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(九)長政の再婚
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「すぐ前に木の根が張り出しておる。蹴躓くでないぞ」
「足元ばかり気にしておると、松の枝に頭をぶつけるでな。前もよう見ておけ」
低い声で囁きかわしながら、夜明け前の闇の中をうごめく一隊がある。
季節はすでに夏を過ぎ、秋の収穫の時期を間近に控えている。
員昌が月明かりが乏しい月初めを選んで行っている、夜間行軍の調練であった。
言うまでもなく、太尾城の失策を繰り返すことだけは絶対に避けねばならないとの思いから始めたものだ。
参加しているのは員昌の直接の家臣だけでなく、浅井に味方する坂田・犬上両郡の土豪が率いる兵の姿もあった。
戦さでもないのに、ただ兵を動かすだけの調練を好む者は少ない。
組織だった調練など、懐事情と近隣の土豪との軋轢を考えれば、なかなか行えるものではない。
それでも員昌直々の説得と、兵糧などを佐和山城が負担するなどの交渉を重ね、参加してくれる土豪の数も回を追うごとに少しずつ増えていた。
「この数か月の鍛錬の成果か、かなり様になって参りましたな」
嶋秀安の次男である嶋新右衛門秀淳が明るい声を出す。
秀淳は、肩幅よりも体の前後ほうが厚みがあるのでは、と思わせる、有体に言えば肥満体型の持ち主である。
しかし、身体の重さでろくに動けないかと言えば決してそうではなく、見た目からは想像もつかない俊敏な動きと、見た目どおりの腕力で敵を弾き飛ばす豪傑である。
永禄三年の四ツ木の戦いでは、六角方の将・中村道心兵衛尉と馬上で槍を合わせ、これを討ち取る手柄を挙げ、今井定清から感状を受けている。
太尾城攻め失敗の原因が、夜討ちの際の不手際で同士討ちを起こしたためであることは広く知れ渡っていた。
そのため、員昌の取り組みは、特に今井家の将士には取り立てて説明せずとも概ね理解を得られていた。
夜間に佐和山城を出て、日の出までにあらかじめ定めた目的地まで行軍し、現地で朝餉を摂って佐和山城に戻るのが一連の流れである。
土地勘があるつもりの国衆の手勢ですら、最初のうちは闇夜の行軍となると途端に道を誤る者が続出し、想定した刻限までに目的地に辿り付けないなどといった誤算が相次いだ。
そのため、夜目にも見分けがつく白襷を揃えたり、龕灯を活用したり、外部に光を漏らさずに火種を運ぶ器具を用意したり、実地で得た知見に基づく様々な工夫を凝らしている。
「もう夜討ちが不得手などとは言わせぬ。もっとも、六角には儂が夜討ちを厭うておると思わせておいたほうが良いのじゃが」
秀淳の声に向かってそう返した員昌は感慨深く、この半年ばかりの苦労を振り返る。
(ようやく、ここまで来たか)
いきなりの試練から始まった員昌の佐和山統治ではあったが、同士討ち後の対処に卑怯未練の振る舞いがなかったとして、かろうじて今井家および他の国衆からの信頼をつなぎとめることには成功していた。
嶋秀安、岩脇定政、井戸村光慶といった今井家の重臣は、依然として今井小法師を当主とする立場は変えていないものの、実質的には員昌の指図に従うようになっている。
今井家を滅ぼし、その家臣団を員昌が取り込むための謀略だった、などと噂する口さがない者がいない訳でもなかった。しかし、当人たちは現実的な対応に徹している。
嶋秀安が、己の次男である嶋秀淳を員昌の馬廻りとして出仕させているのもその一例だ。
また、赤田信濃守興、高宮頼勝、山崎秀家、大宇秀則、蓮台寺主膳正、和田伝内、沢田民部といった佐和山城周辺の国衆たちも、おおむね員昌に帰服していた。
ただし、当主が相次いで討死し、心ならずも佐和山城を明け渡すことになった百々家の遺臣だけは、親族衆の中から新たな当主として擁立された百々綱家のもと、依然として百々屋敷に逼塞している。
