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因果応報、春の祟り
遠くに行くには必ず邇きより、最初の一歩は足元から
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本日二度目の祓いを巫覡に、文句を言われながらしてもらうと、士匄と趙武は書庫の中へ足を踏み入れた。棚に整然と紐でとじられた書簡が並んでいる。その数膨大、そして壮観。書簡に圧迫される思いで部屋を見回しながら、
「何を調べるのですか?」
と、趙武は問うた。問われた士匄の背中は、ひくり、と蠢く。
「方便に決まっておろうが。こういう、かび臭い、誰も来ぬ、宮中の奥でないと、な」
士匄の声は少しずつ、震え、ひび割れていく。それは、まさに凍り静かであった河が雪解けで一気に奔流となり、氾濫していくようであった。趙武が一歩、後ずさる。
「一瞬でも! わたしを絶望させやがった、この不祥! ああ、知伯が祟りと言っていたから、祟りでよいか! 許せるか? 許せるわけないな! 我が父を襤褸のように切り刻まれる屈辱、足斬りの罪人とされる恥辱、その人生に一瞬でも絶望したわたしへの汚辱! わたしを祟り呪ったことを後悔させる、わたしを敗者として扱ったそれを、絶対に負かす、潰す、天、地、山川どこにも居場所のないほどにその念を切り刻み、とかくわたしが気が済むまで絶対にすりつぶしてやるわ!」
士匄が怨毒を帯びた怒声を部屋中に響かせた。赫怒したその姿は、溶けぬ氷と固まった雪、黄砂を含んだ泥水が一気に押し寄せ氾濫し、荒れ狂う黄河そのものである。くそ、死ね、いや死んでるわ消えろ、消し炭にする、と勢いよく罵倒する士匄に趙武が声をかけた。
「もしかして、怒りを発散するためだけに、あの、すらすらと見事なお言葉で書庫をお借りしたのですか?」
書庫を借りたいと願いでる士匄の所作は若輩としての謙譲と研鑽への求道に溢れ、落ち着いたものであった。趙武は、あの禍々しい光景を見たのは己だけだったのか、趣味の悪い白昼夢だったのか、と思ったほどである。
「九割はそうだ。あと一割は、ここが安全だからだ」
肩で息をつき、少し落ち着きはじめる士匄に、趙武が首をかしげる。その様子に士匄は思わず
「鈍い」
と呟いた。言われた趙武は薄い笑みを浮かべると
「……申し訳ございません。私は経験浅い若輩にて、鈍いのです。范叔は毎日色々な方を受け入れて反応鋭くユルユルでございますもの、極めて経験豊富でものごともよくご存じでおられる。このたびは范叔のお導きにより政堂に不祥が起きるという経験をさせていただきました。今後も日々精進してまいりたいと思いますが私は非才かつ鈍才でございます。正卿が范卿の首を切り落としたり、范叔の脚が斬られたり、政堂が阿鼻叫喚、そしてここが安全ということをこの鈍い若輩にお教え頂けませぬでしょうか」
と、棘を含んだ声で言った。柔和な物言いにならないところが、若さというものである。士匄は、趙武の不快と埋み火のような怒りに気づき、咳払いをして、いや、うん、とどもったあと、
「言い過ぎた、悪かった」
と小さく呟く。ここで謝ってしまうところに、この若者のかわいげというものがあり、趙武も、いいですよ、と笑みを浮かべて失言を許した。
「宮中、つまり公室の書庫は記録と知恵と知識の財であり、また、卜占の結果も保管している。これらは元々天に盟い地に祈って作られているのだから、ここにあるもの自体が不祥を寄せ付けぬ。そして、それを守るための祀りもされている。宮中で最も清浄なのはもちろん君公のおわす室であり、次は君公と卿がまつりごとされる政堂だ。が、この書庫はその次に清浄であり、しかも閉じられているため守りが固い。ゆっくりお前と話せるというものだ。まさか、あそこまでする祟りとは思わなかったぞ」
