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(十一)上洛

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 九月七日。
 六角との交渉が決裂したうえは、もはや遠慮はいらぬとばかり、信長は早々に実力行使による上洛を決め、岐阜を出陣した。

 足利義昭を奉戴し、上洛のための戦さであるが、京では既に、三好義継や松永久秀らは信長に意を通じて上洛に合力する手はずが整っていた。

 もはや信長の上洛の途を遮るのは、もはや南近江の六角義賢・義治父子のみとなっていた。

 もちろん、信長の義弟である長政も手勢を率いて織田の軍勢に合流する。

 南近江にさしかかったところで、長政の本陣に織田家の使者がやってきた。

 六角勢が拠点とする支城の一つ、箕作城を攻撃されたし、と使者は口上を述べる。

 長政は即答せず、いったん使者をその場から下がらせたうえで、重臣を集めて軍評定を開いた。

「いきなり箕作城を攻めよとは、いささか短兵急に過ぎるのでは」
 まず赤尾清綱が険しい表情で声を上げた。

 箕作城を攻めるには、六角領を南に大きく踏み込む形になる。清綱の言葉に我が意を得たりとばかり、敵中深く侵入することに懸念の声があがる。

(いかぬな。此度の戦さは、我らだけで六角と戦うておる時とはまるて違うことが皆、判っておらぬ)
 員昌は表情を曇らせた。

 浅井家の諸将の多くは、すでに信長の姿を目の当たりにする機会を得ている。

 しかし、信長を七日間に渡って自城に迎え、間近に接した経験があるのは員昌以外、誰もいないのだ。

「江州武者の武辺のほど、織田勢に見せる時は今にございますぞ」
 勢い込んで声をあげた員昌だが、意に反して諸将の反応は鈍い。長政もまた、渋い表情を見せていた。

 初陣の野良田の合戦で勝利して以来、長政は浅井家の当主として、常に自分の考えで兵を挙げて合戦に挑んでいた。

 他の誰かに戦えと命じられた経験は初めてのことだった。

 そのわだかまりが表情を曇らせているのではないか、と員昌は推察した。

 地元の武将が最前線を受け持つのは戦さの常道ではあるが、心底定かなる降将が真っ先に戦場に駆り出されるやり口と同じと言えなくもない。

 居並ぶ将からも後ろ向きの声があがる。
 箕作城を陥落させたところで、手伝い戦さである浅井勢が城を領することは出来ない、と兵を無駄死にさせることを恐れる意見があった。

