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≪ 弘徽殿 ≫
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しおりを挟む帰りの牛車には、来るときにはなかった籠がある。
中には何種類かの薬が入っていた。麗景殿の皇子用、麗景殿の女御用、疲れときに茶のように飲めと煌仁にも。
それから帝への献上物。すべて丁庵が煎じた特効薬である。
「しかしさすがだな。匂いと味で見抜くとは」
宮内省(くないしょう)に被管(ひかん)する典薬寮(てんやくりょう)の医師や薬師は二の皇子の解毒はできたが、なんの毒かは特定できずにいた。
「京にいるほとんどの薬師は、元を辿れば丁庵師匠と繋がる。典薬寮の薬師もいざとなれば師匠の門を叩くのだろうが、意地があるゆえ素直になれんのだろう」
煌仁は苦い笑いを口もとに浮かべる。
その通りである。典薬寮は自負心だけは人一倍強い。実力があっての自負心だろうに愚かなことだ。
「赤虫の居場所については、篁に指示して早急に調べる。慎重にしなければならぬな、例の女官の件もあるし」
数日前、ひとりの女官が自害した。
実家の親が病気だと宿下がりを申し出て、そのまま家に帰らず近くの山で遺体になって発見されたのだ。
これみよがしな遺書もあった。
薬と勘違いして匙に染み込ませたと書いてあったが到底信じられない。一介の女官が個人の考えでそのように大其れた判断をするはずがない。彼女が実行犯であった可能性を含めて、調査をしているがどこまでわかるか。
女官の遺体が見つかった件は極秘事項だ。麗景殿側の女官だったがゆえに、公にすれば弘徽殿側に押し切られ、麗景殿の監督不行き届きで終わってしまうだろう。左大臣にはそれだけの力がある。
「やはり左大臣か」
「十中八九そうだろう。だが証拠がでない」
黒幕がはっきりしないまま犯人を名乗る者だけが姿を消すという、最も恐れていた事態になっている。
赤虫もこちらが捜査しているとわかれば消されるかもしれない。
祓い姫が宮中にいる限り毒は使えないと悟ったはずだが、方法はいくらでもある。警備は強化しているが、すべてを予測して防ぐのは不可能だ。ひとりひとりの背景まで調べるには、宮中を出入りする人間が多すぎる。
「祓い姫は大丈夫なのか?」
「腹心の女官を付けている。いざとなれ篁を呼ぶよう指示してあるし、命に代えても守ってくれるはずだ」
「命に代えてか。大袈裟ではないのが後宮の恐ろしいところだな」
苦笑いを浮かべる唯泉は瞼を伏せた。
「おぬしもまだ宮中にいてくれるのだろう?」
「いるよ。少なくとも祓い姫がいるうちは。それに宮中は〝色々なもの〟がいて飽きぬしな」
「物の怪か?」
「まあ色々だ」
色々とは何だ? 知りたいような気もするが、知らぬほうがいいような気がして煌仁は追及するのをやめた。
「この前、夜更けに桐壺で左大臣の嫡男を見かけたぞ」
左大臣の嫡男は弘徽殿の女御の弟、頭中将である。
「桐壺? 頭中将をか?」
「ああ、おおかた女と会っていたのだろう。おぬし右肩に女の生霊がついておるぞと言ったら顔を引きつらせていたわ」
唯泉は楽しそうに笑う。
本当に見えたのか冗談なのかはさておき、あの男なら憑いていてもおかしくないだろう。頭中将はそう思わせる不実な男だ。
「会ってきた女は見たか?」
「いや」
「そうか。まあわかったところで、どうにもならないが」
女官に複数の恋人がいるという噂だが、それが誰なのか掴めていない。
なにしろ女とみれば一度は必ず話しかけるような男だ。友人か恋人かの区別は他人にはわからない。本人でも、わからないかもしれないが。
不快の色が煌仁の目元に浮かぶ。
(いけ好かない男だ)
「それで、主上はどうなのだ?」
うむと言ったきり煌仁は口ごもり、丁庵が言った言葉を思い浮かべた。
『寿命を延ばす薬はないからの』
丁庵は数年前に一度、帝に直接会って診察している。
『とくかくゆっくり休まれることじゃ』
煌仁は帝が十七歳の時の皇子だ。なのでまだ三十七と歳も若いが、元から病がちで体力がない。繊細な心の持ち主ゆえに、権力争いの渦の中で神経をすり減らし治るものも治らないでいる。
何も気にせずゆっくり療養してほしいと、最近は煌仁が寄り添い可能な限り仕事を代行しているが……。
「おぬしも難儀なことだな」
煌仁をちらりと見た唯泉は薄く笑う。
「深く考えずに流れに身を任せれば楽だろうに。損な性分だ」
「……」
(だが唯泉よ、この国を思わずにいられるか?)
