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番外編 拍手お礼14

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 熱いお茶を啜った千尋は、ふうっと息を吐き出す。すると、正面のイスに腰掛けて新聞を開いていた守光が、老眼鏡をズラしてこちらを見た。
「ここで飲む茶も美味いだろ?」
「まあね。でも、やっぱり本宅で、笠野が入れてくれるお茶のほうが美味いな。飲み慣れてるし」
「だったら、飲み慣れるぐらい、足繁くここに通うことだな」
「そして総和会の人間から、珍獣のようにジロジロと観察されるわけか」
 千尋の、冗談と皮肉が混じった言葉に、守光は機嫌よさそうに笑う。今日に限ったことではなく、千尋が頻繁にこの本部に出入りするようになってからずっと、守光は機嫌がいい。
 老年の域に達し、いくら髪が白く染まってしまおうが、顔に深いシワが刻まれようが、守光の立ち居振る舞いから老いは感じられない。接していて千尋が感じるのは、まるで壮年のような覇気であり、鋭気だ。
 外見はいかにも品のいい老紳士でありながら、内から溢れる圧倒的な精力が、守光を怪物のような存在に見せている。
 その守光が、傍から見てわかるほど機嫌がいいというのは、大変なことなのだ。
 大学を中退してふらふらしていた孫がやっと長嶺の本宅に戻り、それどころか、将来組を仕切るために、まじめに〈社会勉強〉を始めたのだ。先代の長嶺組組長としては、目を細めたい心境なのかもしれない。
「珍獣というなら、長嶺組組長は常にそういう目で見られる。この世界で、血統主義を貫いていながら、勢力を拡大している組は他にいないからな。血の繋がりは信用はできるが、過信にも繋がる。そのせいで、父親から息子が組を継いだ途端、潰れた組はいくらでもある」
 こういう話を聞いていて強く感じるが、守光は長嶺の血を誇っている。その結晶である長嶺組を愛している。
 子供の頃から千尋は、長嶺組にまつわる昔話を聞くのが大好きだった。極道というものがよく理解できていなかった頃は、まるでお伽噺のように聞いていたが、成人してからは、現実という重みがズシリと肩にのしかかり、それが高揚感へと繋がる。
 歴史と、組員たちの忠誠の上に成り立った組を、いつかは千尋が継ぐことになるのだ。そして、千尋が尊敬する存在は現在、長嶺組よりさらに大きな組織の頂点に立っている。――長嶺の血を体に宿して。
 再びお茶を啜った千尋は、ニヤリと笑みを浮かべる。
「つまり長嶺組には、跡継ぎを立派に教育できるシステムがあるってことか」
「……どうだろうな。ただ、これまでの組長が皆、組のために最善の手を打ってきたということだ」
「じいちゃんも?」
 老眼鏡をかけ直した守光は、唇の端だけの笑みを浮かべる。普段、千尋は守光とよく似ていると言われるのだが、こういう皮肉っぽい表情を浮かべた守光は、賢吾によく似ていると思う。年齢を重ねた男にしかできない表情なのだろう。
「――わしは今、その手を打っている最中だ」
「どんな手っ? その言い方、すげー気になる」
「今言ったら、つまらんだろ。お前だけじゃなく、賢吾も」
「それはないだろ、じいちゃん。俺にとっても無関係じゃないんだし」
「お前はまだ若いんだから、焦らなくていい。今のうちに好きなことをやって、気楽な立場を楽しめ。あれこれ考えて対処するのは、組織を背負っている人間の役目だ」
 そうやって甘やかされ、大事にされながら、周囲の男たちによって長嶺組次期組長として必要なことを骨身に叩き込まれるのだろう。こうして守光が話してくれるのも、その教育の一環だ。
 千尋の父親である賢吾は、長嶺組を大事に支えてきた男たちによる教育の成果だ。忌々しいほどのカリスマ性を放ち、今は組の頂点に立っている。さらに守光は、その先の道筋を考えているようだ。
「……じいちゃんもオヤジも、ガツガツしたところを見せないよな。泰然というか。俺、そういうの自信ねーよ。今はさ、二人の後ろ盾があるから、生意気な後継者面してられるけど」
「お前の父親だって、お前ぐらいの頃は、もっと生意気で、反抗的だったぞ」
「だから、じいちゃんが嫌っていた女と結婚した?」
 守光から底冷えするような眼差しを向けられ、さすがの千尋も姿勢を正す。〈長嶺家〉の中でタブーの話題があるとすれば、それは、千尋の母親のことだ。子供だった千尋には、両親と祖父の間でどんなやり取りがあったのかは知らないが、なんにしても、長嶺家から女の気配は一切消えてしまった。
 女がいないからこそ、〈オンナ〉の存在感は強烈で鮮烈だ――。
 千尋はそっと口元を綻ばせ、饅頭の包みを開けていると、まるで心の中を読んだように守光が唐突に切り出した。
「――お前たちの先生は元気にしているか」
 ちらりと視線を上げた千尋は、頷いてから饅頭にかぶりつく。守光は湯のみにお茶を注ぎ足してくれた。
「元気だよ。……気になるなら、ここに呼べばいいのに」
 千尋は、広々としたダイニングを見回す。どの部屋も手入れが行き届いて整然としているため、多少生活感には欠けるが、客を呼ぶには申し分ない。玄関のドア一枚を隔てた向こう側は、総和会本部という名に相応しい緊張感が漂い、守光によって選ばれた怖い男たちが行き交っているような空間だが、長嶺組の本宅で寛ぐ術を身につけた〈彼〉には、さほど問題ではないだろう。
