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第二章 紗栄子・高1 

11 拓海、目撃

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 あっという間に地区大会の日が来た。
 一応水泳経験者である紗栄子にとってはそう目新しいものでもないが、マネージャーとして臨むのは初めてだ。選手がいい状態でレースに臨めるよう、しっかりサポートしたい。
 応援席でタイムを計測したり、応援している選手たちに飲み物を提供したり。
 選手の控室では、入念なマッサージをしたり。
 結果、1年生の選手たちは全員が自己ベストを更新できた。特に拓海の更新の幅は突出していた。インターハイ出場が許される参加標準記録にはまだ達してはいないが、伸び具合によっては、県大会、その後の地方大会で標準記録を突破することも不可能ではない範囲に入ったといえる。
「どう?拓海。感覚としては。」
 したり顔の礼子がまったく憎らしくないと言ったら嘘になるが、今までのように、礼子の提案に対してまずは否定的な姿勢を取ることは、もはや馬鹿馬鹿しいことだと拓海も思っている。
「はあ、正直嘘みたいに体が軽かったです。」
「じゃあ、まだまだ伸びるわね。練習の再開が楽しみだわ。」
「はい、よろしくお願いします。」
「そうやって素直だと拓海も可愛く見えるわね。」



地区大会から数日後の昼休み。拓海は部室に忘れ物をしたことに気付いた。午後の授業で必要なので、慌てて取りに行く。
部室まであと少し。小体育館の近くを走っていると、くすくすと笑う声が聞こえた。
「焦らないでよ、向坂くん。」
 聞いたことのある声だったので、思わず拓海は足を止めた。聞いたことはあるけれど、声には聞いたことのない媚びが含まれていた。
「喜多城が焦らせるんだろ。」
 向坂くん、と呼ばれた男の声は確かに焦燥感を滲ませている。そして拓海は確信した。‘きたしろ’は礼子の苗字だ。
 息を殺して声のした方を覗くと、小体育館の外壁に、髪をほどいた礼子がもたれかかっていた。その瞳は部活の時とは違った風にうるんでいて、拓海は我知らずドキッとしてしまった。
「こんなことしていいの?」
「善悪の問題じぇねえよ。」
 向坂の左手は壁についてあり、右手は礼子の頬を撫でる。ゆっくりと、緊張した調子で。一方の礼子は、向坂と違って余裕たっぷりに左手で彼の腰に触れ、右手の指で唇に触れている。 
 そんなことをしているうち、向坂は我慢が出来なくなったのか、礼子の腰を乱暴に引き寄せた。
「あ…。」
 微かな悲鳴を上げた礼子の唇は、あっという間に向坂にふさがれる。
 ストレートの長い髪が、ゆらゆら揺れる。
 二人がしばらくキスをしているのを、拓海はずっと見ていた。瞬きも忘れて。
(いやらしい…。)
 しばらくして顔が離れても、礼子はやっぱり余裕たっぷりに笑っている。
「なあ、…しようぜ。」
 何を、と聞くのは野暮というものだ。
「馬鹿ね。ここ、学校よ。」
 礼子はやんわりと向坂のからだを押しやり、するりと体を逃がした。
「鬼だな、お前。」
「そうね。否定はできないわ。」
 拓海はさすがに気づかれてはまずいと、足音を忍ばせて部室の方に向かった。



「拓海!なにぼんやりしてるの!!」
 部活中。
 気づいた時には、礼子のゲキが飛んでいた。拓海は温水の中で飛び上がった。
「すみません。」
「ちょっといいタイムが出たからって、油断しないでちょうだい!」
「はい…。」
 今の礼子の剣幕からは、昼間のなまめかしい様子の片鱗はうかがえない。二重人格かと疑いたくなるくらいだ。
「さあ、気合入れなおして!10秒前!」



「具合悪い?風邪ひいた?」
 練習後の心配そうな紗栄子の問いに、拓海はあわてて首を振った。
「や、大丈夫だよ。ちょっと疲れてるんだと思う。心配させてごめん。」
 そう言いつつ、拓海はふらふらと男子の部室に引き上げていく。
「本当に様子が変だな、拓海。」
 拓海を心配そうに見守る紗栄子に、蓮が声をかけた。
「ね。なんかぼんやりしちゃって。拓海がなんかしら騒いでくれないと、かえって調子が狂うよね。」
「その方が静かでいいはずなのにな。」
 拓海の中の衝撃など知らず、紗栄子と蓮はほのぼのと笑いあった。
「蓮、大会の疲れはどう?」
「全然。いいタイムが出たしな。」
「うん。良かったね。」
 蓮の専門種目はバタフライなので、紗栄子としては腰の様子が気にならないこともなかったが、わざわざ言うのはやめた。意識した途端、気になってしまうこともある。
 気づいたことを何でも口にするのがいいこととは限らない。
「県大会も楽しみだね。」
「うん。もっと練習しないとな。」
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