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七夜 空桑(くうそう)の実

七夜 空桑の実 1

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 目を開けているのも辛いような、眩しい白さの空間だった。
 壁も、床も、天井も、光りも、全て白く、広さや距離感を、掴めなくしている。
「くぅっ!」
 その空間で、声が上がった。
 美しい少年の零した、苦鳴である。
 全身、余すところなく血に塗れ、白いだけの空間に、夥しい血溜まりを、作っている。
 苦鳴は何度も、上がっていた。
 その度に少年は、何かに弾き飛ばされるように、後ろに吹き飛び、またはうずくまり、体を折り曲げ、端麗な面貌をきつく歪めた。
 さらさらとした黒髪にも血の滴が絡まり、蒼白い面貌にも血の筋を幾つも滲ませて、いる。
 体の傷は、すでに数えていられない。もう満足に立つことも出来ないのか、膝を震わせ、肩で激しく息をついている。
「もうやめてください、黄帝様! このままでは、舜が――」
 その様子を見兼ねたのか、空間の傍らに立つ青年が、声を上げた。
 叫びにも似た、懇願である。
 何しろ、この凄まじい責め苦は、もう一週間にも渡って、片時の休みもなく続いているのだ。
 空間の真ん中で、その責め苦を受けているのは、十六、七歳の少年であった。
 名を、舜、という。
 夜の精霊としか見えないような人には持ち得ない麗容を有し、神秘的な射干玉の瞳を、より透明感溢れるものとして、際立たせている。まだ少年らしい華奢な四肢も、小さく整った輪郭も、全身を染める血のせいか、壮絶とも呼べる美を、放っている。
 黄帝、と呼ばれた青年の方も、また然り。人外の麗容をその身に備え、人が持ち得ない独特の雰囲気を有している。
 足首まで届きそうな長い銀髪も、夜そのもののような漆黒の瞳も。
 月の神の如き玲瓏な青年、であった。
 年の頃をいうなら、二七、八歳であろうか。
 だが、それが、その青年の実際の年齢であるとは、思えない。この世が天と地に分かたれた太初から存在していた、といわれたところで、何の不思議もない青年なのだ。
 美しすぎる、という言葉を使ってもいい。この世に存在できる美ではあり得ないのだ。
 肌には、銀色とも、紫色とも見える、前合わせの衣を纏い、暁色の帯と、蹲る螭(みずち)を連ねた珠玉の首飾りで、彩っている。
 いつの時代のものなのかも判らない装いである。
 その姿で、背凭れの高い――やはり白い椅子に腰掛け、のんびりと本のページを捲っているのだ。時折、指先を軽く動かしながら。
「お願いします、黄帝様。舜を……」
 栗色の髪の青年は、変わらず苦鳴を上げ続けている少年を見て、同じ懇願を繰り返した。
 この青年は、先の二人とはやや雰囲気が違う。アジアの血が四分の一、混じっているとはいえ、アメリカ人である、ということもあるだろうし、どこか人間じみたものを持ち合わせているのだ。
 名を、デューイ・マクレー、という。
 年の頃は、二五、六歳であろうか。ウェーブの掛かった栗色の髪を肩まで伸ばし、琥珀色の優しげな瞳に、人の善さを映している。
 服は、舜と同じに、普通の現代的なものである。秋らしいベーシックな――いや、舜の場合、それはすでに血の色に染まっているが。
「くうっ!」
 また、何かに弾き飛ばされるような、苦鳴が、上がった。
「黄帝様――」
「うーん……。もう少し待ってください。このページを読んでしまいますから」
 デューイの逼迫した声とは裏腹、のんびりとした口調で、玲瓏な月神、黄帝は言った。 自分の息子が血塗れになっている、というのに、気にも留めずに、そう言ったのだ。
 それに、さっきから、舜の方など見もせずに、ずっと本を――各国の週刊誌を読み耽っている。――この一週間、ずっと。
 テーブルの上には、そんな週刊誌の山が、崩れそうで崩れない形で、積んであった。
 その様子を見ただけでも、この青年、ただものではない。どう見ても、変わっている。
「黄帝様、もうこれ以上は無理です! 舜は、避ける力も残っていなくて――」
 この青年だけが、唯一、普通の考えを持っているようである。彼らを人間とするなら。
「おや、そうですか? 私には、何とか、急所だけは外しているように見えますが」
「え……?」
 デューイは、その黄帝の言葉に、血塗れの舜へと、視線を向けた。
 だが、デューイごときに、黄帝の放つ、数ミリの氷刃が見えるはずも、ない。
 それでなくても、白いばかりの空間で、目を開けていることもやっとの眩しさなのだ。距離感が掴めないことはもちろん、そのスピードさえも測れない。
 もとより、黄帝の放つ氷刃は、目にも止まらぬ早さで駆け抜けているのだ。しかも、その氷刃を放っている黄帝は、週刊誌を読むばかりで、舜など少しも見てはいない。
 それでも彼は、放っているのだ。わずかに指を動かすだけで、この一週間、休むことなく、無数としかいえない数の氷刃を。
 何という恐ろしい青年なのであろうか。その惚けた口調からは、想像もつかない力である。
 しかし、その麗しい面貌からは、想像し得たことであろう。それほどの美しさを持つ存在は、人間ではないのだ、と。


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