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(十)信長の来訪
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永禄九年(一五六六年)。
六角義賢が浅井方であった伊香郡の布施城を陥落させたことを端緒として、五月から九月までの長期に渡り、浅井家と六角家の間で蒲生野の戦いと呼ばれる合戦が生起した。
中でも、七月末には長政自ら率いる浅井勢が愛知川に進出したために生起した合戦は比較的大規模なものとなった。
この戦いでは、浅井方の人数が勝っていたにも関わらず、敵陣を抜くことが出来ず長政は撤退に追い込まれている。
この時、員昌は兵站の拠点として佐和山城の守備を命じられていたため、この合戦に参加していない。
(儂が先陣を勤めておれば、このような不覚は取らぬものを!)
敗報を受け、地団駄を踏む思いの員昌だが、後の祭りであった。
最終的には、浅井方が布施城を奪還することでこの合戦は一区切りがついた。
浅井方の優勢と、六角方の衰退を知らしめる結果ではあったが、名のある将を幾人も失い、稲刈りの時期を挟むほどの思いがけない長期戦となったことは、密かに員昌を憂慮させた。
今回の戦さで、兵站拠点として佐和山城の存在は一層重要視されることとなったが、その分、員昌にとっては城方の負担も大きいことが明らかになった。
「随分と持ち出しになってしもうたのう」
員春は、城内各所に分置された兵糧蔵を何度も点検してまわり、その度に肩を落とす。
もちろん、長政も手勢に佐和山城の兵糧をただ食いつぶさせた訳ではなく、小谷城から少なからぬ量の兵糧の融通はしてくれた。
しかし、それでも合戦前の備蓄量は回復できていないのが実情だった。
長期の籠城に備えた兵糧米が減るのは、城を預かる員昌にとっても死活問題である。
「幸い、領内の稲刈りは順調であった。年貢米だけでなく、いくらかは買い増し出来よう」
員昌はそう言って員春を励ます。
もっとも、例によって細かな実務は員春や小堀正房あたりに任せきりになるのだが。
そして員昌にはもう一つ、大きな気がかりがあった。
(城一つの奪い合いに、このように時をかけていて良いものであろうか)
漠然としたその懸念は、数年を経て現実のものとなる。
室町幕府十三代将軍である足利義輝が、三好や松永の手勢により二条御所を襲撃され、命を落としたのは永禄八年(一五六五年)五月の出来事である。
興福寺の一乗院の僧籍に入っていた義輝の弟・覚慶は命からがら逃れ出て、還俗して足利義秋と名を改め、甲賀の和田惟政、矢島、若狭の武田義統と転々とした末に、永禄九年九月には越前の朝倉義景を頼った。
しかし、一年以上に渡って敦賀に留め置かれた後、ようやく一乗谷城の上城戸の外にある安養寺に設えられた御所に入った義秋だが、肝心の義景には上洛のための兵を起こす動きはみられなかった。
仮に朝倉家が上洛を決意すれば、浅井家としても無縁では済まないところだったが、幸か不幸か、その心配は杞憂に終わった。
無為に歳月を重ね、永禄十一年(一五六八年)の四月に朝倉館にて正式な元服の儀を終えた義秋は、心機一転べく名を「義昭」と改めた。
同年二月には、三好三人衆らに担ぎ出された足利義栄が朝廷から征夷大将軍に任じられて第十四代将軍となっている。
しかし、義昭は己こそが足利将軍の正式な後継者であると、懸命に内外に向けて声を上げつづけた。
この頃には、元服の手筈を整えるなど扱いこそ丁重であっても、朝倉義景に義昭を擁立して上洛する意志などないことは、周囲にも明らかとなっていた。
やむなく義昭は、前年の八月に美濃の稲葉山城を攻め落として斉藤家を滅ぼした織田信長を頼ることを決意する。
七月十六日、義昭は朝倉景恒と前波景当の兵、合計四千に警固されて一乗谷を出立した。
信長の元に向かうにあたり、越前から直接美濃に入る険しい道のりは避け、近江を抜ける街道が採られた。
長政にとっては信長の義弟として盟約を結んでいる以上、信長の元に向かう義昭一行の通行を阻害する理由などない。
長政は余呉庄まで兵を連れて出迎えに参上し、小谷城に整えた宿舎に義昭一行を迎え入れた。
宿舎においては、浅井家の重臣がこぞって歓迎の挨拶の為に顔を出した。
ただし、この中には員昌の姿はなかった。
