリュカは続けてフレデリクにいくつかの質問をした。
例えば、クロヴィスが好む書籍の傾向や休日の過ごし方。好きな酒の種類や花など本当に多様な「クロヴィスの好み」を訊ねたのだ。フレデリクもその都度丁寧に答えてくれて、果ては聞いてもいないのに馬の世話のこだわりまで教えてくれた。
あのクレマンでさえ、リュカからさっと視線を逸らすのだ。八方塞がりだな、と思っていたリュカだったが、数日後思わぬ機会があった。
その日、リュカはひとりで庭の水やりをしていた。
本来ならば、水やりを始めとした庭の手入れは庭師の仕事だ。しかし、先日、いつもリュカに畑仕事を教えてくれる庭師が、足首を捻挫したのだ。怪我自体は酷くはないが、高齢であることも考慮して、数日間の安静が必要だという医者の診断だった。
春のこの時期、庭仕事は山のようにある。芽吹きだした草木に水やりをするのだって、生えすぎた花の蕾を摘芯するのだって毎日行わなければならない。
しかし、ヴァリエール家には庭師は捻挫した老爺ひとりしかいなかった。他の家の庭師に頼むか、と悩んでいた庭師にリュカはじゃあ、自分がやると庭の世話を買って出たのだった。
本来、リュカには屋敷の主人の伴侶としてやるべきことがある。それは使用人たちの管理だったり、屋敷全体の出納だったりするのだが、如何せん学のないリュカには不可能なことばかりだった。
孤児だったリュカは当然、学校には行っていない。娼館で最低限の読み書きを習い、貴族たちを楽しませるための教養は叩き込まれたが、計算などはからっきしだ。
ヴェリエール家の管理はクレマンにまかせっきりで、それでうまく回っているのだから、リュカには口を出す必要も権利もない。つまり、リュカにはこなすべき役割がなかった。
日がな一日庭に出たり、好きな本を読んだりしてのんびりと過ごしている。僻地である砦の街には社交するような相手もおらず、時間だけはたっぷりと余っていた。
当然、庭師はひどく恐縮していたが、リュカの熱意と有り余る時間を知って、最終的には彼の指示に従うことを条件に庭の世話を任せてくれた。もちろん、クレマンからの許可は得ている。
そういうわけで、庭師の足がよくなるまで庭の世話全般を、リュカが担当することになったのだ。
何をしていてもクロヴィスとオレールのことは考えてしまうが、それでもひとりで考え込んでいるよりも身体を動かしている方が何倍もマシだった。
桶に入った水を運んで、柄杓で草木に撒いていく。水やりと雑草抜きは庭の端から端まで丁寧に行って欲しいと言われているから、リュカもことさら慎重に水を撒いた。
せっせと水を撒いていると、じんわりと汗をかいてくる。そろそろ砦の街も屋外で動いていると汗ばむ陽気になって来たな、と腰を伸ばしたときだった。
「ごめんください」と見知らぬ声が聞こえた。
そのときリュカがいたのは丁度正面門の横手にある植木の前で、顔を上げて見れば柵の向こうに来客の姿が見えた。こういうとき、客の対応をするのは門番の役割だ。しかし、いつもであれば常に控えているはずの門番が不在だった。
交代の時間だったろうか、と首を傾げながらリュカは来客の方を見た。
来客はずいぶんと体格のいい若い男だった。背が高く、くたびれた旅装の上からでもその鍛えた体躯が分かった。おまけに連れている馬は毛並みがよく、腰に高そうな剣を佩いている。
「旦那様へ御用の方ですか?」
あまりにも立派な男の様子に、思わずリュカは訊ねた。
最近、屋敷には砦の騎士たちが頻繁に出入りしているから、彼もそのひとりかと思ったのだ。
明らかにアルファである男が、出入りの業者であるわけがなかった。
