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因果応報、春の祟り
南山の寿の如く騫けず崩れず、命が大切、長く生きていたいよね
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「范叔、逃げましょう。……ここの山神は狂ってる、と思うの、です。柏の枝一本、あなたの持つ挿し木だけでなんとか、なるもんじゃ。きちんとした。祀りの、できる方を、」
山鳴り響き渡る中、ぶつぶつと呟きながら趙武が一歩ずつ後ずさっていく。その足元の土がコロコロと転がり落ち、次第に趙武の足にもさらり、さらりと暗い色の砂が転がっていった。
「バカ、来い!」
士匄は身を固くする趙武の腕を引っ張り引き寄せた。そうして、その小さな社を背に座り込む。瞬間、視界の端で立っていた木々が一気に泥の波をかぶった。ずうう、という音と共に大量の土砂が大河のような勢いで流れ、根を張っていた土ごと、どおん、と押し流していく。水しぶきのように、ざあっと土煙があがり、さらに泥がうねる。土の塊とは思えぬ凄まじい速さであった。そうしているうちに、さらさらと土が流れていく箇所が士匄たちに近づき、地をぬめるように這って土砂が滑り鉄砲水のように泥が、ど、と溢れ落ちていく。社を避け、大量の土と木と石が山腹をごうごうと削っていった。
「……ありがとうございます」
趙武が震える声で言った。士匄の腕の中で硬直したように身動き一つしない。細っこい体だな、と士匄は関係無いことを思った。そんなことを考えるくらい、彼も動揺していた。
足元から頭まで響く山鳴りは、腹の奥を冷えさせ、立つ気力も奪うような恐ろしさである。士匄は己にのしかかる不祥の重みに耐えながら考えた。趙武の言うとおり、この山神は狂っている。が、今の状況は狂っているからではなく、士匄への歓迎と脅しである。祀らねば帰さぬというわけであった。
「范叔。あの、とてもご面倒な女性と同じとおっしゃってて、その。その方は贈り物と言葉でなんとかなったのですよね? 贄と儀でなんとかなりませんか」
こわごわと趙武が問うてきた。少し期待を込めた目であった。泥の流れる音は一旦途絶えたが、いまだ山はざわついていた。
「……趙孟。お前は女を知らんのか」
士匄の質問に、趙武はほおをあからめることなく、
「はい。私は妻をまだ迎えておりませんから」
と素直に答えた。士匄は、舌打ちした。女を知らぬということに赤面をしないおぼこ、と思うと答えるのが億劫であった。が、この山神を地雷女として説明してきた己の責だと苦い顔をしながら、口を開いた。
「その女は、まあ気立ての良いはしため――と思っていたわけだが、世話を異常にしたがり、常に共にいたいと媚び願ってくる厄介な性質であった。褒美をやって遠ざけても気づけば近づき、見張ってくるようになった。追い払おうとしたら閨に忍び込んできて、一緒に死んで、と首を絞めてきたから、殺した。女に手を貸したものも罪あり、殺した」
士匄の言葉に、趙武はみるみる顔色を変え、顔を引きつらせた。
「私、范叔をここに押し込んで、儀礼して帰ろうと思いついたのに! 贄と儀で終わらないじゃないですか、それ!」
「お前! 絶対あとで泣かすぞ! おい!」
怒鳴りつける士匄の剣幕などに怖じず、趙武はガチガチと震えながら必死に考える。今、山神の社を背に――というよりは盾に――しているのだから、無事なのである。が、このままでは動く事もできぬ。趙武はこの山神がどのようなものなのか、狂っているという以外はわからぬが、祟られつきまとわれている士匄が『地雷女』と言うのだから、似たような性質なのであろう。そこまで考え、趙武はふと気づいた。
「あの……その女性は、その、理由はいまいちわからないのですが、范叔と共に死のうとなされたんですよね? ……この山神は?」
趙武の言葉に士匄はそっと目をそらした。
死なばもろとも。
最終的にそれはありえる、と士匄は察していた。現物を見るまでは荒れている祀りを仕切り直せば良い、という程度で受け止めていたのだ。まさか基盤からして間違っているとは思わず、正直途方にくれているのである。趙武は、そんな士匄の態度に、だいたいを察した。持っている柏を筆のように持ち、地面に這いつくばって図を書き出す。
「趙孟? 何をしている」
趙武が書いているのは、今目の前の山神の社である。
「この山神は祖霊として祀られ、あの邑に祖霊のつもりでまとわりついていたのでしょう。それを范叔は贄とされた。つまり、本来は山神として贄にしなきゃならないんですよね!」
「お、おう。そうだな」
「じゃあ今、これを作り替えるしかないじゃないですか! 壊して一からなんて、今の私たちに時間が無いんです! どこか、改造して! 略式でいいって范叔言ってたでしょう!」