佐和山城にて六角の策動に備えるため、参上に及ばずと申し渡されていたためだ。
名代として員春を送り出した員昌の胸中は複雑だった。
どうあれ長政の晴れ舞台に立ち会えない悔しさがある。
一方で、貴人とはいえ未だ将軍にもなっていない男の御機嫌伺いのために顔を出す気になれなかったのも、また事実だった。
同月二十二日に義昭は美濃に入り、西庄の立政寺に腰を据えた。
織田勢が美濃から京に向かうにあたり、浅井領を通過することに支障はない。
問題は六角家の動向である。
観音寺騒動以来、境目の争いにおいては浅井家が優勢となっているが、他国の軍勢が南近江を通過して京に向かうとなれば、六角家とて黙ってみていることはないだろう。
そのため、上洛に先立って信長が近江まで出張って六角家と交渉する話が持ち上がった。
信長の決断は素早かった。
八月七日には六角家との交渉のため、信長は佐和山城まで出張ってくることになったのだ。
佐和山城は六角との交渉の為の前線基地となるだけでなく、義兄弟となった信長と長政にとり、初対面の場となった。
(会いたいだけなら、直接小谷城に向かえばよいものを)
などと員昌は思うのだが、六角の居城である観音寺城と対峙する要衝である佐和山城で会うことに意味があるのだろう。
浅井家の中には、長政のことを城外に呼びつけられたのは、信長が長政を軽んじているからだ、とみる者もいるかもしれない。
逆に言えば、長政は自分の城ではなく家臣の城に信長を迎えているわけで、見方一つ、気持ち一つで受け入れ方も違ってくる程度の話だった。
員昌としては、自慢の城を披露したい、などという気持ちは特になく、面倒ごとが増えたという程度の認識しかない。
員昌よりもむしろ員春や小堀正房ら家臣のほう「当家の栄誉」とばかりに張り切り、数日前から準備に余念がない。
前日になって、長政が父・久政と、さらには妻のお市の方を伴って佐和山城に姿を見せた。
「苦労を掛けるが、よろしく頼む。我らのことはともかく、織田殿には粗相のないようにな」
「はっ。お任せくだされ」
浅井家の当主一行を迎え、城内はいっそうにぎやかになる。
ところで、佐和山城は東山道に向かって張り出した二つの尾根筋の上に沿って築かれており、二つの尾根筋の先端は大堀切と呼ばれる外構えによって結ばれている。
二つの尾根筋と大堀切に囲まれた中には、三角形をした平坦地がある。
大堀切からは急勾配の谷筋に向かって東西に伸びる通りがあり、平坦地には籠城に備えた耕作地とされている区画が一部にあるものの、多くの武家屋敷が立ち並んでいる。
大堀切に近いほど下級の武士の住まいとなっており、奥に行くほど重臣の屋敷となる。
ただし、谷筋の一番奥にあたる大きな屋敷はあえて賓客の宿泊用にされ、無住のままとされていた。
員昌はこの屋敷に、信長一行を迎えるつもりだった。
いかに同盟相手とはいえ、軽々しく城の縄張りを観察させたくはなかったので、わざわざ佐和山城の本丸御殿まで招きあげるつもりはない。
その日の晩。
「我が殿も、何も父子連れ、夫婦連れでなくとものう」
事前の準備と打ち合わせを一通り終えた員昌が、奥の間で美弥を相手につい愚痴をこぼす。
隠居に追い込んだ筈の久政が、依然として家中で重きを成していることも不満であったし、信長の意向とはいえ、お市の方を呼び出すのは員昌としては腑に落ちない。
「浅井の大殿様は、六角とのご縁が深うございますから」
さらりと応じた美弥の言葉に、員昌はしばし息をのみ、膝を叩いてみせた。
「確かに、美弥の申す通りじゃ。儂は浅慮を恥じねばならぬようじゃ」
六角とのつながりが深い久政を小谷城に残しておけば、長政が留守の間に、六角家から調略の手が伸びないとも限らない。
父子が揃って信長を出迎えた意図は、即座に六角方にも通じる。
逆に言えば、浅井家中が一枚岩であることを知らしめるには、無理にでも同席させねばならなかったのだろう。
しかしそれも、久政から権限を取り上げきれない長政の甘さに原因があると思えば、員昌の心にはやるせなさが残った。
「殿は気苦労が絶えませぬね」
束の間愁眉を開き、またすぐ渋い表情に戻った員昌の様子を、美弥は面白げに見つめていた。
翌朝、長政は摺針峠まで自ら信長を出迎えに向かった。
事前の報せでは、信長はわずかに馬廻り衆二百五十騎のみを連れて近江に入るという。