員昌にとっては頭の痛いことではあるが、百々家の遺臣も六角と組んで員昌と積極的に敵対するまでには至っていない。
もちろん、員昌が強硬策を取らずに懐柔姿勢をみせていることもあるが、六角との抗争において浅井が優勢となっていることも大きい。
六角義賢から当主の座を譲られた嫡子の義治は、義賢が依然健在であることもあり、家中の統制に苦慮しているとの噂があった。
(いずれ、殿も六角相手に本腰を入れた攻勢に転じるであろう。その折こそ、太尾城の雪辱を果たさねばならぬ)
同士討ちの顛末を思えば、それはいささか逆恨みではあったが、員昌としてはそれ以外に気持ちの持って行き所がなかった。
永禄六年(一五六三年)十月。
六角義治が、重臣である後藤賢豊父子を観音寺城に登城するのを待ち受けて殺害する、いわゆる「観音寺騒動」が勃発した。
六角の衰勢を示したこの事件を契機として、六角の領内からも浅井方になびく国衆も現れた。
かつて員昌が痛恨の同士討ちを演じた太尾城も、浅井家の勢力範囲に孤立し、抗しきれずとみて戦わずして城を開いて城兵は退散している。
絶好機ではあったのだが、長政はこの機に一気に六角家を滅ぼすことまでは考えていない様子だった。
(なぜこの機に動こうとなされぬのか)
員昌は不満だった。
佐和山城に在番しているため、小谷城の様子が今一つはっきりしないもどかしさが募った。
そんな中、朗報もあった。
二年余りに渡って続けられていた、岸澤與七改め森盛造の修行がついに一通り終わったのだ。
「それがしが持つ技のうちお伝えできるものは全て、盛造殿の血肉となり申した」
僧形も板についたかつての森盛造、つまり今や杉谷善住坊と名乗る忍びが、盛造と共に員昌の寝所に姿を見せて報告する。
「うむ。ようやってくれた。盛造も、よくぞ厳しい修行に耐えたものよ」
員昌のねぎらいの言葉に、二人は揃って平伏する。
もちろん、本来の忍びは幼少期から厳しい鍛錬を積むものであり、既に二十歳を越えている盛造が、忍びとして必要なすべての技能を二年余りで身に着けることなど出来ない。
ましてや善住坊が甲賀の秘伝を明かすはずもなく、盛造が身に着けたのは基本的な事柄に過ぎない。
それでも森盛造は、日中は行人包で顔を隠して善住坊の従者として付き従い、夜には忍びの技を鍛錬する日々を続けた。
善住坊も、敵城に忍び込むための超人的な体術の伝授は必要最小限にとどめた。
その代わり、もっぱら変装術や人相書きの手法、何気ない会話から重要な情報を聞き出す話術といった、地味ではあるが実践的な内容に重点を置いた。
厳しい修行を経て、わざわざ変装をしなくても親族でもなければその正体が岸澤與七だとは気づかないであろうほど、盛造の人相も変化していた。
そして善住坊は盛造に忍術の修行を施す一方で、自らも鉄砲放ちの腕を磨くべく、連日のように角場で鉄砲の引き金を引き、的を射抜いた。
その訓練の激しさ、城内では密かに話題となった。
「佐和山の殿さまは鉄砲に理解がある」との噂が城下に広がり、手勢に鉄砲組を揃えるのに思わぬ形で役に立ったほどだ。
「善住坊は、やはり当家に仕えるつもりはないか」
しばし感慨深く二人を見つめていた員昌は、改めて善住坊に問うた。
「はっ。学ばせていただいた鉄砲放ちの技がどこまで通用するものか、外に出て試したくござれば」
「左様であるか。引き留めたいが、そうもいくまい」
員昌は善住坊に貸し与えていた使い慣れた鉄砲一挺と、五十発分の鉛玉と焔硝を餞別代りに進呈した。
鉄砲放ちであれば、銭稼ぎに参陣できる合戦には畿内に限っても不自由しない。
程なくして腕利きの鉄砲放ちとして、杉谷善住坊の名は風の頼りに聞こえるようになっていく。
永禄七年(一五六四年)二月。
員昌は森盛造を美濃に派遣し、斉藤家の情勢を探らせていた。