「あのような幻覚を見せてくるとは、陰湿です」
趙武が士匄の言葉に頷く。が、士匄は首を振った。
「あの場では幻であり、我らは同じ夢を見たようなものだったろう。が、あれは警告だ。わたしを祟り続け、あのようにする、という未来を見せた。正卿は我が父を疎み政敵として粛正する。族滅はせぬが嗣子は脚斬りの罪人として見せしめとする」
「そんな先があるわけございません。正卿は思慮深いお方です。范卿を賢人の一人として耳を傾けていること、みな知っております。それに……韓主が他の卿を殺しておりました。状況からするに、正卿に味方されたのだと思いますが、韓主は血腥い政変に手を貸すかたではない。あの方は、公事で誰の味方もなされない。ただ、国のためだけに考え動くお方です。あんなの、絶対に、無い」
士匄は趙武の泣きそうな顔を見て、そうだな、と呟いた。趙武は十五才で趙氏が許されるまで、隠され生きていたという。それまでの人生を士匄は全く知らぬ。後見人の韓厥に対して、父のように思っているのであれば、確かにあの幻覚を未来のものだと言われたくないであろう。
「あの光景そのままが現れるとは私も思えん。あまりに戯曲的だ。が、物事が祟りにより歪み、父が粛正され韓主がその粛正に手を貸すような政変が起きるという脅しだ。ち。己の地だと言うから儀に入れて贄にしてやったというのに、何が不満なのだ」
腕を組み、鼻を鳴らす士匄に、趙武がしらけた目を向けた。
「己の主張をまともに聞いて貰えず、殺されて贄にされれば誰だって不満だと思います、普通祟るものでしょう」
そこまで言って、趙武は首をかしげ、少し考える。
「……あ。知伯は范叔は正しいとおっしゃってましたね。贄にするのは正しいのだと。でも、手順を間違えていると……。ねえ范叔。その邑は周から見れば飛び地、我が晋の邑が点在する場所にあるのですよね?」
趙武の問いに、士匄は頷き、場所を詳しく説明した。そのひとつひとつを丁寧に頷きながら聞き終わった趙武が再び口を開いた。
「周の大夫自身が嘘をついていたわけではないかもしれませんが、失念があるかもしれません。つまり、邑を最初に祀った人々や時期のことです。そのあたりは元々晋の領土ではございませんでしたが、多くの邑を保護されて、晋の国土になったと伺っております」
簡単平易に言えば力づくで併呑した、である。それはさておき、趙武の言葉は続く。
「周囲の邑を詳しく調べれば、問題の邑のことも察せられるのではないでしょうか。そうすれば、范叔が何を間違えたのか、その贄になった方が何を求めてらっしゃるのか、わかるかもしれません。ここは書庫です、ちょうどよいですね」
言いながら、趙武が書庫の奥を指し示した。そこには晋の邑について細々記された書が大量に並んでいる。士匄はうんざりした顔を隠さず、うえ、と呻いた。
「あの近くの邑といっても、一つ二つというわけではないのだぞ。大邑、小邑、全て調べると言うのか。いくつあると思っているのだ、わからねば徒労ではないか」
心底嫌がっている士匄に、趙武がやるのです、と強く言った。
「范叔が死ぬまで毎日雑多な鬼が憑くくらいでしたら私だってどうでもいいです。しかし、晋の大事に繋がるというのであれば別です。きちんと、丁寧に調べていきましょう。それで何もわからないのであれば、次を考えれば良いではないですか。この書庫ではわからなかった、ということが一つわかります。さ、やりますよ。せっかくお借りした書庫です、きちんと使います。ほら、だれない、面倒って顔しない、階段は一歩一歩登るしかございませんでしょう、一足飛びに最上段には登れないんですから。はい、ファイト、オー!」
趙武が握り拳を作り、上に掲げて見上げてくる。士匄は身をよじって顔をそらしたが、見上げてくる趙武の圧が強い。
「ふぁいと、おー……」
