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≪ 弘徽殿 ≫
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***
翠子が丹波の栗を食べていた頃、煌仁と唯泉は牛車に揺られ羅城門を通り過ぎ、さらに南から西へと向かっていた。
「着いたな」
唯泉が物見窓から外を見と、山のふもとの小さな寺が見えた。
ほどなく牛車が止まる。
変わらぬ白い狩衣姿の唯泉に続き牛車から降りた男は、着古したような粗末な狩衣を身に着けている。一見、下級の貴族のようだが、よく見れば、内面からにじみ出る品格に気づくだろう。
彼は東宮、煌仁だ。品格は隠しようもない。
煌仁は辺りを見渡した。古ぼけた寺があるだけで見える範囲に人家はない。右を見れば山、左を見れば農地が広がっている。
「住職に挨拶してくる」
唯泉は手土産の酒を手に、牛車と従者を従えて寺に入っていった。
その場に残った煌仁は、山を背にして見渡す限り広がる農地を見つめた。
刈り取られた稲の先にはたわわに実る黄金色の稲穂が見える。あちらこちらに干してあるそれらを見つめながら、聞いていた通り今年の米は豊作だなと安堵した。
少なくとも当面の間、飢饉の心配はないだろう。
「さあ行くか」
唯泉が戻ってきた。
「少し歩くぞ。袖は縛ったほうがいい」
渡された紐で長い袖を腕に括り付ける。袴も足に巻きつけた。
これからふたりは紅葉が始まった山の中に入っていく。
「住職の話では、ちゃんと文は届いているそうだ。まったく困ったものだ。返事をくれたためしはないからな」
向かう先は唯泉が師匠と呼ぶ薬師の庵だ。
けもの道のような細い道は木の根が階段のように張り出している。なるほどこれでは衣の袖も袴も枝に引っ掛けて破けてしまうだろう。唯泉から話に聞いていたとはいえ、予想を超える険しい山道を苦戦しながら登る。
会話を交わす余裕もなく汗をかきながら時間にして一刻ほど進むと、ふいに開けた平地へ出た。
「やれやれ、ようやく到着だ。あれだよ」
この男は汗をかかないのか涼しげな顔をした唯泉が指をさす。広い畑の隅にあばら屋と小さな小屋がいくつか並んでいた。
「すごいな。これは薬草か」
「ああ、食用もあるがほとんどが薬草だ」
屈んで畑の手入れをしていた男が立ち上がる。年若い男なので弟子なのだろう。
唯泉が軽く手を上げると、会釈をした男は庵の中に入っていった。庵の脇に小屋が並ぶが、唯泉の話によれば薬草の保管庫らしい。
「おお、来たか」
年齢不明の老人が相好を崩して出迎えた。
彼の名は丁庵(ていあん)。我が国随一と言われる薬師である。
挨拶もそこそこに、「見せてみい」と丁庵が言う。
煌仁は毒が沁みついた二の皇子の匙を渡した。
丁庵はくんくんと念入りに臭いをかぐと、おもむろに匙を口に含む。
目を見張る煌仁に唯泉が「心配ない」と口を添えた。
「師匠の体は毒に慣れている」
ほとんどの歯が抜け落ちている口で、吸い込むようにひとしきり舐めまわすと、丁庵は匙を弟子に渡す。
あのまま返されるのかと一瞬ひるんだ煌仁は、密かにほっと胸をなでおろした。洗ってくれるらしい。
「嵯峨野のほうに、赤虫という男がいる。その男がよく使う毒じゃ、というか本来は薬じゃがの」
「赤虫……。どういう男なのですか?」
「もとは純粋な男だったが、ここを出て薬師として独立すると贅沢を覚えてしまっての。ときには頼まれるまま怪しい薬を作っているという噂を聞いたが、そこまで落ちぶれたとはな」
丁庵は手土産の唐菓子を口に含みもぐもぐとおいしそうに頬張ると、おもむろに「あやつはわしが処分する」と言った。
穏やかな表情だが、言っていることは恐ろしい。