本来であれば、佐和山城が最前線で向き合っている六角家の内情を探らせるのが筋ではある。
しかし、盛造が生存していた岸澤與七であると万が一にも長政に知られては都合が悪い。
盛造もまだまだ半人前の忍びにすぎず、浅井家の調者も既に多く潜入しているであろう南近江に送り込むわけにはいかなかったのだ。
美濃ではこの月の六日に、永禄四年に死去した斉藤義龍の後を継いだ斉藤龍興の家臣・竹中半兵衛重虎(のち重治)が斉藤氏の居城である稲葉山城を、わずかな手勢で占拠する事件が起きていた。
浅井家の美濃討ち入れが頓挫してはや、三年。
その間、織田信長は幾度の敗戦にもめげず、執拗に美濃への版図拡大を計っている。
今回の稲葉山城占拠の一件は、防戦一方の斉藤家の屋台骨が大きく揺らいでいることを内外に広く知らしめることになった。
この機に乗じて長政が美濃を信長と折半する流れに持ち込むこともあり得る、と員昌は考え、半ば腕試しのつもりで盛造を送り込んだのだ。
だが、盛造は思いもよらない話を持ち帰ってきた。
竹中半兵衛が、織田家と浅井家の間を取り持ち、信長の妹・市を長政に嫁がせるための婚礼行列に手出しせず安全を保障する旨、両家に約したというのだ。
「よく判らんのう。当家と織田が手を結ぶのはともかく、それを竹中半兵衛が仲介してどうなるのじゃ」
寝所で盛造と向かい合う員昌は、状況が掴めずに首をひねった。
盛造の技量にはまだ全幅の信頼をおけないため、なにかとんでもない噂を掴んでしまったとも考えられる。
長政は、六角の重臣・平井定武の娘を離縁して以来一人身であったから、信長の妹を正室として迎えることに異存はない。
織田と浅井の盟約の証として長政に嫁取りを進める話そのものは、永禄四年に浅井勢が美濃に討ち入れた時から既にあった。
ただし、美濃を通過することが困難であるため、いつしか沙汰止みになっていた経緯がある。
(その話が、斉藤の凋落にあわせて再び蒸し返されたか)
浅井と織田家が接近すれば、それだけ間に挟まれた美濃は危険に曝されることにならないか。
なぜわざわざ危ない橋を渡ろうとするのか。員昌の疑問は、まさにその一点にあった。
「竹中様は、機略にて稲葉山城を乗っ取った軍師なれば、何か考えあってのことにございましょう」
盛造が根拠なき推測を口にする。
今の盛造の調者働きの腕前では、竹中半兵衛の真意を探り当てるまには力不足であった。
「当て推量をいくらしたところで、意味はないぞ」
員昌は盛造を叱るが、その言葉は半ば己に向けられたものだった。
浅井・織田と並んで竹中家が美濃一国の大名として並び立った暁には、いずれ三者による盟約を画策しており、両者の機嫌を取り結んでおきたいのだろう、と員昌は自分を納得させた。
その後、婚儀については急速に両家の間で話がまとまり、公のものとなった。
直接何かの役に立った訳ではないとはいえ、盛造がいちはやく正しい情報を収集出来ていたことに、員昌はまずは素直に喜んだ。
早くも三月には、お市の方は竹中勢による警固の元、目立たぬ少人数で無事に美濃を抜けて近江に入り、吉日を選んで小谷城にて祝言を挙げることとなった。
当然、婚礼の儀とそののちの祝宴には、員昌も顔を出している。
噂通りのお市の方の美しさには驚かされたが、員昌はとくに羨ましさは感じない。
とかく気性の激しさが風聞として流れてくる織田信長の妹が嫁では、殿も気が休まらぬであろう、と同情する思いのほうが強かった。
浅井と織田の絆が結ばれた一方、その仲介役を果たした竹中半兵衛による美濃の支配は、斉藤龍興の巻き返しによってわずか半年ほどで立ち行かなくなり、同年八月には稲葉山城を放棄して退転した。
織田・浅井両家の仲立ちに竹中半兵衛は何を目論んでいたかは不明であるが、その画策は水泡と帰した。
後に竹中半兵衛は浅井長政を頼り、一年ほど近江に客将として滞在することになる。