見た目によらず体育会系のノリが苦手な士匄は、諦めた顔で、拳を作り掲げ、言った。趙武が満足げな笑みを浮かべながら、はい、やりますよ、と書庫の奥へ歩いて行く。士匄はしぶしぶ後ろをついていった。
「何を調べるのですか?」
と、趙武は問うた。問われた士匄の背中は、ひくり、と蠢く。
「方便に決まっておろうが。こういう、かび臭い、誰も来ぬ、宮中の奥でないと、な」
士匄の声は少しずつ、震え、ひび割れていく。それは、まさに凍り静かであった河が雪解けで一気に奔流となり、氾濫していくようであった。趙武が一歩、後ずさる。
「一瞬でも! わたしを絶望させやがった、この不祥! ああ、知伯が祟りと言っていたから、祟りでよいか! 許せるか? 許せるわけないな! 我が父を襤褸のように切り刻まれる屈辱、足斬りの罪人とされる恥辱、その人生に一瞬でも絶望したわたしへの汚辱! わたしを祟り呪ったことを後悔させる、わたしを敗者として扱ったそれを、絶対に負かす、潰す、天、地、山川どこにも居場所のないほどにその念を切り刻み、とかくわたしが気が済むまで絶対にすりつぶしてやるわ!」
士匄が怨毒を帯びた怒声を部屋中に響かせた。赫怒したその姿は、溶けぬ氷と固まった雪、黄砂を含んだ泥水が一気に押し寄せ氾濫し、荒れ狂う黄河そのものである。くそ、死ね、いや死んでるわ消えろ、消し炭にする、と勢いよく罵倒する士匄に趙武が声をかけた。
「もしかして、怒りを発散するためだけに、あの、すらすらと見事なお言葉で書庫をお借りしたのですか?」
書庫を借りたいと願いでる士匄の所作は若輩としての謙譲と研鑽への求道に溢れ、落ち着いたものであった。趙武は、あの禍々しい光景を見たのは己だけだったのか、趣味の悪い白昼夢だったのか、と思ったほどである。
「九割はそうだ。あと一割は、ここが安全だからだ」
肩で息をつき、少し落ち着きはじめる士匄に、趙武が首をかしげる。その様子に士匄は思わず
「鈍い」
と呟いた。言われた趙武は薄い笑みを浮かべると
「……申し訳ございません。私は経験浅い若輩にて、鈍いのです。范叔は毎日色々な方を受け入れて反応鋭くユルユルでございますもの、極めて経験豊富でものごともよくご存じでおられる。このたびは范叔のお導きにより政堂に不祥が起きるという経験をさせていただきました。今後も日々精進してまいりたいと思いますが私は非才かつ鈍才でございます。正卿が范卿の首を切り落としたり、范叔の脚が斬られたり、政堂が阿鼻叫喚、そしてここが安全ということをこの鈍い若輩にお教え頂けませぬでしょうか」
と、棘を含んだ声で言った。柔和な物言いにならないところが、若さというものである。士匄は、趙武の不快と埋み火のような怒りに気づき、咳払いをして、いや、うん、とどもったあと、
「言い過ぎた、悪かった」
と小さく呟く。ここで謝ってしまうところに、この若者のかわいげというものがあり、趙武も、いいですよ、と笑みを浮かべて失言を許した。
「宮中、つまり公室の書庫は記録と知恵と知識の財であり、また、卜占の結果も保管している。これらは元々天に盟い地に祈って作られているのだから、ここにあるもの自体が不祥を寄せ付けぬ。そして、それを守るための祀りもされている。宮中で最も清浄なのはもちろん君公のおわす室であり、次は君公と卿がまつりごとされる政堂だ。が、この書庫はその次に清浄であり、しかも閉じられているため守りが固い。ゆっくりお前と話せるというものだ。まさか、あそこまでする祟りとは思わなかったぞ」
「あのような幻覚を見せてくるとは、陰湿です」
趙武が士匄の言葉に頷く。が、士匄は首を振った。
「あの場では幻であり、我らは同じ夢を見たようなものだったろう。が、あれは警告だ。わたしを祟り続け、あのようにする、という未来を見せた。正卿は我が父を疎み政敵として粛正する。族滅はせぬが嗣子は脚斬りの罪人として見せしめとする」
