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第九話 元婚約者について

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 クレマンは名家ヴァリエール家の家令らしく、常に主人であるクロヴィスに忠実で、その一環としてリュカの世話も焼いてくれる。何かと気遣ってくれるとはいえ、結局はクロヴィスの味方だ。そんな彼がつい口を出してしまうくらい、リュカは目に見えて落ち込んでいたのだろうか。

 ――俺が落ち込む? クロヴィスに避けられて?

 それこそ意味が分からない、とリュカはまた首を傾げる。
 リュカにとってクロヴィスは番で、旦那様だ。しかし、それは自分の衣食住を保証してくれる有り難い相手というだけで、それ以上の存在意義はないはずだった。それなのに。

 種蒔きをしていても、美味しいお菓子を食べていても、リュカの気分はずっと沈んだままだった。いくら気を紛らわそうとしても、クロヴィスのことが頭から離れないのだ。
 今日だって、きっとクロヴィスは帰って来ない。赤茄子を植えたと話したくても、話すことすら出来ない。そう思うと、知らずにため息が漏れてしまう。

「リュカ様、今日はあとは水やりだけですから、もうお戻りになって結構ですよ」
「えー、水やり、俺も手伝うよ」
「もうすぐ午後のお茶の時間だって、女中たちが探しに来ちまいます。お疲れでしょうし、お戻りください」

 庭師の言葉に空を見上げると、確かにもうずいぶんと日が西に傾いていた。

「泥だらけですから、先に湯浴みが必要でしょう」

 穏やかに戻った方がいい、と言われれば、頷くしかない。

「じゃあ、戻ろうかな」
「はい。明日は種蒔きの続きと、水やりもお願いします」
「うん」

 また明日ね、と手を振って、リュカは屋敷に戻った。
 広い玄関を抜け、自室に向かう。庭師の言うとおり、庭仕事の後は泥だらけの身体を清めるために湯浴みをしなければならない。それが、リュカの畑を作る上でクレマンから出された数少ない条件だった。
 リュカの部屋は寝室の隣にある。クロヴィスの書斎と同様に、寝室から直接行き来出来るようになっていて、そのさらに隣には浴室が設えられている。

 浴室は一面が白いタイル張りで、所々藍色の模様が描かれた品のいい意匠になっている。そして部屋の真ん中に白い陶器の浴槽が置いてあった。そこにリュカが庭から帰る頃合いを見計らって、女中たちがいつもたっぷりとお湯を用意してくれているのだ。

 だから、特に誰に声をかけるでもなくリュカはまっすぐに浴室に足を運んだ。
 扉の前に立つと中から、ぼそぼそと話し声が聞こえてくる。女中たちがお湯の用意をしているのだろう。
 扉を開けて、礼を言おう。そう思って、リュカがドアノブに手をかけたときだった。

「旦那様のご様子が……」
「リュカ様も……あれほどあからさまに避けられれば……」

 聞こえてしまった会話の内容に、リュカはつい手を止めた。
 それは決して大きな声ではなかった。おそらく、湯の準備中に交わした女中同士の他愛のない会話だ。しかし、その内容が自分とクロヴィスのことであると気づいて、リュカは思わず聞き耳を立ててしまった。
 扉にぴったりと耳を付ければ、中の声が拾いやすくなる。話しているのは、いつもリュカの世話をしてくれるマリアとルイゼだろうか。

「少し前までは仲良くされていたのに、酷いわ」
「リュカ様もあんなに落ち込まれて……」
「そんなに旦那様はオレール様の婚約が堪えたのかしら」

 ――オレール様。

 その名前に、リュカは身を強張らせる。
 実はリュカがその名前を聞いたのは初めてではなかった。

 この屋敷に来てから、たびたび耳にするオレールという名の人物。どうやらクロヴィスが屋敷の使用人全員に箝口令を敷いているらしく、誰に聞いても詳しく教えてはくれないが、集まった情報の断片を繋ぎ合わせると、彼がどこの誰なのかくらいは知ることが出来た。

 オレールは、クロヴィスの元婚約者だ。
 さすがにその為人は分からないが、彼らの婚約はリュカとクロヴィスが結婚することになったから破棄されたらしい。つまり、リュカが事故でクロヴィスと番にならなければ、オレールがこの屋敷のもうひとりの主人になっていたはずだったのだ。