長政は、お市の方を無事に近江まで送り届けてくれた恩人として半兵衛を遇したが、この温情は思いもよらない結末を招くことになる。
「足元ばかり気にしておると、松の枝に頭をぶつけるでな。前もよう見ておけ」
低い声で囁きかわしながら、夜明け前の闇の中をうごめく一隊がある。
季節はすでに夏を過ぎ、秋の収穫の時期を間近に控えている。
員昌が月明かりが乏しい月初めを選んで行っている、夜間行軍の調練であった。
言うまでもなく、太尾城の失策を繰り返すことだけは絶対に避けねばならないとの思いから始めたものだ。
参加しているのは員昌の直接の家臣だけでなく、浅井に味方する坂田・犬上両郡の土豪が率いる兵の姿もあった。
戦さでもないのに、ただ兵を動かすだけの調練を好む者は少ない。
組織だった調練など、懐事情と近隣の土豪との軋轢を考えれば、なかなか行えるものではない。
それでも員昌直々の説得と、兵糧などを佐和山城が負担するなどの交渉を重ね、参加してくれる土豪の数も回を追うごとに少しずつ増えていた。
「この数か月の鍛錬の成果か、かなり様になって参りましたな」
嶋秀安の次男である嶋新右衛門秀淳が明るい声を出す。
秀淳は、肩幅よりも体の前後ほうが厚みがあるのでは、と思わせる、有体に言えば肥満体型の持ち主である。
しかし、身体の重さでろくに動けないかと言えば決してそうではなく、見た目からは想像もつかない俊敏な動きと、見た目どおりの腕力で敵を弾き飛ばす豪傑である。
永禄三年の四ツ木の戦いでは、六角方の将・中村道心兵衛尉と馬上で槍を合わせ、これを討ち取る手柄を挙げ、今井定清から感状を受けている。
太尾城攻め失敗の原因が、夜討ちの際の不手際で同士討ちを起こしたためであることは広く知れ渡っていた。
そのため、員昌の取り組みは、特に今井家の将士には取り立てて説明せずとも概ね理解を得られていた。
夜間に佐和山城を出て、日の出までにあらかじめ定めた目的地まで行軍し、現地で朝餉を摂って佐和山城に戻るのが一連の流れである。
土地勘があるつもりの国衆の手勢ですら、最初のうちは闇夜の行軍となると途端に道を誤る者が続出し、想定した刻限までに目的地に辿り付けないなどといった誤算が相次いだ。
そのため、夜目にも見分けがつく白襷を揃えたり、龕灯を活用したり、外部に光を漏らさずに火種を運ぶ器具を用意したり、実地で得た知見に基づく様々な工夫を凝らしている。
「もう夜討ちが不得手などとは言わせぬ。もっとも、六角には儂が夜討ちを厭うておると思わせておいたほうが良いのじゃが」
秀淳の声に向かってそう返した員昌は感慨深く、この半年ばかりの苦労を振り返る。
(ようやく、ここまで来たか)
いきなりの試練から始まった員昌の佐和山統治ではあったが、同士討ち後の対処に卑怯未練の振る舞いがなかったとして、かろうじて今井家および他の国衆からの信頼をつなぎとめることには成功していた。
嶋秀安、岩脇定政、井戸村光慶といった今井家の重臣は、依然として今井小法師を当主とする立場は変えていないものの、実質的には員昌の指図に従うようになっている。
今井家を滅ぼし、その家臣団を員昌が取り込むための謀略だった、などと噂する口さがない者がいない訳でもなかった。しかし、当人たちは現実的な対応に徹している。
嶋秀安が、己の次男である嶋秀淳を員昌の馬廻りとして出仕させているのもその一例だ。
また、赤田信濃守興、高宮頼勝、山崎秀家、大宇秀則、蓮台寺主膳正、和田伝内、沢田民部といった佐和山城周辺の国衆たちも、おおむね員昌に帰服していた。
ただし、当主が相次いで討死し、心ならずも佐和山城を明け渡すことになった百々家の遺臣だけは、親族衆の中から新たな当主として擁立された百々綱家のもと、依然として百々屋敷に逼塞している。
員昌にとっては頭の痛いことではあるが、百々家の遺臣も六角と組んで員昌と積極的に敵対するまでには至っていない。