 しかしそれ以上に、上洛にあたって浅井家にとっては主筋にあたる京極高吉が、信長の本陣に侍っているとの風聞が広まっていたことだ。

 その報せを聞いたときは、員昌も「やられた」と天を仰いだ。

 そもそも浅井家がなんの権利があって北近江を治めているのか、という問いに対する回答は簡単ではない。

 実力、すなわち武力によって黙らせている、などという身も蓋もない事実だけでは話は片付かないのだ。

 なぜかと言えば、亮政の時代から、表向きは「浅井家は一重に主筋である京極家の意向に沿って政事を行っている」という理屈を押し通して来たからだ。

 京極家の意を呈している、という建前を維持するのであれば、京極の身柄を厳重に確保しておかねばならなかった。

 まさか長政の義兄である信長の元に走って取り入るなどとは、浅井家では誰も考えていなかったのだ。

 今後、信長が京極を使って長政に無理難題を押し付けてきたり、長政の頭を飛び越えて、京極の名で北近江の統治に介入してきたりする可能性も懸念された。

 長政が義弟の立場に甘えていた、と言ってしまえばそれまでだ。

 しかし、家臣の立場としては、やはり浅井家が困ると判っていながら、唯々諾々と京極を受け入れた信長に対する不信感が募る。

「たかが城一つで、小さなことを申される。ここで愚図ったところで、織田殿が機嫌を損ねるだけで、何も得るものはござらぬ」
 員昌は声に力を籠めるが、反応は薄い。

「丹波守殿は佐和山城の接待で、織田殿から随分な土産を頂戴したと聞き及ぶ。それゆえの織田贔屓でござるかな」
 赤尾清綱の軽口に、諸将の忍び笑いが続く。

「なにをっ」
 員昌は眉を吊り上げて気色ばむ。

 その脳裏に、亡き父・平八郎員宗が若き日に、本家の若侍三人を口論の末に斬り殺したという、繰り返し聞かされた光景が描かれる。

「やめよ。ここで争うてなんになる」
 長政が鋭い声を放って制止するが、不穏な空気は簡単には鎮まらない。

 しかし、幸か不幸か、不毛な軍評定は程なくして打ち切られることとなった。

 動きの鈍い浅井勢にしびれを切らせた信長が、股肱の臣に箕作城攻めを命じたとの報せが飛び込んできたのだ。
「いかぬ。出遅れたわ」

 長政が顔色を変えた。

 信長は自分の着陣を待って、それまで城攻めは始めないものと、たかをくくっていたきらいがある。

 痛恨の読み違えであった。

 長政は急いで自ら手勢のうち二千を率いて箕作城に向かった。

 残る兵は観音寺城の抑えとして残されることになり、その指揮を員昌が執ることになった。

(城攻めを進言していた儂を引き連れていくのは、成りが悪いということであろうか)

 皮肉めいた言葉は呑み込み、員昌は兵をまとめて観音寺城へと向かう。

 六角家は、観音寺城から箕作城の後詰の兵を出す可能性もある。その動きに制約を与える役目は無駄ではない。

「むしろ、討って出てきてくれぬものかと思いますな。そこで我らが痛撃を加え、六角父子のどちらかの首でも頂戴出来たならば、浅井様の遅参も帳消しとなりましょう」
 軍評定から戻った員昌から経緯を聞いた嶋秀淳も、沈痛な面持ちでつぶやく。

 観音寺城の南にある竹林を背に着陣した員昌は、かつて美濃攻めで行ったように半数の兵を竹藪の影に埋伏させつつ、これみよがしに旗印を林立させた。

 観音寺城の六角勢が、小勢と侮って打って出てきたならば、すかさず襲い掛かる算段であった。

 しかし、そう都合よく物事が運ぶはずもなく、観音寺城からの後詰めの動きはないまま、箕作城は織田勢の猛攻の前に一日で陥落した。

 浅井勢は織田兵から腰の重さを嘲笑され、面目を失うことになった。

 長政も員昌も名誉挽回の機会を求めたが、織田勢の勢いに恐れをなしたのか、六角父子は九月十二日には観音寺城での抗戦を断念し、城を捨てて退転してしまった。

 伊賀へと奔った六角父子は、南近江の拠点のほとんどを失うことになる。



  あっけなく六角勢を下した信長は、あらためて軍勢を整えて京へと向かう。

 長政の手勢もそのまま従い、勢田の唐橋を渡ることになった。

 対して員昌は、此度の出陣の後始末を任されたため、上洛に参加せず引き続き佐和山城に居残り、南近江に屯する織田勢の動向に目を光らせる役目を負うことになった。

 当然のことながら、箕作城も観音寺城も浅井家のものにはならず、織田の番兵が在番する形になっている。

 六角領の切り取りという観点からいえば、浅井家にとっては懸念されたとおり得ることのない出陣には違いなかった。

 しかし、佐和山城に帰着した員昌は、さほど気持ちを沈ませてはいなかった。

 どうあれ六角が大名として命脈が立たれた結果、佐和山城は常にさらされてきた南方からの脅威が消えることになったのだから。

 もっとも、京に向かう長政は佐和山城に戻る員昌に宛て、「織田勢の動きから目を離すな」との注意を記した書状を送ってきていた。

 信長が領することになった南近江との国境で、揉め事が起きることは充分に予想される話だった。

 油断を戒めたくなる気持ちは、員昌にも理解できた。



 信長は九月二十六日に上洛を果たすや、十四代将軍・足利義栄を擁して政事を壟断していた三好三人衆を攻めたて、たちまち阿波へと追い落としてしまった。

 さらに手を緩めず、河内国、摂津国、大和国などの山城国周辺に織田勢が進出すると、松永久秀をはじめ、畠山高政、池田勝正ら有力武将も競うように信長に降参し、臣従を申し出た。

