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因果応報、春の祟り

天は尊く地は卑く乾坤定まる、高いも低いもきちんと決まれば万事オッケー!

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「いちかばちか、か。趣味ではない」

 言いながら士匄しかいは箱を開け、はくの挿し木を一本と小さな玉璧ぎょくへきをひとつ、趙武ちょうぶに示した。

「お前が持て。私はもうかなり穢れている。箱を持つくらいなら良いが、手に取ればそれも穢れる」

 趙武がおそるおそる小さな挿し木と玉璧をとった。手の中に収まるほどのそれは、柏の枝を持つ邪魔にはならない。

「古かろうが土でかため石を重ねたやしろだ、そう簡単に崩れぬ。ゆえ、お前は少しだけでも良い、欠けさせる程度で良いから形を変えろ。土に穴が開く、小さな石がこぼれ落ちる、その程度で良いから壊せ。そうしたら地にぎょくを埋め柏を上から挿せ。壊す、埋める、挿す。それだけ考えろ、それ以外考えるな。何が起きてもそれだけを考えろ」

 士匄は社を指さし言った。小さな社である。屋根もなく、ただ木の周囲に土と石を盛ったような、粗末なものでもある。が、様式にも則ったものであった。趙武が唾を飲み込むと息を吐いた。

「あなたは」

「わたしは言上ごんじょう言祝ことほぎをする。即興だ、お前にこれはできんだろう」

 士匄の言葉に趙武が頷いた。その目に怯えはあったが、怖じた様子は無い。士匄が横柄な動きで顎で促すと、趙武がそろそろと歩き出す。周囲の崩れた土砂の影響で、走れば足を取られかねなかった。それを一瞬だけ見送りながら、士匄は姿勢を正してぬかずいた。その所作は威風あり美しい。身にまとわりつく祟り不祥も感じさせず、山津波への怯えも見えぬ。

「この度、ゆうの祀りを承った士氏の嗣子ししいみなかいと申す。この匄の祖はぎょうにて王の同族にて陶唐とうとう氏であり、の世をそのまま、の世には御龍ごりょう氏となり、商にて豕韋しい氏、しゅうにて唐杜とうと氏でございました。周よりしんへ渡り士氏を名乗り范邑はんゆうを頂いておりますのではん家を称しております。祁姓の我らに譲られた邑にてあなたさまからの贄いただき、ありがたく儀を執り行いました旨、改めて言上つかまつる」

 ――山は地に近くいん多くよう少なきといえど、あなたさまは必要以上に陰をお持ちであらせられる、わたしといたしましてはご苦労も多いのでは無いかと愚考した次第、我が財より陽をおひとつ捧げたてまつりたいと思う所存、つきましてはあなたさまのお家にございます陰多き場を浄め除くことが肝要――

 地滑りの音にも負けず響く士匄の声を背に、趙武は目当ての場所を見つけて蹴った。が、石はもちろん土塀にヒビも入らぬ。趙武は柏の枝を己の奥襟に挿し、玉と挿し木を袖の中へ入れると、落ちていた石を持ち、小さな土壁に幾度も打ち付けた。背後で、ど、という音がする。そちらを見てはならぬ、と趙武はガチガチに固まった土や並べられた石だけを見て、必死に打ち付け、時には素手で穴が開いてないかと指でほじった。指先の皮がすり切れ、中指の爪が割れたがそれどころではない。ど、という音が、おおあ、という響きになった時、

「その背にとどまりて、その身をず。その庭に行きて、その人を見ず。とがなし」

 と、士匄の大声が響き、背後の圧迫が一瞬散った。どざ、と泥が、両脇を流れていく。趙武は、ヒッと喉奥から悲鳴をあげたあと、ひたすら土壁を削るべく石で打ち続けた。恐怖で勝手に涙が溢れていく。もし失敗すれば黄河の氾濫で溺れるよりも酷い死が待っている。口から臓腑まで泥を流し込まれながら体中を土砂に打たれ折られ、誰にも見つけられることなく山の一部となる。祀られることなく死後も無惨な泥まみれの姿で彷徨う。何故来たのかと吐きそうであった。そのくせ、士匄のせいで、という発想はなかった。己が連れて行けといったのである、と歯を食いしばる。

 さて、士匄といえば、一瞬血が逆流したような激痛を覚え、やはり歯を食いしばっていた。痛みに叫ぶなどというみっともないことができるか、と悲鳴を飲み込む。むりやり文言を挿入したために山神から強烈なゆさぶりが来たのである。確かに、相手からすれば必死に呼びかけてきてくれていると喜んでいたところに、その背はここにあらず避けていけ、と気をそらされたのである。拗ねたようなものであった。士匄は口に溜まった唾を作法どおり布で拭った。見ると、唾ではなく血糊であった。士匄は舌打ちしたいのをこらえて、再び言上を続けた。

 そうして士匄の言上が続いていく。それはよどみ無いが、そろそろ時間が無いことに趙武は気づいていた。似た文言、美しいが中身のない修辞が交じりはじめたのである。趙武がことを終わらせねば、士匄が先に進められないことを示している。趙武はすでにやみくもに打つことをやめ、石が粗めの場所を注意深く削り打っていた。なんとなく、一部の小石が緩くたわんだ、ように思えた。

 ――ままよ

 趙武は思いきりその部分を蹴り飛ばした。返ってきたものは固めた壁の感触ではなく、ぐらつく動きであった。さらに、思い切り強く蹴り上げる。

「こ、の!」

 ごん、という音と共に、たった一つの石が外れ転がり落ちていった。その瞬間、山全体が、おおおおお、と大きく鳴き、迫るようであったが、趙武は怖じるしぐさひとつなく座り込み、その場で地面を掘った。袖から玉璧を出すと埋める。土を山盛りにしたあと、やはり袖から少ししおれてしまった柏をそっと挿した。