もちろん、員昌が強硬策を取らずに懐柔姿勢をみせていることもあるが、六角との抗争において浅井が優勢となっていることも大きい。
六角義賢から当主の座を譲られた嫡子の義治は、義賢が依然健在であることもあり、家中の統制に苦慮しているとの噂があった。
(いずれ、殿も六角相手に本腰を入れた攻勢に転じるであろう。その折こそ、太尾城の雪辱を果たさねばならぬ)
同士討ちの顛末を思えば、それはいささか逆恨みではあったが、員昌としてはそれ以外に気持ちの持って行き所がなかった。
永禄六年(一五六三年)十月。
六角義治が、重臣である後藤賢豊父子を観音寺城に登城するのを待ち受けて殺害する、いわゆる「観音寺騒動」が勃発した。
六角の衰勢を示したこの事件を契機として、六角の領内からも浅井方になびく国衆も現れた。
かつて員昌が痛恨の同士討ちを演じた太尾城も、浅井家の勢力範囲に孤立し、抗しきれずとみて戦わずして城を開いて城兵は退散している。
絶好機ではあったのだが、長政はこの機に一気に六角家を滅ぼすことまでは考えていない様子だった。
(なぜこの機に動こうとなされぬのか)
員昌は不満だった。
佐和山城に在番しているため、小谷城の様子が今一つはっきりしないもどかしさが募った。
そんな中、朗報もあった。
二年余りに渡って続けられていた、岸澤與七改め森盛造の修行がついに一通り終わったのだ。
「それがしが持つ技のうちお伝えできるものは全て、盛造殿の血肉となり申した」
僧形も板についたかつての森盛造、つまり今や杉谷善住坊と名乗る忍びが、盛造と共に員昌の寝所に姿を見せて報告する。
「うむ。ようやってくれた。盛造も、よくぞ厳しい修行に耐えたものよ」
員昌のねぎらいの言葉に、二人は揃って平伏する。
もちろん、本来の忍びは幼少期から厳しい鍛錬を積むものであり、既に二十歳を越えている盛造が、忍びとして必要なすべての技能を二年余りで身に着けることなど出来ない。
ましてや善住坊が甲賀の秘伝を明かすはずもなく、盛造が身に着けたのは基本的な事柄に過ぎない。
それでも森盛造は、日中は行人包で顔を隠して善住坊の従者として付き従い、夜には忍びの技を鍛錬する日々を続けた。
善住坊も、敵城に忍び込むための超人的な体術の伝授は必要最小限にとどめた。
その代わり、もっぱら変装術や人相書きの手法、何気ない会話から重要な情報を聞き出す話術といった、地味ではあるが実践的な内容に重点を置いた。
厳しい修行を経て、わざわざ変装をしなくても親族でもなければその正体が岸澤與七だとは気づかないであろうほど、盛造の人相も変化していた。
そして善住坊は盛造に忍術の修行を施す一方で、自らも鉄砲放ちの腕を磨くべく、連日のように角場で鉄砲の引き金を引き、的を射抜いた。
その訓練の激しさ、城内では密かに話題となった。
「佐和山の殿さまは鉄砲に理解がある」との噂が城下に広がり、手勢に鉄砲組を揃えるのに思わぬ形で役に立ったほどだ。
「善住坊は、やはり当家に仕えるつもりはないか」
しばし感慨深く二人を見つめていた員昌は、改めて善住坊に問うた。
「はっ。学ばせていただいた鉄砲放ちの技がどこまで通用するものか、外に出て試したくござれば」
「左様であるか。引き留めたいが、そうもいくまい」
員昌は善住坊に貸し与えていた使い慣れた鉄砲一挺と、五十発分の鉛玉と焔硝を餞別代りに進呈した。
鉄砲放ちであれば、銭稼ぎに参陣できる合戦には畿内に限っても不自由しない。
程なくして腕利きの鉄砲放ちとして、杉谷善住坊の名は風の頼りに聞こえるようになっていく。
永禄七年(一五六四年)二月。
員昌は森盛造を美濃に派遣し、斉藤家の情勢を探らせていた。
本来であれば、佐和山城が最前線で向き合っている六角家の内情を探らせるのが筋ではある。
しかし、盛造が生存していた岸澤與七であると万が一にも長政に知られては都合が悪い。
