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第三部 父と子
第25話 切望②
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「⋯⋯見えた?」
イルマは、ただ呆然と目の前の水に映った光景を見つめていた。
「あれは、サフィードとぼく⋯⋯」
黒服の騎士たちに囲まれて、サフィードは口を引き結んだまま歩いていく。蒼白な顔色の自分をしっかりと抱きかかえたまま。
四阿のすぐ近くに、清水が滾々と湧く泉がある。出会ってすぐに、少年はイルマの手を引いて泉までやってきたのだ。
澄んだ泉の水を覗いてみるように少年は言う。
穏やかな水面をじっと見ていると、自分を守って戦う騎士の姿が見えた。
「そう。泉の水に映ったことは、現世で起こっていること」
「え? 待って。じゃあ、ここにいるぼくは⋯⋯」
瑠璃色の瞳が、一瞬迷ったように細められたがきっぱりと告げた。
「魂だけで、ここに来ている。体とあまり長く離れてはいけない」
幼い頃、ルチアがよく言っていた。
『体は器。魂は本質。引き合うようにできていますが、長い間離れていると、魂は帰る器がわからなくなります』
『わからなくなると、どうなるの?』
『魂だけが、帰る場所を求めて彷徨うようになるのです』
⋯⋯そこで決まってセツが大泣きするから、話は終わりになった。
「魂だけって、貴方は⋯⋯」
「私の体はもう現世にはない」
イルマの気持ちを読むように少年は言った。
「私はルー。ルーウィック・ラゥ・スティオン」
スティオンは、スターディア王家の名だ。ラゥは『二』を示す。
⋯⋯見た目よりもずっと落ち着いている。びっくりするほどシェンによく似た顔だち。それに。
イルマは、少年の手を取った。楽器を奏でる優雅な姿とは対照的な武骨な手。日々鍛錬を欠かさない、剣を取る者の手。
「スターディアの二の王子殿下⋯⋯」
柔らかな春の陽射しのような笑顔に、イルマはようやく理解した。
⋯⋯この笑顔は、シェンに似ているんじゃない。国王陛下に似ているんだ。
イルマに手を取られたまま、ルーウィックは言った。
「シェンバーから、私のことを聞いたことがあるだろうか?」
イルマは頷いた。
「一度だけお聞きしました。現国王陛下が即位される前に、毒で落命されたと」
「そうだ。そして、父は本宮殿の奥庭を閉ざし、兄は決して足を踏み入れない」
瑠璃色の瞳が、ひどく寂しい色を浮かべた。
老いた庭師は、閉ざされた庭には長い間、誰も入れないと言った。では、この澄んだ泉や咲き誇る花々はどうなっている?
イルマは夢の中よりもさらに美しい庭を見渡した。
「どれほど心が残って祈っても、私の声は届かなかった。おそらくこれが最後の機会だろう。⋯⋯この魂が消える前に、奥庭を開放してほしい。そして、兄に、もう自分を責めるなと伝えてほしいんだ」
◇◆
舞踏会の大広間の明かりは煌煌と輝き、宴は最高の時を迎えようとしていた。
国王の前に跪く貴族が立ち上がり、最後の挨拶を終える。
宰相が広間に響き渡るような声を放った。
「御静粛に! 陛下より御言葉を賜ります」
人々は動きを止め、玉座に頭を垂れた。
王が傍らを振り返れば、緊張した面持ちの王子たちの姿が見える。
三の王子が何か言いかけたが、二の王子がそれを制した。二の王子は立ち上がると、フィスタの王子の手を取った。
立ち上がった国王の隣には二の王子とフィスタの王子の姿がある。
国王は穏やかな微笑と共に、人々に語りかけた。
「今宵は、皆と共に我がスターディアに女神の深き御恩寵が注がれたことを祝いたいと思う。二の王子の瞳は快癒し、同時に世に二つとなき宝を得た。フィスタのイルマ王子こそ女神の愛し子。二人は、女神の代理人たる三の王子の立会いの下に、変わりなき心を誓い伴侶となった」
「伴侶?」
「もう御婚姻を⋯⋯」
広間から嵐のような歓声が上がる。
そこには、細い悲鳴と共に次々に倒れる姫君たちの姿も交じっていた。
扉が開かれ、銀の盆に杯を並べた従僕たちが一斉に入ってくる。
人々は手に手に杯を持ち、広間は興奮の坩堝と化した。
「⋯⋯実際に飲まなくていい。飲むふりだけでかまわない」
シェンバーは、傍らのセツに小声で告げた。
セツは頷き、配られた手元の杯を見つめる。
⋯⋯セツ。
名を呼ばれた気がして、ぎょっとする。しかもイルマ王子の声だ。
⋯⋯泉を通して、こちらの声は伝わらないのかな。セツ、心配してるよね。
イルマ王子の名を叫ぶのを、セツは必死で堪えた。
──心配のあまり、自分はおかしくなったのだろうか。
杯の中の酒からイルマ王子の声が聞こえるなんて。もしや、目を凝らせば姿も見えるのではないか。
「では、祝杯を! スターディアの栄光とお二方の末永き幸を願って!!」
宰相の声に我に返り杯を掲げた途端、イルマの声は消えた。セツは唇を噛み締め、心の中で絶叫した。
──イルマ様あああああ!!!
人々が祝杯を飲み干したところに、広間に涼やかな声が響いた。
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