 三好勢が畿内から一層されていく最中、十月八日には十四代将軍・足利義栄が阿波の地で失意のうちに病死している。

 信長と足利義昭にとっては、あまりにも都合の良い事態となった。

 その後、征夷大将軍就任への障害が取り除かれたことで、十月十八日には足利義昭が朝廷から征夷大将軍の称号を得た。

 言うまでもなく義昭は大いに喜び、信長に対しては「織田弾正忠殿」と宛名した感状を認めている。

 ただし信長は、義昭が畿内五か国の知行も、副将軍や管領といった役職を、いずれも断っている。

 もっとも無欲かといえばそうでもなく、代わりに和泉国の堺、近江国の大津や草津などの要所の支配権を得ている。

 そして、長居は無用とばかり、十月二十六日には京を進発している。



 岐阜城に向けて東山道を行軍する織田勢に対し、員昌は敵意のないことを示すために、佐和山城の大手門を大きく開いてみせた。

 信長からは「挨拶無用」との先触れが届いていたため、員昌は主だった家臣を引き連れて軍勢を見送るのみである。

「これから毎度、こうやって他国の軍勢が通るのを見ておらねばならぬというのは、面白くないものじゃな」
 磯野員春などはそうぼやく。員昌としては簡単に首肯もできず、苦笑いを浮かべるしかなかった。



 明けて永禄十二年(一五六九年)。

 十五代将軍・足利義昭は上洛以来、本圀寺を宿舎としていた。

 本来入るべき二条御所が、足利義輝が討たれた永禄の変以来、荒れ果てていたためだ。

 信長が大多数の手勢を率いて帰還したのちも、いくばくかの織田勢が守備についていたが、防備に不安があったことは否めない。

 正月六日、阿波に逃れていた三好三人衆が密かに舞い戻り、斉藤龍興、長井道利ら斉藤家の牢人を糾合して挙兵し、足利義昭が暮らす本圀寺を囲む、後の世にいう「本圀寺の変」が出来した。

 翌日の夜明け前にその報せを岐阜城で受け取った信長は、小谷城の長政に援軍を要請しつつ、降りしきる雪をものともせず、自らもわずかな馬廻りのみを従えて出陣した。

 本圀寺の守備についていた織田勢の奮戦もあり、攻めあぐねていた三好勢は、信長の素早い進軍に恐れをなし、あっけなく逃げ出してしまった。

 当然、やっとの思いで駆け付けた長政率いる浅井勢には、働き場所などなかった。

 命拾いして涙ながらに感謝する足利義昭に対し、信長は二条御所を本格的に修復し、将軍にふさわしい居館にしたいと申し出て、これを許された。

 普請には浅井家も三千の人夫を出すことになり、思いがけず正月から上洛することとなった長政も、京に居残って作事を監督することになった。

 しかし、織田と浅井の両陣営の割り当てが隣接する石垣を修復する普請場にて、残土をめぐる口論が喧嘩騒ぎが起きた。

 やがて両陣営とも、数千人規模が現場に押し寄せ、合戦さながらの大立ち回りとなってしまった。

 京の長政かの急使で報せを受けた員昌は、思わず頭を抱えたくなった。
 この騒動による双方の死傷者は数百人単位とも言われ、浅井家中における織田への不信感は決定的なものとなりかねない。

 万が一にも佐和山城の城兵が織田勢と争う事の無いよう、油断せず城の守りを固めよ、と長政からの書状には記されていた。

「儂がおれば、織田相手の諍いを止めさせられたであろうか。……いや、むしろ逆上して、真っ先に織田の人足に掴みかかっていたかもしれんな」
 書状を手に宙に視線をさまよわせ、員昌は自嘲のつぶやきを漏らす。

 このまま信長との盟約を守り続けて、浅井の家は成り立つのか。

 暗い予測を、員昌はどうしても振り払うことが出来なかった。
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