ざっと荒く書いた社の図を叩き示して、趙武が士匄に怒鳴った。
「作り替えるなど簡単に言うな。それにこの山神は今、興奮して手がつけられん。下手なことをすればすぐ飲み込まれる」
静かに返す士匄に、趙武が睨み付けた。
「ここで息を潜めていていても飲み込まれるか飢え死にです。短い時間でできることなど限られてます。この祖霊の祀りを断ち切って、山に落ち着いて貰わないと私たちは死にます。私は死にたくないです。死ぬわけにはいかない。私がいなくなれば本当に趙氏は絶える。あなたは従弟の方がおられますね、スペアがいると気楽なのでしょうか」
最後に毒を含んだ声で言い終えると、趙武が失礼をいたしました、とさらりと付け加えた。士匄は怒らなかった。己が死んでも父はまだ生きており、また子を作れば士氏は続く。趙武の言うとおり傍系に繋げる手もある。そこは乾いた常識として士匄はわかっている。が、趙武は違う。彼がいなくなれば、家は絶える。祖も己も、存在した証さえ消える。
「お前はみっともないほどあがくが、わたしはまあ、あっさりしすぎたかもしれん」
さらりさらり、と土が流れていく音がする。そこから、どぼ、という響きとともに泥の波が山肌を削り流れ落ちていく。その、ず、ず、ず、という山鳴り地響きを身に感じながら、士匄は息を吐いた。こめかみから汗が一筋流れていった。見れば趙武も額から汗を浮かべ柏を持つ手は震えていた。
「図を見せろ。お前はどう思う」
士匄は趙武の肩に手を置き、問うた。じんわりと穢れが呼気にまざる。
「この祖霊を祀る社は古いものなだけに、今より単純な作りです。でも、きちんと門がありお眠りになるところを想定したもの。えっと。山神には我らが問う門の、この場所はいりますが、こちらの祖の、お眠りの儀は必要ないです」
趙武が図に書いた社の一部を削るように柏の枝で消した。そうして再び口を開く。
「ここを壊してしまいましょう。少なくとも、祖霊の祀りでなくなります」
「……祀りを穢されたと怒るぞ」
士匄の指摘に趙武が一旦黙ったが
「そこから祀りなおすことはできませんか」
と問い返してきた。士匄はこめかみを二、三度指で叩いて黙った。祖霊ではないと否定した上で、落ち着いてくださいと願う。邑を受けわたす儀としての贄は既に貰っているのであるから、後は過程の補強、という意味では間違っていない。ただ、落ち着かせる暇があるのか、というのはある。ず、という音と共に土が流れ、またも豪快に土石流が真横に発生し勢いよく木々をなぎ倒していった。社の両脇を少しずつ削るように近づいている。
士匄は一度だけこめかみを指で叩くと、趙武の顔をひたりと見た。
山鳴り響き渡る中、ぶつぶつと呟きながら趙武が一歩ずつ後ずさっていく。その足元の土がコロコロと転がり落ち、次第に趙武の足にもさらり、さらりと暗い色の砂が転がっていった。
「バカ、来い!」
士匄は身を固くする趙武の腕を引っ張り引き寄せた。そうして、その小さな社を背に座り込む。瞬間、視界の端で立っていた木々が一気に泥の波をかぶった。ずうう、という音と共に大量の土砂が大河のような勢いで流れ、根を張っていた土ごと、どおん、と押し流していく。水しぶきのように、ざあっと土煙があがり、さらに泥がうねる。土の塊とは思えぬ凄まじい速さであった。そうしているうちに、さらさらと土が流れていく箇所が士匄たちに近づき、地をぬめるように這って土砂が滑り鉄砲水のように泥が、ど、と溢れ落ちていく。社を避け、大量の土と木と石が山腹をごうごうと削っていった。
「……ありがとうございます」
趙武が震える声で言った。士匄の腕の中で硬直したように身動き一つしない。細っこい体だな、と士匄は関係無いことを思った。そんなことを考えるくらい、彼も動揺していた。
足元から頭まで響く山鳴りは、腹の奥を冷えさせ、立つ気力も奪うような恐ろしさである。士匄は己にのしかかる不祥の重みに耐えながら考えた。趙武の言うとおり、この山神は狂っている。が、今の状況は狂っているからではなく、士匄への歓迎と脅しである。祀らねば帰さぬというわけであった。
「范叔。あの、とてもご面倒な女性と同じとおっしゃってて、その。その方は贈り物と言葉でなんとかなったのですよね? 贄と儀でなんとかなりませんか」
こわごわと趙武が問うてきた。少し期待を込めた目であった。泥の流れる音は一旦途絶えたが、いまだ山はざわついていた。
「……趙孟。お前は女を知らんのか」
士匄の質問に、趙武はほおをあからめることなく、
「はい。私は妻をまだ迎えておりませんから」
と素直に答えた。士匄は、舌打ちした。女を知らぬということに赤面をしないおぼこ、と思うと答えるのが億劫であった。が、この山神を地雷女として説明してきた己の責だと苦い顔をしながら、口を開いた。