摺針峠を越える間道は、かつて六角に攻め落とされた佐和山城を奪い返す際に員昌も用いたことがある。
(距離を短縮できるのであれば、例え悪路であっても躊躇なく押し渡るのが性分なのであろうか)
佐和山城で待つ員昌は大軍の行軍には到底向かない道を思い出し、まだ見ぬ信長の義兄の気性を想像する。
やがて、佐和山城の大手門前で待つ員昌の前に、長政を引き連れるようにして信長が姿をみせた。
馬から降りた信長は痩身で長躯、肌はあまり日焼けしていないが、不健康に生白い訳でもない。
なにより特徴的なのは、鋭く熱を帯びた眼光であった。
「出迎え、大儀である。その方が磯野丹波か。武勇のほどは聞いておる。よろしく世話になるぞ」
癇癖が強いとの噂とは異なり、信長は員昌に向かって機嫌良く挨拶する。
「はっ。本来であれば本丸御殿までお上がりいただくところでございまするが、何分手狭ゆえ、麓の屋敷にてご逗留いただきたく……」
「言葉を飾るな」
神妙な員昌の口上を遮るように、信長の甲高い声が響く。
「はっ」
「如何に盟約相手の当主が相手とて、城の枢要を見せぬは城主として当然の心構えではないか」
信長が発する怒気に、傍らの長政も、信長の近習も目に見えて緊張している。
しかし、当の員昌は意外と平然と受け止めていた。
信長の態度に「怒ってみせて、相手の反応を伺う」といった芝居の気配が感じられたためだ。
耳を衝く語気の鋭さほどには、信長が本当に腹を立てている気がしない。
(ほう。存外、儂もなかなか肝が据わっておるではないか)
員昌は内心で、自分の落ち着きぶりを思わず自画自賛してしまう。
初対面の相手に、立場にかかわらず身をすくめてしまう場合もあれば、なぜかのんでかかれる場合もある。
人間関係には相性というものがあり、員昌にとって、信長は相性の良い相手なのかもしれない。
「これは恐れ入りまする。手塩にかけて作事いたしましたる城なれば、隈なくお見せしたいと願うておりましたゆえ、要らぬ言葉を口にいたしました」
口ぶりとは裏腹に、恐れ入っている様子もあまりない員昌の言葉をどう受け止めたのか。
信長は片頬に薄笑いを浮かべて「ふん」と鼻を鳴らした。
数瞬の間を置いて。
「案内せい」
信長はそう言い捨て、何事もなかったかのようにさっさと大手門に向かって歩き出す。
「はっ。御前を失礼いたしまする」
員昌も、足早に進み出て信長の前に出る。
その様子に、織田の近習も、長政以下浅井家の面々も、思わず安堵の表情を浮かべて互いに顔を見合わせるのだった。
なお信長は佐和山城来訪に当たり、浅井久政・長政父子をはじめ、浅井家の家老・一門それぞれに対して引き出物を用意していた。
員昌は銀子三十枚と関兼氏の太刀一振、そして名馬を賜った。
少なくとも表向きは、員昌は不興を買ったわけではなさそうだった。
その後、信長は七日間に渡って佐和山城に腰を据え、幾度も使者を観音寺城の六角義賢に送り、上洛のための通行を認めさせるべく交渉を行わせた。
足利義昭からも使者を派遣させ、義昭が将軍位に就いた後には、六角義賢に京都所司代の地位を用意するとの、これみよがしな恩賞すらちらつかせたほどだ。
しかし、結局はかばかしい成果を上げることはできなかった。
「次に来る時は、戦さであろうな」
そんなつぶやきを残して、信長は引き上げを決めた。
交渉は不調であったが、信長はさほど腹を立てている様子も見えなかった。
最初から、六角が素直に織田による上洛を認めるとは考えていなかったためであろう。
織田勢は、今度は摺針峠を越えるのではなく、東山道を北上する帰路につく。
柏原の成菩提院を一夜の宿と定め、長政は醒井まで見送りに同道する。
「やはり戦さになるのか」
佐和山城の櫓から去っていく織田勢を見送る員昌に、大役を果たした安堵感はなかった。
六角義賢が浅井方であった伊香郡の布施城を陥落させたことを端緒として、五月から九月までの長期に渡り、浅井家と六角家の間で蒲生野の戦いと呼ばれる合戦が生起した。
中でも、七月末には長政自ら率いる浅井勢が愛知川に進出したために生起した合戦は比較的大規模なものとなった。
この戦いでは、浅井方の人数が勝っていたにも関わらず、敵陣を抜くことが出来ず長政は撤退に追い込まれている。
この時、員昌は兵站の拠点として佐和山城の守備を命じられていたため、この合戦に参加していない。
(儂が先陣を勤めておれば、このような不覚は取らぬものを!)