「わしの責任じゃからの。用事済んだら知らせてくれ、唯泉」
「はい師匠。わかりました」
翠子が丹波の栗を食べていた頃、煌仁と唯泉は牛車に揺られ羅城門を通り過ぎ、さらに南から西へと向かっていた。
「着いたな」
唯泉が物見窓から外を見と、山のふもとの小さな寺が見えた。
ほどなく牛車が止まる。
変わらぬ白い狩衣姿の唯泉に続き牛車から降りた男は、着古したような粗末な狩衣を身に着けている。一見、下級の貴族のようだが、よく見れば、内面からにじみ出る品格に気づくだろう。
彼は東宮、煌仁だ。品格は隠しようもない。
煌仁は辺りを見渡した。古ぼけた寺があるだけで見える範囲に人家はない。右を見れば山、左を見れば農地が広がっている。
「住職に挨拶してくる」
唯泉は手土産の酒を手に、牛車と従者を従えて寺に入っていった。
その場に残った煌仁は、山を背にして見渡す限り広がる農地を見つめた。
刈り取られた稲の先にはたわわに実る黄金色の稲穂が見える。あちらこちらに干してあるそれらを見つめながら、聞いていた通り今年の米は豊作だなと安堵した。
少なくとも当面の間、飢饉の心配はないだろう。
「さあ行くか」
唯泉が戻ってきた。
「少し歩くぞ。袖は縛ったほうがいい」
渡された紐で長い袖を腕に括り付ける。袴も足に巻きつけた。
これからふたりは紅葉が始まった山の中に入っていく。
「住職の話では、ちゃんと文は届いているそうだ。まったく困ったものだ。返事をくれたためしはないからな」
向かう先は唯泉が師匠と呼ぶ薬師の庵だ。
けもの道のような細い道は木の根が階段のように張り出している。なるほどこれでは衣の袖も袴も枝に引っ掛けて破けてしまうだろう。唯泉から話に聞いていたとはいえ、予想を超える険しい山道を苦戦しながら登る。
会話を交わす余裕もなく汗をかきながら時間にして一刻ほど進むと、ふいに開けた平地へ出た。
「やれやれ、ようやく到着だ。あれだよ」
この男は汗をかかないのか涼しげな顔をした唯泉が指をさす。広い畑の隅にあばら屋と小さな小屋がいくつか並んでいた。
「すごいな。これは薬草か」
「ああ、食用もあるがほとんどが薬草だ」
屈んで畑の手入れをしていた男が立ち上がる。年若い男なので弟子なのだろう。
唯泉が軽く手を上げると、会釈をした男は庵の中に入っていった。庵の脇に小屋が並ぶが、唯泉の話によれば薬草の保管庫らしい。
「おお、来たか」
年齢不明の老人が相好を崩して出迎えた。
彼の名は丁庵(ていあん)。我が国随一と言われる薬師である。
挨拶もそこそこに、「見せてみい」と丁庵が言う。
煌仁は毒が沁みついた二の皇子の匙を渡した。
丁庵はくんくんと念入りに臭いをかぐと、おもむろに匙を口に含む。
目を見張る煌仁に唯泉が「心配ない」と口を添えた。
「師匠の体は毒に慣れている」
ほとんどの歯が抜け落ちている口で、吸い込むようにひとしきり舐めまわすと、丁庵は匙を弟子に渡す。
あのまま返されるのかと一瞬ひるんだ煌仁は、密かにほっと胸をなでおろした。洗ってくれるらしい。
「嵯峨野のほうに、赤虫という男がいる。その男がよく使う毒じゃ、というか本来は薬じゃがの」
「赤虫……。どういう男なのですか?」
「もとは純粋な男だったが、ここを出て薬師として独立すると贅沢を覚えてしまっての。ときには頼まれるまま怪しい薬を作っているという噂を聞いたが、そこまで落ちぶれたとはな」
丁庵は手土産の唐菓子を口に含みもぐもぐとおいしそうに頬張ると、おもむろに「あやつはわしが処分する」と言った。
穏やかな表情だが、言っていることは恐ろしい。
「わしの責任じゃからの。用事済んだら知らせてくれ、唯泉」
「はい師匠。わかりました」
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