范叔はんしゅく! 終わりました!」

 わかっている! と士匄は返さなかった。それどころではなかったからである。己を祖霊と思い込んでいた山神が『びょう』を壊されたと怒り、そのまま山津波を差し向けてきている。地にぬかずいたまま、言葉をまとめていく。

「あなたさまのお家、いらぬ陰、無駄な飾りを極めれば、それはただのうわべであり質は無くなる、ゆえにこれを受くるにはくをもっていたしました。物事すべて動き続けることなどございません、必ず止まるもの。ゆえにこれを受くるにごんをもっていたしましょう、我が玉璧はいらぬ陰を陽にかえるもの。山は天あらず、地あらず、すなわち八卦はっけにて艮。あなたさまの誠実はこの山を守りましょう。あなたさまの温情は伺うものみな感謝を表すものです。あなたさまからの贄も合わせ儀を行い、我が邑は祁姓の治める地となりましてございます。これは縁切りの贄にて、あなたさまは神として再び威を取り戻してございます。正しい陰陽、正しい祀りの儀終わりましてございます。――の身にとどまる。咎なし」

 一気に言い切ると、士匄はゆっくりと体を起こした。視界に、止まった土石流が映る。全く不自然な止まりかたであった。流れ落ちている最中の全てが、そのままに動きを止めていた。

 趙武は、は、は、と息をしていた。その背に土砂が迫りぶつかっていたが、飲み込むことなく止まっている。彼は無意識に柏を守るように座っていた。目を見開いて小さな柏を見ていたら、ぼたぼたと水が落ちていった。己の涙であった。そうやってへたりこむ趙武に、士匄はゆっくりと近づいていった。

趙孟ちょうもう。終わった。わたしの不祥も消えた」

 珍しく柔らかく笑む士匄に、趙武がうわあ、と泣きながら抱きついてくる。士匄は神経が焼き切れるような繊細なことをしていたが、趙武のほうが圧迫が強く死が真後ろだったのである。泣き出すのも当然であった。

「よ、よかったあ、生きてる、私たち生きてます」

 びいびい泣く趙武を見ていて、士匄は少々呆れ、そして感心した。

「お前……そんなべしょ泣きして、鼻水まで垂らしているのに、全く崩れぬ顔だな。いや、本当に顔がきれいだな……」

「お褒め、いただき、ありがとうございます。この顔、大切にします」

 古代、見目の良さは現代以上に重要視されている。いわば、見た目で八割は判断される時代であった。趙武は子供のような号泣をして鼻水まで垂らしているのに、憂いを帯びた百合の花のような儚さだけが浮き上がっている。女性的な美しさではあるのだが、お得な顔であった。

 山鳴り全く無いまま、さあ、と静かに泥が左右を流れていった。新たな社はもちろん、士匄たちも避けて、静かに流れ、止まった。それは狂乱から静寂へ、山本来の性質に戻った姿にも思えた。神がものを言わぬそれこそを、しじまという。

「この社は略式ですから、戻ってきちんとしたものをお願いしないといけませんね」

 趙武はなんとなく早口で言った。

「あ、おう……。そうだな。それもいいかもしれん」

 士匄はその早口を無視するように、ゆっくりとした口調でごまかした。しん、と二人の間にも静寂が訪れた。すっと歩き去ろうとする士匄の袖を趙武は素早く取った。

「范叔……。私は鈍いので、きっと気のせいだと思うのですが、妙にこう、言祝がれているといいましょうか、祝福の力を感じるのです、いやデンパを受信しているわけではないのですよ、なんでしょう? 妙に、味方します、味方します、という圧があるんですけど?」

 趙武のさらなる早口に、士匄は目をそらした。そらしたが、額の脂汗が滲み出る。祟りは終わり霊障は全くないため、士匄本人の汗である。趙武は口下手なため、弁は立たない。ゆえに、早口で同じ事をくり返す、なんでしょう、これなんでしょう、この祝福の圧力はなんでしょう、ねえなんでしょう。そういったループが10回を超えた時に、士匄は観念した。

「さ、山神《さんしん》が、感謝の意を表してくださり、お前とわたしを守護なされる、そう……で」

 必死に目をそらしながら言う士匄に趙武が絶望の顔とともに胸ぐらを掴んでくる。

「それ、祀らないと祟るやつじゃないですかああああ! いや、すっごく吉祥を感じる空気がありますけど、祀らないと祟るやつじゃないですかああああ!」

「ダイジョウブダイジョウブ。父上にお願いして、君公の巫覡や卜占の方々を総動員すれば、いけるいける! 知らんけど!」

 何がどういけるのかも言わずに、士匄は乾いた声で笑った。間違った祀られかたをしたためにストーカーの地雷な神になったわけではない。元々、そういう性格だったということである。邑から切り離されたが、士匄に改めて取り憑いたわけである。ついでに趙武も巻き込まれたというわけだ。

「何が! 知らんけど、ですか!」

 趙武の右ストレートが士匄の腹を抉った。趙武は細身でたいして力無く、さらに今はへろへろである。抉るといってもほとんど威力は無い。しかし、士匄は全神経を使うような集中をもって文言を読み上げていた。一句も違えることもできず、一音も外すこともできない。ゆえに、その柔らかな衝撃も、

「おえええええええええええっ」

「いやああああっ、嘘おおおおおっ」

 士匄は思わず趙武を掴んで、思いきり嘔吐した。身長の低い趙武はまともにゲロをひっかぶった。
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