敗報を受け、地団駄を踏む思いの員昌だが、後の祭りであった。
最終的には、浅井方が布施城を奪還することでこの合戦は一区切りがついた。
浅井方の優勢と、六角方の衰退を知らしめる結果ではあったが、名のある将を幾人も失い、稲刈りの時期を挟むほどの思いがけない長期戦となったことは、密かに員昌を憂慮させた。
今回の戦さで、兵站拠点として佐和山城の存在は一層重要視されることとなったが、その分、員昌にとっては城方の負担も大きいことが明らかになった。
「随分と持ち出しになってしもうたのう」
員春は、城内各所に分置された兵糧蔵を何度も点検してまわり、その度に肩を落とす。
もちろん、長政も手勢に佐和山城の兵糧をただ食いつぶさせた訳ではなく、小谷城から少なからぬ量の兵糧の融通はしてくれた。
しかし、それでも合戦前の備蓄量は回復できていないのが実情だった。
長期の籠城に備えた兵糧米が減るのは、城を預かる員昌にとっても死活問題である。
「幸い、領内の稲刈りは順調であった。年貢米だけでなく、いくらかは買い増し出来よう」
員昌はそう言って員春を励ます。
もっとも、例によって細かな実務は員春や小堀正房あたりに任せきりになるのだが。
そして員昌にはもう一つ、大きな気がかりがあった。
(城一つの奪い合いに、このように時をかけていて良いものであろうか)
漠然としたその懸念は、数年を経て現実のものとなる。
室町幕府十三代将軍である足利義輝が、三好や松永の手勢により二条御所を襲撃され、命を落としたのは永禄八年(一五六五年)五月の出来事である。
興福寺の一乗院の僧籍に入っていた義輝の弟・覚慶は命からがら逃れ出て、還俗して足利義秋と名を改め、甲賀の和田惟政、矢島、若狭の武田義統と転々とした末に、永禄九年九月には越前の朝倉義景を頼った。
しかし、一年以上に渡って敦賀に留め置かれた後、ようやく一乗谷城の上城戸の外にある安養寺に設えられた御所に入った義秋だが、肝心の義景には上洛のための兵を起こす動きはみられなかった。
仮に朝倉家が上洛を決意すれば、浅井家としても無縁では済まないところだったが、幸か不幸か、その心配は杞憂に終わった。
無為に歳月を重ね、永禄十一年(一五六八年)の四月に朝倉館にて正式な元服の儀を終えた義秋は、心機一転べく名を「義昭」と改めた。
同年二月には、三好三人衆らに担ぎ出された足利義栄が朝廷から征夷大将軍に任じられて第十四代将軍となっている。
しかし、義昭は己こそが足利将軍の正式な後継者であると、懸命に内外に向けて声を上げつづけた。
この頃には、元服の手筈を整えるなど扱いこそ丁重であっても、朝倉義景に義昭を擁立して上洛する意志などないことは、周囲にも明らかとなっていた。
やむなく義昭は、前年の八月に美濃の稲葉山城を攻め落として斉藤家を滅ぼした織田信長を頼ることを決意する。
七月十六日、義昭は朝倉景恒と前波景当の兵、合計四千に警固されて一乗谷を出立した。
信長の元に向かうにあたり、越前から直接美濃に入る険しい道のりは避け、近江を抜ける街道が採られた。
長政にとっては信長の義弟として盟約を結んでいる以上、信長の元に向かう義昭一行の通行を阻害する理由などない。
長政は余呉庄まで兵を連れて出迎えに参上し、小谷城に整えた宿舎に義昭一行を迎え入れた。
宿舎においては、浅井家の重臣がこぞって歓迎の挨拶の為に顔を出した。
ただし、この中には員昌の姿はなかった。
佐和山城にて六角の策動に備えるため、参上に及ばずと申し渡されていたためだ。
名代として員春を送り出した員昌の胸中は複雑だった。
どうあれ長政の晴れ舞台に立ち会えない悔しさがある。
一方で、貴人とはいえ未だ将軍にもなっていない男の御機嫌伺いのために顔を出す気になれなかったのも、また事実だった。
同月二十二日に義昭は美濃に入り、西庄の立政寺に腰を据えた。
織田勢が美濃から京に向かうにあたり、浅井領を通過することに支障はない。
