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訳あり王子と秘密の恋人 第一部 第五章
1.低気圧
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最悪な気分だ。
もっともエリオットの場合、最高の気分でいるとき以外、たいていは最悪の気分なのだけれど。それにしても、けさは輪をかけてひどかった。
明け方にようやくウトウトしたところで、ここしばらくなりを潜めていた悪夢を見たせいもある。
この世の不幸をかき集めて煮込んだスープでも飲まされたみたいに胃が重く、一晩中、白々とした照明を睨んでいたせいで目が痛い。
よく眠れないまま、エリオットはベッドから這い出した。床に敷いた専用のシートから頭を上げるルードを撫で、少しでもスッキリしたくて寝室の奥にあるバスルームへ顔を洗いにいく。
朝の水は冷たかった。洗面台の蛇口からこぼれる水をすくって、何度も顔に浴びせる。鏡には、濡れて鉛色になった髪から水滴を垂らす、赤く充血した目の不景気な顔が映っていた。
ぜんぜんスッキリしない。
エリオットは陶器の洗面台に手をついて、肺の奥から息を吐き出した。
「何なんだよあいつは……」
恋人同士って、もっと無条件に相手に近付けるもんじゃないのか?
身体的な距離も、心の置き場所も。
でも、当然のようにバッシュはなにも変わっていなくて、むしろエリオットが踏み込もうとする分だけ、嫌になるくらい冷静に後ずさっていく。磁石のS同士──もしくはN同士──みたいに。
いくら恋愛初心者でも、これが駆け引きでないことくらいは分かる。たぶん、フラワーメドウで触れるだけのキスをした、あの距離感がバッシュの考える許容範囲なのだ。それ以上はエリオットにとって過剰だと判断している。
とても勝手に。
ふたりの間に、客観的な考え方を持ち込むなとナサニエルが言っていたのを思い出したけれど、すでに手遅れだ。ああでもない、こうでもないと考えてしまった。たっぷり五時間ほど。
それでも、一方的に庇護されているだけの状態で、どうやったらバッシュを説得できるのかは皆目見当がつかなかった。
流れる水を睨んでいると、爪で床をこすりながら、開けっ放しの扉からルードが顔を覗かせた。蛇口をひねって水を止める。タオルで顔を拭くと、腰のあたりに頭をこすりつけて甘えて来た。
「どうした?」
背中からしっぽの付け根まで叩いてやる。犬や猫というのは、触れているだけでオキシトシン──俗に言う「幸せホルモン」──が大量に作り出されるのだとか。眉唾だと思っていたが、なかなかバカにできない効果だ。
寝室のほうを窺えば、人が動く気配とカーテンを開ける音がした。当番の侍従だろう。
「逃げて来たのか? お前、人見知りだな」
舌を出して目を細めるという、果てしなく可愛い表情で飼い主を篭絡しようとするルードを連れて、洗面所を出る。
寝室の戸口にフランツが立っていて、エリオットに会釈した。
「殿下」
「おはよう」
「おはようございます。着替えはベッドの上に」
「ありがとう」
「では、ダイニングで」
フランツが退出するのを待って、エリオットはパジャマ代わりのTシャツを脱ぐ。用意されていたのは勿忘草色のボタンダウンシャツと、薄手のカシミヤのカーディガン。それにスリムな紺のコットンパンツだった。最近、シャツは青色がお決まりになってきている。やはりブランシェールの衣装が、エリオットのイメージカラーを決めたのだ。
あれがピンクとかでなくてよかったけどさ。
もうすでに、国民が思い浮かべるエリオットは、青色のシャツを着ているに違いない。いっそのこと、エリオットの侍従たちにもブルーを身に着けさせようか。ネクタイとかボタンとか。チームブルーのユニフォームだ。
くだらない想像をしながらベルトを締め、ルードと一緒に重い足取りで一階のダイニングへ降りる。
残念ながら、朝食が並べられたテーブルにつけば食欲がわくかもという、密かな期待は裏切られた。
エリオットはバターもぬらずにトーストを一口かじり、往生際悪くスクランブルエッグをつつき回したけれど、結局添えもののボイルしたスナップエンドウを一本だけ飲み込んでフォークを置く。
椅子のわきから弾んだ息遣いがして目を向けると、ルードがよだれを垂らしていた。食べないならよこせと言いたげだ。
「これはダメだぞ」
エリオットは自分の朝食と同じように厨房から運ばれてきた、カールスバードのカレー皿──ルード専用にした──を手に、「お座り」と「待て」をさせる。シェルターで身に着けたしつけを忘れないように、食事の前には必ず行うこと、と譲渡誓約書に書かれていた。
そうしているあいだに、フランツがほとんど手つかずの食器を下げる。ただ、戻って来た彼が、なじみ深い栄養補助食のゼリーを持って来たのには呆れてしまった。だって、銀の盆にアルミフィルムのパウチがひとつだけ載っているのだ。しかもご丁寧にクロッシュまで被せて。芝居がかったしぐさで、うやうやしく盆のふたを取って差し出されたら、もう笑うしかない。
「それが厨房の冷蔵庫にあるなんて知らなかった」
「レンジミールは料理長に断固拒否されましたが、こちらはなんとかスペースをいただきました」
「いいこと聞いた」
「冷蔵庫の鍵は料理長が持っておりますので、召し上がりたいときには、ご自分で交渉なさってくださいね」
エリオットはぐるりと目を回した。
そりゃ無理だ。
出された食事を残しておいてゼリーをくれなんて、料理長に面と向かって言う勇気はない。
飼い主とは真逆で食欲旺盛なルードが、サーモンと野菜の煮込みに顔を突っ込んでいるのを眺めながら、エリオットもゼリーを流し込んだ。
もっともエリオットの場合、最高の気分でいるとき以外、たいていは最悪の気分なのだけれど。それにしても、けさは輪をかけてひどかった。
明け方にようやくウトウトしたところで、ここしばらくなりを潜めていた悪夢を見たせいもある。
この世の不幸をかき集めて煮込んだスープでも飲まされたみたいに胃が重く、一晩中、白々とした照明を睨んでいたせいで目が痛い。
よく眠れないまま、エリオットはベッドから這い出した。床に敷いた専用のシートから頭を上げるルードを撫で、少しでもスッキリしたくて寝室の奥にあるバスルームへ顔を洗いにいく。
朝の水は冷たかった。洗面台の蛇口からこぼれる水をすくって、何度も顔に浴びせる。鏡には、濡れて鉛色になった髪から水滴を垂らす、赤く充血した目の不景気な顔が映っていた。
ぜんぜんスッキリしない。
エリオットは陶器の洗面台に手をついて、肺の奥から息を吐き出した。
「何なんだよあいつは……」
恋人同士って、もっと無条件に相手に近付けるもんじゃないのか?