「その女は、まあ気立ての良いはしため――と思っていたわけだが、世話を異常にしたがり、常に共にいたいと媚び願ってくる厄介な性質であった。褒美をやって遠ざけても気づけば近づき、見張ってくるようになった。追い払おうとしたら閨に忍び込んできて、一緒に死んで、と首を絞めてきたから、殺した。女に手を貸したものも罪あり、殺した」
士匄の言葉に、趙武はみるみる顔色を変え、顔を引きつらせた。
「私、范叔をここに押し込んで、儀礼して帰ろうと思いついたのに! 贄と儀で終わらないじゃないですか、それ!」
「お前! 絶対あとで泣かすぞ! おい!」
怒鳴りつける士匄の剣幕などに怖じず、趙武はガチガチと震えながら必死に考える。今、山神の社を背に――というよりは盾に――しているのだから、無事なのである。が、このままでは動く事もできぬ。趙武はこの山神がどのようなものなのか、狂っているという以外はわからぬが、祟られつきまとわれている士匄が『地雷女』と言うのだから、似たような性質なのであろう。そこまで考え、趙武はふと気づいた。
「あの……その女性は、その、理由はいまいちわからないのですが、范叔と共に死のうとなされたんですよね? ……この山神は?」
趙武の言葉に士匄はそっと目をそらした。
死なばもろとも。
最終的にそれはありえる、と士匄は察していた。現物を見るまでは荒れている祀りを仕切り直せば良い、という程度で受け止めていたのだ。まさか基盤からして間違っているとは思わず、正直途方にくれているのである。趙武は、そんな士匄の態度に、だいたいを察した。持っている柏を筆のように持ち、地面に這いつくばって図を書き出す。
「趙孟? 何をしている」
趙武が書いているのは、今目の前の山神の社である。
「この山神は祖霊として祀られ、あの邑に祖霊のつもりでまとわりついていたのでしょう。それを范叔は贄とされた。つまり、本来は山神として贄にしなきゃならないんですよね!」
「お、おう。そうだな」
「じゃあ今、これを作り替えるしかないじゃないですか! 壊して一からなんて、今の私たちに時間が無いんです! どこか、改造して! 略式でいいって范叔言ってたでしょう!」
ざっと荒く書いた社の図を叩き示して、趙武が士匄に怒鳴った。
「作り替えるなど簡単に言うな。それにこの山神は今、興奮して手がつけられん。下手なことをすればすぐ飲み込まれる」
静かに返す士匄に、趙武が睨み付けた。
「ここで息を潜めていていても飲み込まれるか飢え死にです。短い時間でできることなど限られてます。この祖霊の祀りを断ち切って、山に落ち着いて貰わないと私たちは死にます。私は死にたくないです。死ぬわけにはいかない。私がいなくなれば本当に趙氏は絶える。あなたは従弟の方がおられますね、スペアがいると気楽なのでしょうか」
最後に毒を含んだ声で言い終えると、趙武が失礼をいたしました、とさらりと付け加えた。士匄は怒らなかった。己が死んでも父はまだ生きており、また子を作れば士氏は続く。趙武の言うとおり傍系に繋げる手もある。そこは乾いた常識として士匄はわかっている。が、趙武は違う。彼がいなくなれば、家は絶える。祖も己も、存在した証さえ消える。
「お前はみっともないほどあがくが、わたしはまあ、あっさりしすぎたかもしれん」
さらりさらり、と土が流れていく音がする。そこから、どぼ、という響きとともに泥の波が山肌を削り流れ落ちていく。その、ず、ず、ず、という山鳴り地響きを身に感じながら、士匄は息を吐いた。こめかみから汗が一筋流れていった。見れば趙武も額から汗を浮かべ柏を持つ手は震えていた。
「図を見せろ。お前はどう思う」
士匄は趙武の肩に手を置き、問うた。じんわりと穢れが呼気にまざる。
「この祖霊を祀る社は古いものなだけに、今より単純な作りです。でも、きちんと門がありお眠りになるところを想定したもの。えっと。山神には我らが問う門の、この場所はいりますが、こちらの祖の、お眠りの儀は必要ないです」
趙武が図に書いた社の一部を削るように柏の枝で消した。そうして再び口を開く。
「ここを壊してしまいましょう。少なくとも、祖霊の祀りでなくなります」
「……祀りを穢されたと怒るぞ」
士匄の指摘に趙武が一旦黙ったが
「そこから祀りなおすことはできませんか」
と問い返してきた。士匄はこめかみを二、三度指で叩いて黙った。祖霊ではないと否定した上で、落ち着いてくださいと願う。邑を受けわたす儀としての贄は既に貰っているのであるから、後は過程の補強、という意味では間違っていない。ただ、落ち着かせる暇があるのか、というのはある。ず、という音と共に土が流れ、またも豪快に土石流が真横に発生し勢いよく木々をなぎ倒していった。社の両脇を少しずつ削るように近づいている。
士匄は一度だけこめかみを指で叩くと、趙武の顔をひたりと見た。
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