問題は六角家の動向である。
観音寺騒動以来、境目の争いにおいては浅井家が優勢となっているが、他国の軍勢が南近江を通過して京に向かうとなれば、六角家とて黙ってみていることはないだろう。
そのため、上洛に先立って信長が近江まで出張って六角家と交渉する話が持ち上がった。
信長の決断は素早かった。
八月七日には六角家との交渉のため、信長は佐和山城まで出張ってくることになったのだ。
佐和山城は六角との交渉の為の前線基地となるだけでなく、義兄弟となった信長と長政にとり、初対面の場となった。
(会いたいだけなら、直接小谷城に向かえばよいものを)
などと員昌は思うのだが、六角の居城である観音寺城と対峙する要衝である佐和山城で会うことに意味があるのだろう。
浅井家の中には、長政のことを城外に呼びつけられたのは、信長が長政を軽んじているからだ、とみる者もいるかもしれない。
逆に言えば、長政は自分の城ではなく家臣の城に信長を迎えているわけで、見方一つ、気持ち一つで受け入れ方も違ってくる程度の話だった。
員昌としては、自慢の城を披露したい、などという気持ちは特になく、面倒ごとが増えたという程度の認識しかない。
員昌よりもむしろ員春や小堀正房ら家臣のほう「当家の栄誉」とばかりに張り切り、数日前から準備に余念がない。
前日になって、長政が父・久政と、さらには妻のお市の方を伴って佐和山城に姿を見せた。
「苦労を掛けるが、よろしく頼む。我らのことはともかく、織田殿には粗相のないようにな」
「はっ。お任せくだされ」
浅井家の当主一行を迎え、城内はいっそうにぎやかになる。
ところで、佐和山城は東山道に向かって張り出した二つの尾根筋の上に沿って築かれており、二つの尾根筋の先端は大堀切と呼ばれる外構えによって結ばれている。
二つの尾根筋と大堀切に囲まれた中には、三角形をした平坦地がある。
大堀切からは急勾配の谷筋に向かって東西に伸びる通りがあり、平坦地には籠城に備えた耕作地とされている区画が一部にあるものの、多くの武家屋敷が立ち並んでいる。
大堀切に近いほど下級の武士の住まいとなっており、奥に行くほど重臣の屋敷となる。
ただし、谷筋の一番奥にあたる大きな屋敷はあえて賓客の宿泊用にされ、無住のままとされていた。
員昌はこの屋敷に、信長一行を迎えるつもりだった。
いかに同盟相手とはいえ、軽々しく城の縄張りを観察させたくはなかったので、わざわざ佐和山城の本丸御殿まで招きあげるつもりはない。
その日の晩。
「我が殿も、何も父子連れ、夫婦連れでなくとものう」
事前の準備と打ち合わせを一通り終えた員昌が、奥の間で美弥を相手につい愚痴をこぼす。
隠居に追い込んだ筈の久政が、依然として家中で重きを成していることも不満であったし、信長の意向とはいえ、お市の方を呼び出すのは員昌としては腑に落ちない。
「浅井の大殿様は、六角とのご縁が深うございますから」
さらりと応じた美弥の言葉に、員昌はしばし息をのみ、膝を叩いてみせた。
「確かに、美弥の申す通りじゃ。儂は浅慮を恥じねばならぬようじゃ」
六角とのつながりが深い久政を小谷城に残しておけば、長政が留守の間に、六角家から調略の手が伸びないとも限らない。
父子が揃って信長を出迎えた意図は、即座に六角方にも通じる。
逆に言えば、浅井家中が一枚岩であることを知らしめるには、無理にでも同席させねばならなかったのだろう。
しかしそれも、久政から権限を取り上げきれない長政の甘さに原因があると思えば、員昌の心にはやるせなさが残った。
「殿は気苦労が絶えませぬね」
束の間愁眉を開き、またすぐ渋い表情に戻った員昌の様子を、美弥は面白げに見つめていた。
翌朝、長政は摺針峠まで自ら信長を出迎えに向かった。
事前の報せでは、信長はわずかに馬廻り衆二百五十騎のみを連れて近江に入るという。