「そんな先があるわけございません。正卿は思慮深いお方です。范卿を賢人の一人として耳を傾けていること、みな知っております。それに……韓主が他の卿を殺しておりました。状況からするに、正卿に味方されたのだと思いますが、韓主は血腥い政変に手を貸すかたではない。あの方は、公事で誰の味方もなされない。ただ、国のためだけに考え動くお方です。あんなの、絶対に、無い」
士匄は趙武の泣きそうな顔を見て、そうだな、と呟いた。趙武は十五才で趙氏が許されるまで、隠され生きていたという。それまでの人生を士匄は全く知らぬ。後見人の韓厥に対して、父のように思っているのであれば、確かにあの幻覚を未来のものだと言われたくないであろう。
「あの光景そのままが現れるとは私も思えん。あまりに戯曲的だ。が、物事が祟りにより歪み、父が粛正され韓主がその粛正に手を貸すような政変が起きるという脅しだ。ち。己の地だと言うから儀に入れて贄にしてやったというのに、何が不満なのだ」
腕を組み、鼻を鳴らす士匄に、趙武がしらけた目を向けた。
「己の主張をまともに聞いて貰えず、殺されて贄にされれば誰だって不満だと思います、普通祟るものでしょう」
そこまで言って、趙武は首をかしげ、少し考える。
「……あ。知伯は范叔は正しいとおっしゃってましたね。贄にするのは正しいのだと。でも、手順を間違えていると……。ねえ范叔。その邑は周から見れば飛び地、我が晋の邑が点在する場所にあるのですよね?」
趙武の問いに、士匄は頷き、場所を詳しく説明した。そのひとつひとつを丁寧に頷きながら聞き終わった趙武が再び口を開いた。
「周の大夫自身が嘘をついていたわけではないかもしれませんが、失念があるかもしれません。つまり、邑を最初に祀った人々や時期のことです。そのあたりは元々晋の領土ではございませんでしたが、多くの邑を保護されて、晋の国土になったと伺っております」
簡単平易に言えば力づくで併呑した、である。それはさておき、趙武の言葉は続く。
「周囲の邑を詳しく調べれば、問題の邑のことも察せられるのではないでしょうか。そうすれば、范叔が何を間違えたのか、その贄になった方が何を求めてらっしゃるのか、わかるかもしれません。ここは書庫です、ちょうどよいですね」
言いながら、趙武が書庫の奥を指し示した。そこには晋の邑について細々記された書が大量に並んでいる。士匄はうんざりした顔を隠さず、うえ、と呻いた。
「あの近くの邑といっても、一つ二つというわけではないのだぞ。大邑、小邑、全て調べると言うのか。いくつあると思っているのだ、わからねば徒労ではないか」
心底嫌がっている士匄に、趙武がやるのです、と強く言った。
「范叔が死ぬまで毎日雑多な鬼が憑くくらいでしたら私だってどうでもいいです。しかし、晋の大事に繋がるというのであれば別です。きちんと、丁寧に調べていきましょう。それで何もわからないのであれば、次を考えれば良いではないですか。この書庫ではわからなかった、ということが一つわかります。さ、やりますよ。せっかくお借りした書庫です、きちんと使います。ほら、だれない、面倒って顔しない、階段は一歩一歩登るしかございませんでしょう、一足飛びに最上段には登れないんですから。はい、ファイト、オー!」
趙武が握り拳を作り、上に掲げて見上げてくる。士匄は身をよじって顔をそらしたが、見上げてくる趙武の圧が強い。
「ふぁいと、おー……」
見た目によらず体育会系のノリが苦手な士匄は、諦めた顔で、拳を作り掲げ、言った。趙武が満足げな笑みを浮かべながら、はい、やりますよ、と書庫の奥へ歩いて行く。士匄はしぶしぶ後ろをついていった。
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