盛造もまだまだ半人前の忍びにすぎず、浅井家の調者も既に多く潜入しているであろう南近江に送り込むわけにはいかなかったのだ。
美濃ではこの月の六日に、永禄四年に死去した斉藤義龍の後を継いだ斉藤龍興の家臣・竹中半兵衛重虎(のち重治)が斉藤氏の居城である稲葉山城を、わずかな手勢で占拠する事件が起きていた。
浅井家の美濃討ち入れが頓挫してはや、三年。
その間、織田信長は幾度の敗戦にもめげず、執拗に美濃への版図拡大を計っている。
今回の稲葉山城占拠の一件は、防戦一方の斉藤家の屋台骨が大きく揺らいでいることを内外に広く知らしめることになった。
この機に乗じて長政が美濃を信長と折半する流れに持ち込むこともあり得る、と員昌は考え、半ば腕試しのつもりで盛造を送り込んだのだ。
だが、盛造は思いもよらない話を持ち帰ってきた。
竹中半兵衛が、織田家と浅井家の間を取り持ち、信長の妹・市を長政に嫁がせるための婚礼行列に手出しせず安全を保障する旨、両家に約したというのだ。
「よく判らんのう。当家と織田が手を結ぶのはともかく、それを竹中半兵衛が仲介してどうなるのじゃ」
寝所で盛造と向かい合う員昌は、状況が掴めずに首をひねった。
盛造の技量にはまだ全幅の信頼をおけないため、なにかとんでもない噂を掴んでしまったとも考えられる。
長政は、六角の重臣・平井定武の娘を離縁して以来一人身であったから、信長の妹を正室として迎えることに異存はない。
織田と浅井の盟約の証として長政に嫁取りを進める話そのものは、永禄四年に浅井勢が美濃に討ち入れた時から既にあった。
ただし、美濃を通過することが困難であるため、いつしか沙汰止みになっていた経緯がある。
(その話が、斉藤の凋落にあわせて再び蒸し返されたか)
浅井と織田家が接近すれば、それだけ間に挟まれた美濃は危険に曝されることにならないか。
なぜわざわざ危ない橋を渡ろうとするのか。員昌の疑問は、まさにその一点にあった。
「竹中様は、機略にて稲葉山城を乗っ取った軍師なれば、何か考えあってのことにございましょう」
盛造が根拠なき推測を口にする。
今の盛造の調者働きの腕前では、竹中半兵衛の真意を探り当てるまには力不足であった。
「当て推量をいくらしたところで、意味はないぞ」
員昌は盛造を叱るが、その言葉は半ば己に向けられたものだった。
浅井・織田と並んで竹中家が美濃一国の大名として並び立った暁には、いずれ三者による盟約を画策しており、両者の機嫌を取り結んでおきたいのだろう、と員昌は自分を納得させた。
その後、婚儀については急速に両家の間で話がまとまり、公のものとなった。
直接何かの役に立った訳ではないとはいえ、盛造がいちはやく正しい情報を収集出来ていたことに、員昌はまずは素直に喜んだ。
早くも三月には、お市の方は竹中勢による警固の元、目立たぬ少人数で無事に美濃を抜けて近江に入り、吉日を選んで小谷城にて祝言を挙げることとなった。
当然、婚礼の儀とそののちの祝宴には、員昌も顔を出している。
噂通りのお市の方の美しさには驚かされたが、員昌はとくに羨ましさは感じない。
とかく気性の激しさが風聞として流れてくる織田信長の妹が嫁では、殿も気が休まらぬであろう、と同情する思いのほうが強かった。
浅井と織田の絆が結ばれた一方、その仲介役を果たした竹中半兵衛による美濃の支配は、斉藤龍興の巻き返しによってわずか半年ほどで立ち行かなくなり、同年八月には稲葉山城を放棄して退転した。
織田・浅井両家の仲立ちに竹中半兵衛は何を目論んでいたかは不明であるが、その画策は水泡と帰した。
後に竹中半兵衛は浅井長政を頼り、一年ほど近江に客将として滞在することになる。
長政は、お市の方を無事に近江まで送り届けてくれた恩人として半兵衛を遇したが、この温情は思いもよらない結末を招くことになる。
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