 どんな場所であろうが、どんな男たちに囲まれようが、したたかにしなやかに居場所を確保するはずだ。
「そう、賢吾には何度も言っているんだ。息子と孫が世話になっている先生に、ぜひ一度、直接会って挨拶がしたいと」
「オヤジからそんな話聞いたことないけど……、もしかして、ずっと断られてる?」
「賢吾はどうやら、わしに先生を会わせたくないようだな」
 千尋はいまだに、父親である賢吾という男がよくわからない。女に対しては淡白な関係しか求めないくせに、彼――和彦には強く執着している。反面、独占欲を持っているようには思えない。そうでなければ、複数の男との関係を許すはずがない。
 いや、それ以前に、そもそも和彦とつき合っていたのは、千尋だったのだ。
 和彦が賢吾と関係を持ったと知ったときの狂おしい感情を思い出し、千尋は持っていた饅頭を置く。
 ペロリと指先を舐め、守光の目を正面から見つめる。柔らかな光を湛えているが、その奥にあるのは冷たい鉄の檻だ。檻の中で飼っている生き物は、やはり怪物だ。父親も怖いが、それ以上に千尋は、この祖父が怖かった。
「……じいちゃん、年始の挨拶を口実に、先生と会おうと思ってるだろ」
 千尋の言葉に、守光は笑みを浮かべる。
「察しがいいな」
「俺だって、同じこと考えるね。自分のわがままを通すなら、総和会の名を利用しない手はない。それに、年始の挨拶なんて、すげー上手い理由じゃん。オヤジもそれなら断れないだろうし」
 守光は満足そうに頷き、さっそく子機を手にする。どういう根回しをするのかまでは興味のない千尋は、食べかけの饅頭を口に放り込み、次の一個に手を伸ばす。
 早々に電話を終えた守光は、非常に満足そうだった。その様子を見て、思わず千尋は問いかける。
「じいちゃん、なんだか楽しそうだ……」
「長嶺家の大事な客にやっと会えるんだ、楽しくもなる。しかも、扱いの難しい長嶺の男二人を骨抜きにしたぐらいだ。好奇心が疼くだろ」
「それだけ?」
 守光は意味ありげに笑うだけだ。そんな守光を眺めていて、千尋はふと既視感に襲われる。一体なんだろうかと思えば、かつての賢吾の姿と重なったのだ。和彦との関係でのぼせ上がっている千尋に、賢吾もまた、最初はこんなふうに言っていた。
 年下の男をたぶらかした、性質の悪い医者に興味がある――。そう嘯いていたくせに、あっという間にその性質の悪い医者を、自分の〈オンナ〉にしたのだ。
「……きっと、じいちゃんも気に入るよ、先生のこと」
「わしと先生が茶飲み友達になっても、お前は妬いたりしないか?」
 冗談交じりの守光の言葉に、千尋はちらりと苦い笑みをこぼす。
「前に、オヤジが言ったんだ。俺みたいなガキ一人じゃ、先生みたいな人は捕まえておけないって。ああいう人を自分の側に置いておきたかったら、使えるものはなんでも使え、だってさ。だから俺は、組とオヤジを利用している。――俺が大人になるまで、代わりに捕まえておいてもらうんだ」
「そのためには、わしも利用するか?」
 千尋は一声唸り、首を捻る。
「どうかなー。まずは、先生と会ってみてよ。じいちゃんが気に入らなかったら、俺のお袋にしたみたいに、長嶺の家から追い出すかもしれないだろ」
 我ながらヒヤリとするような冗談に対して、守光は低く笑い声を洩らすだけだった。
 ここで、玄関のほうで物音がする。総和会会長の生活空間に、呼び鈴を鳴らすことなく入ってこられる人物は限られる。肉親と、守光が信頼を置く数少ない側近だ。
 その内の一人である南郷が、のっそりとダイニングに入ってきた。大柄な体つきのせいだけではなく、全身から発せられる威圧的な雰囲気が、南郷をより大きな男に見せる。
 南郷は千尋と目が合うなり、深々と頭を下げる。慇懃、という表現がぴったりくる礼儀正しさで、いかにも筋者らしい外見とのギャップが大きい。守光が誰よりも目をかけている男で、総和会の仕事だけではなく、身の回りの世話も任せている。そのついでということか、千尋は総和会に出入りするようになってから、何かと南郷には面倒を見てもらっていた。
 だからといって、この男に好意的になる理由はない。なんとなくだが、千尋は南郷が苦手だった。
 儀礼的な挨拶を返した千尋に、守光が目配せしてくる。その意味を理解して、湯のみを手に立ち上がった。
「向こうの部屋でテレビ観てくる」
 そう言い置いて千尋がダイニングを出ると、すぐに二人がぼそぼそと話す声が聞こえてきた。ただし、会話の内容まではわからない。おそらく、和彦を新年会の席に呼ぶための相談だろう。
 守光が行動を起こすとなれば、和彦との対面はほぼ確実なものとなるだろう。そこでまた、和彦は長嶺の男とさらに深く関わるようになり、いっそうこの世界から抜け出せなくなる。
 総和会会長へ新年の挨拶に向かうと知ったとき、和彦がどんな顔をするか、それを想像しただけで千尋の口元は緩んでくる。
 年が明けてから、和彦を中心に大きなうねりが生まれそうだと、確信めいたものが千尋にはあった。
 長嶺の血を引く男の直感は、けっこう当たるのだ。

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