飢饉に襲われれば、食料を得ようと羅城門から人が溢れ込んでくる。疫病が流行ればどうなるか。目を覆い、耳を塞ぐには、皇族としてあまりに無責任だろう。
何も答えられずにいると、唯泉が懐から横笛を取り出した。
「少し寝るといい。よい夢が見られる笛を吹いてやる」
細く流れ始めた音に瞼を閉じて、耳を傾けた。
忙しさのあまりここ数日よく眠れていなかった。閉じた瞼が重い。
『また琵琶を聞かせてください』
ふいに浮かんだのは翠子の笑顔だった。
邸に帰してくれという以外に、翠子が自分からなにかしてほしいと言ったのは、それが初めてだ。
『もちろんいつでも聞かせよう。姫は、何か弾かぬのか?』
『私は、全然……』
聞けば宴に参加した経験もないと言う。
邸の奥でひっそりと生きてきた彼女を、池に浮かぶ薄氷のようだと唯泉が言った。
儚く生きている彼女。
そもそも祓い姫なる者に、期待はしていなかった。
唯泉の勧めもあり興味半分に邸に赴いた。
怪しい者を宮中に入れるわけにはいかない。急ぐ必要もあり自分で会ってみて判断しようと思ったのである。
実際に会い、触れただけで母の扇の声を告げる彼女の言葉を聞いたとき、心にさざ波が立ち、図らずも熱いものが込み上げた。
『我が子が愛おしいと……。聞こえるのはそれだけです。あとは女性の、深い、悲しみ』
翠子は顔も知らぬ母の、死にゆく母の心の欠片を見せてくれた。それが嘘とは思えなかったのは、扇が誰のものか彼女には伝えなかったからだ。
風が御簾を巻き上げた時には、ハッとして心を打たれた。
彼女の瞳に吸い込まれるように目を離せなかった。祓い姫がそれほどまでに若く、美しい姫だとは予想だにしなかった。
漆黒の瞳、艶めく黒髪。白粉など必要ない、透けるように白い肌。
本人は全く気付いていないようだが、女だらけの後宮でも抜きんでて美しい。内から滲み出る品の良さも普通じゃない。祓い姫などと忌まわしげに言われているが、それは不思議な力によるためで、本人からは不穏なものなど感じない。
むしろ、穢れのない湧き水のような、さやけし女性である。
唯泉は彼女を『清き姫だ。物に愛されている』と評した。
麗景殿で思わず抱き上げた時の軽さに驚いた。この華奢な体で重たいものを背負ってきたとは信じがたいほど。
うたかたの如く、消えてしまいそうな物憂げな瞳。
それでいて強く感じるのは、死にゆく恐怖がないからなのか。そう思えて仕方がない。
まだ何も知らないのに……。
唯泉の奏でる音が心のひだに沁みていくにつれ、煌仁の意識は遠のき、眠りの世界を漂い始めた。
池の中に色鮮やかな美しい衣が浮かんでいる。
――これは夢だ。
夢だとわかっているが、沈み始めた衣に、慌てて手を差し伸べた。
水を漂う衣の中から黒い髪と白い顔が見えてきた。
『姫か?』
翠子は微笑みながらゆっくりと瞼を閉じる。
『待て。沈むなら共に沈むか?』
それもいいかと思う。遠くに行けぬなら、なにもかも捨てて、無になるのも悪くはない。
彼女は瞼を開けたが答えない。
『でもまだ、喜びも楽しみもまだ、そなたは知らぬではないか』
生きようぞ。姫よ、さあ。
白く細い指をからめ、思い切り手を引くが。
感触はあったはずなのに抱き上げたのは衣だけだ。
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