すると、男は被っていたローブのフードを取ってリュカの方をまじまじと見た。その明るいヘーゼルの瞳に既視感を覚えて、リュカも麦わら帽子を取る。
「「あ」」
おそらく、声を出したのはふたりとも同時だった。
「ラファイエット卿?」
「君は、『月の花』の……?」
『月の花』とは、クロヴィスと結婚するまでリュカがいた娼館のことだ。
リュカはこの男のことを知っていた。
男の名前はフレデリク・ド・ラファイエット。『月の花』の常連で、王国騎士団の騎士を務めている。つまり、クロヴィスの同僚もしくは上司か部下だ。
フレデリクの方もリュカに見覚えがあったのだろう。リュカ自身、彼の相手を務めたことはないが、同僚たちと一緒に酒宴に参加した際に酌くらいはしたことがあった。
あの頃とは違い、化粧もしていなければ艶やかな衣装も着ていないが、それでもリュカは目を惹く容貌をしている。
「『月の花』を辞めたとは聞いていたが、どうしてここに?」
フレデリクが破顔しながら、門の前まで近寄ってくる。『月の花』のオメガたちは国から保証された公娼たちだ。だからこそフレデリクも警戒を解いたのだろう。
庭師でもしているのか、と冗談交じりに問われて首を横に振る。
「結婚したので、店は辞めたんです」
「結婚?……まさか」
ひどく驚いたフレデリクの顔に、リュカは苦笑する。
『月の花』は王都でも有数の高級娼館だから、そこの男娼を身請けするためには多額の身請け金が必要になる。そんな金を用意できる人物など、この屋敷にはたったひとりしかいない。
「クロヴィスがオレール以外のオメガと結婚したとは聞いていたが、相手は君だったのか」
フレデリクの言葉に今度はリュカが驚いた。彼の口ぶりがクロヴィスと親しいそれだったからだ。
「旦那様とは親しいんですか?」
「幼馴染だ。腐れ縁と言った方がいいかもしれないな。今もこうやって仕事で付き合いがある」
「幼馴染……」
先ほど、フレデリクが口にした「オレール」の名前。きっと彼はオレールのことも知っているのだろう。
「では、ラファイエット卿は旦那様についてお詳しいんですね」
手に持った麦わら帽子を弄りながら、リュカは呟いた。フレデリクの庇護欲をそそるように、軽く見上げるのも忘れない。
こういった小技はクロヴィスにはとんと効果がない――というか気づきもしないが、遊び人として浮名を流しているフレデリクには効果は抜群だった。フレデリクは娼婦たちが媚びを売るのを分かった上で楽しむ余裕を持った男だ。
「詳しいとも。貴族学校から士官学校まで一緒だ。あいつについて知りたいことがあるなら何でも聞いてくれ」
「じゃあ、旦那様のお好きな食べ物は何ですか?」
「食べ物? 昔からホロホロ鳥のローストが好きだったと思うが」
フレデリクの答えにリュカはやっぱり、と小さく笑う。ローストが一番好みだが、煮たり蒸したりしたホロホロ鳥も好みのようで、晩餐に出るとあの仏頂面が微かに綻ぶのだ。
「嫌いなものはキノコですか?」
「そうだ。子どもの頃、お父上と領地でキノコ狩りに行って毒キノコに当たったんだ。もうずいぶんと食べられるようになったが、子どもの頃はそれこそキノコだけを皿の端に避けて怒られていたな」
くつくつと笑いながらフレデリクが言った。きっと彼の脳裏には幼い頃のクロヴィスが思い浮かんでいるのだろう。
それからリュカは続けてフレデリクにいくつかの質問をした。
例えば、クロヴィスが好む書籍の傾向や休日の過ごし方。好きな酒の種類や花など本当に多様な「クロヴィスの好み」を訊ねたのだ。フレデリクもその都度丁寧に答えてくれて、果ては聞いてもいないのに馬の世話のこだわりまで教えてくれた。
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