摺針峠を越える間道は、かつて六角に攻め落とされた佐和山城を奪い返す際に員昌も用いたことがある。
(距離を短縮できるのであれば、例え悪路であっても躊躇なく押し渡るのが性分なのであろうか)
佐和山城で待つ員昌は大軍の行軍には到底向かない道を思い出し、まだ見ぬ信長の義兄の気性を想像する。
やがて、佐和山城の大手門前で待つ員昌の前に、長政を引き連れるようにして信長が姿をみせた。
馬から降りた信長は痩身で長躯、肌はあまり日焼けしていないが、不健康に生白い訳でもない。
なにより特徴的なのは、鋭く熱を帯びた眼光であった。
「出迎え、大儀である。その方が磯野丹波か。武勇のほどは聞いておる。よろしく世話になるぞ」
癇癖が強いとの噂とは異なり、信長は員昌に向かって機嫌良く挨拶する。
「はっ。本来であれば本丸御殿までお上がりいただくところでございまするが、何分手狭ゆえ、麓の屋敷にてご逗留いただきたく……」
「言葉を飾るな」
神妙な員昌の口上を遮るように、信長の甲高い声が響く。
「はっ」
「如何に盟約相手の当主が相手とて、城の枢要を見せぬは城主として当然の心構えではないか」
信長が発する怒気に、傍らの長政も、信長の近習も目に見えて緊張している。
しかし、当の員昌は意外と平然と受け止めていた。
信長の態度に「怒ってみせて、相手の反応を伺う」といった芝居の気配が感じられたためだ。
耳を衝く語気の鋭さほどには、信長が本当に腹を立てている気がしない。
(ほう。存外、儂もなかなか肝が据わっておるではないか)
員昌は内心で、自分の落ち着きぶりを思わず自画自賛してしまう。
初対面の相手に、立場にかかわらず身をすくめてしまう場合もあれば、なぜかのんでかかれる場合もある。
人間関係には相性というものがあり、員昌にとって、信長は相性の良い相手なのかもしれない。
「これは恐れ入りまする。手塩にかけて作事いたしましたる城なれば、隈なくお見せしたいと願うておりましたゆえ、要らぬ言葉を口にいたしました」
口ぶりとは裏腹に、恐れ入っている様子もあまりない員昌の言葉をどう受け止めたのか。
信長は片頬に薄笑いを浮かべて「ふん」と鼻を鳴らした。
数瞬の間を置いて。
「案内せい」
信長はそう言い捨て、何事もなかったかのようにさっさと大手門に向かって歩き出す。
「はっ。御前を失礼いたしまする」
員昌も、足早に進み出て信長の前に出る。
その様子に、織田の近習も、長政以下浅井家の面々も、思わず安堵の表情を浮かべて互いに顔を見合わせるのだった。
なお信長は佐和山城来訪に当たり、浅井久政・長政父子をはじめ、浅井家の家老・一門それぞれに対して引き出物を用意していた。
員昌は銀子三十枚と関兼氏の太刀一振、そして名馬を賜った。
少なくとも表向きは、員昌は不興を買ったわけではなさそうだった。
その後、信長は七日間に渡って佐和山城に腰を据え、幾度も使者を観音寺城の六角義賢に送り、上洛のための通行を認めさせるべく交渉を行わせた。
足利義昭からも使者を派遣させ、義昭が将軍位に就いた後には、六角義賢に京都所司代の地位を用意するとの、これみよがしな恩賞すらちらつかせたほどだ。
しかし、結局はかばかしい成果を上げることはできなかった。
「次に来る時は、戦さであろうな」
そんなつぶやきを残して、信長は引き上げを決めた。
交渉は不調であったが、信長はさほど腹を立てている様子も見えなかった。
最初から、六角が素直に織田による上洛を認めるとは考えていなかったためであろう。
織田勢は、今度は摺針峠を越えるのではなく、東山道を北上する帰路につく。
柏原の成菩提院を一夜の宿と定め、長政は醒井まで見送りに同道する。
「やはり戦さになるのか」
佐和山城の櫓から去っていく織田勢を見送る員昌に、大役を果たした安堵感はなかった。
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