守るべきモノ

神崎

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 おそらく一年で一番忙しい日の一つだ。棚卸しをしながら接客をして、配送まで来るのでその在庫を入れたりしている。泉はその間もいつもと変わらない感じがした。
 週に何度かやってくる常連の客。セクハラをしようとしてくる客。あらか様に泉をじゃまだと思っている客。ずいぶん客あしらいがうまくなったものだ。
 だが泉はあくまで書籍部門の人間だ。ここに店を作る時点で、礼二が店長に指名されたがその下につくスタッフがいなかったので、書籍に籍を置いていた泉が臨時でスタッフに入ったのだ。だがそれはずっと続いている。新しく来た書籍部門のバイトには泉がカフェ部門の店員だと勘違いしている人もいる。
 だからこの忙しいときに限って、エリアマネージャーが泉を説得にきたのだ。幸いにも今日はあまり客が来ていない。コーヒーを淹れながらも、泉は話をしていたようだ。
「阿川さん。だからうちに籍を置いて欲しいんだよ。」
 そういってエリアマネージャーは、泉の前に資料を置く。カフェ部門のスタッフになれば会社も違う。だからいったん書籍部門の方を退職して、コーヒーのメーカーに入社して欲しいと思っていたのだ。
「嫌です。」
「勝手にこっちに入れている体で辞令を出したのは悪かったと思ってるけど、阿川さんもこっちで慣れてるしさ。」
「私、接客がしたいんです。開発部門には行きたくない。」
「だったら、ここを離れる?ちょうど店長業務を卒業する人もいるしさ。」
「店長なんか出来る器じゃないです。」
 ずっとこの調子だ。平行線で何も生み出さない。このままだと泉自身が、書籍部門にもカフェ部門にも見切りをつける可能性がある。つまり退職するということだ。礼二は少しため息を付いて、表に出る。
「川村店長。何とか言ってよ。」
 エリアマネージャーも匙を投げそうだ。だが泉もたいがい強情で、ガンとして言うことを聞かない。こうなれば礼二でも言うことを聞くことはないだろう。体を使ってやるか。いや。こんなことで抱きたくない。もっと求めて求められたいと思う。
「あとで話をします。」
 そうやって誤魔化すしかない。そう思ったときだった。
 向こうから、客が入ってきた。その人を見て、礼二はカウンターを出る。
「高柳さん。ようこそ。」
 高柳鈴音の名前に、エリアマネージャーもカウンター席から立ち上がる。
「こんにちは。阿川さん。新製品を持ってきてみた。ちょっと味を見てよ。」
 エリアマネージャーなんかではなく、礼二でもなく、鈴音は一直線に泉の所へ向かう。その様子に礼二もエリアマネージャーも顔を見合わせた。
「え?私ですか?」
「だいたいの形は決まってるんだけど、味は少し何か足りないって感じでね。ほら、この間のカップケーキ。」
「はぁ……。」
「阿川さんが言うので目立ったところもあったし、何よりコーヒーも紅茶に合うモノに合わせてくれたじゃない。」
「私が合うんじゃないかって思っただけで、別にそんなに特別なモノを言った訳じゃないです。」
「俺の店にはそんな人はいないよ。出来ればヘッドハンティングしたいくらいだ。」
 その言葉に、思わず礼二が声を上げた。
「駄目です。高柳さん。阿川さんがいなかったら困る。」
 慌てたような礼二の言葉に、思わずエリアマネージャーも礼二の方をみた。
「別に本気で言っているわけじゃないですよ。でもいたらいいなと思いますけどね。」
 エリアマネージャーはそのときやっとわかった。泉がこの店に来たとき、礼二は泉のカバーばかりしていたのでうんざりしていたと思っていたのに、いつの間にか礼二も泉に頼っていたのだ。まるで夫婦のように頼り合っていた。だから礼二も気が進まない感じだったのだろう。
「阿川さん。とりあえず、その商品の感想だけ言って。高柳さんのおかげで今月はどこも売り上げが良かったわけだし。」
 口先だけで言った。男と女が二人で仕事をしているのだ。こうなるのは必然だったに違いない。だが面白くない。
「いただきます。」
 泉はそういって箱に入ったケーキを取り出す。カップケーキのように見えるが、やはりここの店で人気だったケーキのように見える。少しアレンジを加えているのだろうか。
「……洋酒の香りがしますね。」
「うん。オレンジのヤツ。」
「私、お酒飲めないんですよ。」
 お酒を飲んで大変な目に何度か遭った。それを思い出したのだろう。
「あぁ。そうだったんだ。」
「お酒の時点で子供が食べれないし、カップケーキを大人が手みやげとしては幼すぎる。洋酒は避けた方が良いですね。」
「チョコレートがベースだから、洋酒は合うんだけどな。」
「だったらカップケーキという枠をはずした方が良いですね。」
 口を付けていないのにだいぶダメ出しをしている。だからきっと泉がやり安かったのだろう。どうしても責任者である鈴音にたてつくことが、従業員にはできないから。
「チョコレートがベースなら、コーヒーは濃いめ。紅茶も香りが強いものではないと負けてしまいますね。」
「ここに卸すならそうだろうね。だけど、これはカフェ事業の時に売りに出そうかと思って。」
 その話をしにきたのだ。どんなバリスタを紹介されても、泉のような人はいない。舌が敏感で、素直に思ったことを口に出す人。
「やはりそうだ。阿川さん。これを店長の前で言うのもどうかと思うんだけど……。」
「何ですか?」
 怪訝そうな泉の表情とは逆に、鈴音は笑顔で泉に言う。
「うちに来ないか。」
 ヘッドハンティングを堂々としている人を初めて見た。エリアマネージャーも礼二も驚いて言葉にならない。
「私、バリスタですけど。」
「知ってる。だからカフェ事業に手を出したいと思ってて、君に来て欲しい。」
「嫌です。」
 すぐに返事を返した。だが鈴音はそういうのは計算の上だ。
「場所は、君が住んでいる町の近く。ここよりも近いところだよ。」
 住宅地の中に出そうと思っているのだ。その方が、主婦層をターゲットにできる。
「私、カフェ事業で雇われているんじゃなくて、書籍の方で雇われてて。」
「知ってる。だから大手の……吉備屋書店って知ってる?」
「えぇ。」
「そこが出す所の隣。条件は一緒だと思うよ。」
 高柳鈴音の名前で出すのだ。少なからず影響がある。
「……。」
 その言葉に泉の心は少し動いた。だが礼二がそれを止める。
「阿川さん。駄目だよ。まだうちの社員で……。」
「カフェ事業の社員じゃないんでしょう?書籍の事業の社員。そういう風になってましたよね。」
 それに言葉を詰まらせる。
「それから、店長は別の人。君には、社員として開発にも関わって欲しい。だけど、主はバリスタ。今と変わらない仕事だと思うけど。ただ……従業員だけは多くなるから、人間関係だけは注意して欲しい。俺が望むのはそれだけ。」
 条件が良すぎる。それは泉の望むところだ。だがそんなうまい話に乗っていいのだろうか。泉はもう無くなってしまった指輪を追うように、胸の前で手を組んだ。
「すいません。」
 お客さんが、レジの前で泉を呼ぶ。
「あ、はい。すいません。」
 そういって、泉はレジへ足を運んだ。
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