身体的な距離も、心の置き場所も。
でも、当然のようにバッシュはなにも変わっていなくて、むしろエリオットが踏み込もうとする分だけ、嫌になるくらい冷静に後ずさっていく。磁石のS同士──もしくはN同士──みたいに。
いくら恋愛初心者でも、これが駆け引きでないことくらいは分かる。たぶん、フラワーメドウで触れるだけのキスをした、あの距離感がバッシュの考える許容範囲なのだ。それ以上はエリオットにとって過剰だと判断している。
とても勝手に。
ふたりの間に、客観的な考え方を持ち込むなとナサニエルが言っていたのを思い出したけれど、すでに手遅れだ。ああでもない、こうでもないと考えてしまった。たっぷり五時間ほど。
それでも、一方的に庇護されているだけの状態で、どうやったらバッシュを説得できるのかは皆目見当がつかなかった。
流れる水を睨んでいると、爪で床をこすりながら、開けっ放しの扉からルードが顔を覗かせた。蛇口をひねって水を止める。タオルで顔を拭くと、腰のあたりに頭をこすりつけて甘えて来た。
「どうした?」
背中からしっぽの付け根まで叩いてやる。犬や猫というのは、触れているだけでオキシトシン──俗に言う「幸せホルモン」──が大量に作り出されるのだとか。眉唾だと思っていたが、なかなかバカにできない効果だ。
寝室のほうを窺えば、人が動く気配とカーテンを開ける音がした。当番の侍従だろう。
「逃げて来たのか? お前、人見知りだな」
舌を出して目を細めるという、果てしなく可愛い表情で飼い主を篭絡しようとするルードを連れて、洗面所を出る。
寝室の戸口にフランツが立っていて、エリオットに会釈した。
「殿下」
「おはよう」
「おはようございます。着替えはベッドの上に」
「ありがとう」
「では、ダイニングで」
フランツが退出するのを待って、エリオットはパジャマ代わりのTシャツを脱ぐ。用意されていたのは勿忘草色のボタンダウンシャツと、薄手のカシミヤのカーディガン。それにスリムな紺のコットンパンツだった。最近、シャツは青色がお決まりになってきている。やはりブランシェールの衣装が、エリオットのイメージカラーを決めたのだ。
あれがピンクとかでなくてよかったけどさ。
もうすでに、国民が思い浮かべるエリオットは、青色のシャツを着ているに違いない。いっそのこと、エリオットの侍従たちにもブルーを身に着けさせようか。ネクタイとかボタンとか。チームブルーのユニフォームだ。
くだらない想像をしながらベルトを締め、ルードと一緒に重い足取りで一階のダイニングへ降りる。
残念ながら、朝食が並べられたテーブルにつけば食欲がわくかもという、密かな期待は裏切られた。
エリオットはバターもぬらずにトーストを一口かじり、往生際悪くスクランブルエッグをつつき回したけれど、結局添えもののボイルしたスナップエンドウを一本だけ飲み込んでフォークを置く。
椅子のわきから弾んだ息遣いがして目を向けると、ルードがよだれを垂らしていた。食べないならよこせと言いたげだ。
「これはダメだぞ」
エリオットは自分の朝食と同じように厨房から運ばれてきた、カールスバードのカレー皿──ルード専用にした──を手に、「お座り」と「待て」をさせる。シェルターで身に着けたしつけを忘れないように、食事の前には必ず行うこと、と譲渡誓約書に書かれていた。
そうしているあいだに、フランツがほとんど手つかずの食器を下げる。ただ、戻って来た彼が、なじみ深い栄養補助食のゼリーを持って来たのには呆れてしまった。だって、銀の盆にアルミフィルムのパウチがひとつだけ載っているのだ。しかもご丁寧にクロッシュまで被せて。芝居がかったしぐさで、うやうやしく盆のふたを取って差し出されたら、もう笑うしかない。
「それが厨房の冷蔵庫にあるなんて知らなかった」
「レンジミールは料理長に断固拒否されましたが、こちらはなんとかスペースをいただきました」
「いいこと聞いた」
「冷蔵庫の鍵は料理長が持っておりますので、召し上がりたいときには、ご自分で交渉なさってくださいね」
エリオットはぐるりと目を回した。
そりゃ無理だ。
出された食事を残しておいてゼリーをくれなんて、料理長に面と向かって言う勇気はない。
飼い主とは真逆で食欲旺盛なルードが、サーモンと野菜の煮込みに顔を突っ込んでいるのを眺めながら、エリオットもゼリーを流し込んだ。
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