 男娼上がりのリュカと違い、オレールはヴァリエール家が決めた然るべき家出身の男性オメガだ。彼の話を初めて聞いたとき、リュカは初夜のクロヴィスの言葉を思い出した。

 ――俺が君を愛することはない。

 冷たい表情と声で言い放たれたその言葉に込められた嫌悪と絶望。その意味をリュカはそのとき初めて正しく理解したのだ。

 クロヴィスは婚約者がいたにも関わらず、リュカと結婚しなくてはいけなくなった。
 それも、その原因はリュカの突発的な発情だ。アルファはオメガのフェロモンには抗うことは出来ない。どんなに理知的で理性的なアルファだって、オメガのフェロモンを嗅げばその理性は紙くずも同然だった。

 そんなオメガのフェロモンに誘われて、惑わされた。きっとクロヴィスだって、リュカの項を噛みたくて噛んだわけではないだろう。
 それなのにリュカの一生を背負ってしまったのは、彼の生真面目さ故だろうか。

 経緯を思えばリュカを憎く思いこそすれ、愛してくれるはずもなかった。
 リュカには、クロヴィスがオレールのことをどう思っていたのかは分からない。けれども、ここ最近の様子がおかしかったのは、マリアたちが言う通りオレールがクロヴィスではない別の人物と婚約したからなのかもしれない。

 リュカは扉に張り付いたまま、自分の血の気が引いていくのが分かった。足元がぐらぐらと揺れてひどく気分が悪かった。

 ――クロヴィスは、オレールの婚約に衝撃を受けたのだろうか。

 それは、クロヴィスがオレールのことを未だに想っているということではないのか。
 そう考えてリュカは締め付けられるような胸の痛みを覚えた。心臓が悪くなったのか、と勘違いしてしまいそうなその激しい痛みに、思わず顔を顰める。
 そして、同時に気づいてしまった。

「そうか、俺……」

 ――クロヴィスのことが好きなのか。

 ぽろりと口から零れ落ちてしまったその言葉に、他でもないリュカ自身がひどく驚いた。
 好き。好きだって? 俺が、誰を?
 まさか、クロヴィスを……――?

 男娼だったリュカにとって、恋というのは物語の中に描かれる絵空事のようなものだった。
 娼館ではひとときの恋をアルファの客に提供するが、それは所詮商品でしかない。曖昧で不確かで、今日囁いた愛は明日にはどぶに捨てられている。

 男娼の恋なんてその程度のもので、相手がアルファであればなおのこと、本気になれば自分が傷つくだけなのだ。だってアルファたちは、わざわざ娼婦上がりのオメガを選ばずとも他にたくさんの選択肢があるのだから。
 故に、どれほど親切にされて、どれほど甘い言葉を囁かれても信じてはいけない。心を明け渡してはいけないのだ。
 それが当たり前だったからこそ、リュカは自分の気持ちに大いに戸惑った。
 しかも、相手はあのクロヴィスだ。

 顔を合わせれば眉根を寄せて、挨拶をすれば些細なことに小言を言われる。おまけに不愛想で、一度も笑ったところを見たことがなかった。それでもクロヴィスはリュカを無視したりしなかった。一緒の寝台に入れば、短い間であるが他愛のない話だってする。

 温かい体温と心地よいフェロモンの香りがリュカを包んでくれて、リュカは生まれて初めて心の底から安堵することが出来た。生まれてから一度も与えられなかった安心感を、クロヴィスだけが与えてくれたのだ。
 だからこそ、リュカはクロヴィスに会いたいと思う。それと同時に、オレールのことも知りたいと思った。

 リュカのせいでクロヴィスと結婚出来なかった彼は、一体どんな人物だったのか。クロヴィスとはどんな関係を築いていて、お互いどう思っていたのか。それをリュカこそが知るべきなのだ。

 浴室の扉の前で呆然としていると、ふいに扉が開いた。湯浴みの準備が終わり、マリアとルイゼが出てきたのだ。
 ふたりは立ち尽くしたままのリュカを見てひどく驚いていた。慌てて頭を下げる彼女らに、リュカは今来たばかりだと嘘をついた。ここで彼女たちの話を立ち聞きしていたことは知られたくないと思った。

 それからリュカの頭の中はクロヴィスとともにオレールのことで占められることとなった。
 湯浴みをしていても、ひとり寝台に入っていてもどうにも頭から離れない。なんとか使用人たちから彼について聞き出す方法はないかと、また新しいことで頭を悩ませることになったのだった。


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