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二章
16話【退廃の味】
しおりを挟むレインは頭を振る。とうとう目までイカれたか。大昔の出来事を思い出すどころか、幻視している。恰も目の前で繰り広げられてるかの如く、当時を目撃した。
湿地の粘ついた湿気や、水飛沫まで確かに感じたのだ。
これが極度のストレス、又は睡眠不足による幻覚だとしてもタチが悪い。
今度は右側に少年が蹲っていた。先程より少し成長している。場面は移り変わり、そこはスペトラード伯爵家の庭だった。真新しい調度品が目に付く。
ダリアの花が咲き誇る花壇の脇に、召使の少年はしゃがみ此方に背を向けている。
レインは奴隷商に売られ、帝国に流れた。
人間の子供は比較的売れやすい。直ぐに買い手が現れ、商談は円滑に進んだ。
帝国の子爵貴族に売られたレインは、まず礼儀作法を叩き込まれた。
言葉を間違えると手鞭で叩かれ、失敗すると杖で脛を小突かれる。度を超えた熱心な教育により、完璧な礼儀作法を覚えるのに時間は掛からなかった。
そして転機が訪れる。
当時仕えていた子爵家が、伯爵夫人の懐妊祝いに献上品としてレインを差し出したのだ。
奴隷として使い潰しにされると身を縮めたが、マルグリットはその様な事はしなかった。
「レイン」
優しい声が響く。燃えるような赤毛の、髪の長いドレス姿の女性が歩いて来た。
「何をしているのです?」
凛とした淑女は屈み込む少年に尋ねる。彼は「小鳥が…」と困った顔をした。
見れば1羽の鳥がレインの掌でもがいている。
『申し訳ありません、マルグリット様…。飛べるようになるまで、面倒を見ても宜しいでしょうか』
窺いを立てる少年に、伯爵夫人は「レインは優しい子ですね」と目を細めた。
“優しい子”。
両親がそう願い、名付けた本源。
慈雨のように優しくあれ。いつしかそれはレインを縛る呪いになった。
優しく在らねばならない。
身を挺して庇い、生かしてくれた両親の為にも。
2人が願った通りに、2人のようにいつでも謹厚に、懇切に、柔和に。
レインは目立ちたがり屋で恐れ知らず、活発な性格から、穏やかでひたすら優しい青年に成長した。
朝日に溶けてしまう程に存在が希薄。それは奴隷の彼が身を守る為、無意識に気配を殺していたからに他ならない。
レインは自我を晒さないし、話さない。属性を隠すがあまり秘密主義が身に付いた。
悟られぬよう常に気を張っている。しかしそれを微塵も、態度に出したりしない。
どんな時も笑って愛想を忘れず、一歩引いて見ていた。それは謹厚に似た、ただの自己防衛だった。
世界が音を立てて砕ける。
足元が崩落し、暗闇の中に落ちた。砕けた世界の破片と共に下へ下へと堕ちていく。
フと気付けば、また悪辣な貯蔵庫へ戻っていた。
いつの間にか眠って、夢でも見ていたのかと思い返す。満開に咲くダリアの香りが、まだ残っている気がした。
今度は、レインが座っている左側で物音がした。顔を向ければあの少年が、また花壇の脇で座り込んでいる。
小さな背中が頻繁に動いて、懸命に何かをしていた。
暫く考え、レインは立ち上がった。少年の横に並び、彼の手元に視線を落とす。レインには少年が何をしているのか、見る前に既に分かっていた。
小箱に花が敷き詰められ、その中に小鳥が入っていた。献身的な看護も虚しく、小鳥は命を落としたのだ。
少年は鳥の為に墓を作っていた。
『優しくして何か得られたか?』
レインが少年に向けた言葉は、自分でも驚く程に冷めていて鋭利だった。
「何かを得たくてしてるんじゃないんだ。これは、…2人が望んだ事だから」
穴を掘る手は止めず、少年は小さく笑う。
『馬鹿か?それを口癖にしていた2人の最期を見た筈だ。尽くしていた村に密告された。奴らに殺されたようなもんだ』
「見返りを求めてるんじゃないよ。これは、僕の自己満足さ」
哀愁満ちた様子で箱を撫でて、少年は掘った穴に小箱を入れた。
土を被せている小さな身体を、多少の苛立ちを覚えて見ていると、世界が割れる。
非現実的な光景。見ている全てが粉々に砕ける。少年は勿論、鳥の死骸や囲む花々、噴水など順番に崩れ去って暗闇に飲まれていく。
目を開くと、そこは屋敷の廊下だった。その通路を今までに何度も往復した記憶が蘇る。
近くで諍いの声が聞こえたので、足は自然にそちらを向いた。物置の中から激しい物音がする。
「奴隷が!貴様など生きてる事が国の汚点だ!」
同世代の使用人に囲まれた少年が、尻餅を突き頬を抑えていた。殴られたようだ。
少年は「申し訳ありません…」と力無く謝る。
「奴隷の癖にマルグリット様の召使だと?俺達を差し置いて…ふざけるな!」
「申し訳ありません…」
がなり立てる召使たちに対し、額を地面に付けて頭を垂れた。その顔に唾を吐き掛けられる。
「思いあがるなよ愚民が…貴様はその顔で床を掃除しているのがお似合いだ」
上等な革靴で頭を踏まれる。その様はあの日――団長に食い下がった日を彷彿とさせた。
「縮こまって生きていけ!」
「奴隷は奴隷らしく肥溜めでも攫ってろ」
「魔法の1つも使えねー癖に!」
少年が袋叩きにされている様子をすぐ近くに座り、頬杖を突いて静観する。
誰もレインに気付かない。当たり前だった。あの時、他には誰も居なかったのだから。
殴られ、蹴られる度に押し殺したような声が漏れた。
疲れた使用人達が散った後、虫の息の少年に声を掛ける。
『ホラ、弱ければ淘汰されるだけだ』
搾取されている今の自分のように。
「…、でも……きっと」
少年の口が小さく動いた。
彼の考えている事が手に取るように分かる。いつか分かり合えると、まだ希望を持っている少年の思考に嫌気がさした。
無性に苛立って目の下が痙攣する。
『正しい解を愚かなお前にくれてやる。全ての答えは今の俺だ』
小さな少年は腫れ上がった顔でレインを見上げた。
『ホラ、無様に這いつくばって目の奥の俺を見ろ』
青年は、倒れる少年の目を無理矢理こじ開けて、双眸を覗き込む。
ガラス玉のような琥珀に、血塗れで椅子に座る男が映り込んだ。
『この世は弱肉強食だ。弱ければ死ぬか、尊厳を踏み躙られる。慈悲を期待しても無駄だ。救いは無い。優しさなんて、何の意味も無い』
身をもって体現していた。少年の腫れた目から一筋涙が零れる。
世界が歪んだ。
辺りが闇に飲まれ寸分の光も届かない。空気の中を揺蕩うような感覚。闇に包まれているのか、それとも自分自身が闇なのか境界が分からなくなる。上も下も左右もない。あるのは広がる漆黒だけだ。
急に、存在を引っ張られる。無かった身体が形成され、気付けば自室に立っていた。
屋敷の中に与えられた居場所。元々物置きだった部屋を改築して作られた、彼の心の安らぎ。
自室を与えられた。まるでそれは此処に居ても良いと、必要なのだと言われているようで…。
「げほ、げほ」
ベッドに横たわる青年は苦しそうにしている。肌は汗ばみ、顔が赤い。サイドテーブルに乗った洗面器には吐血の跡が窺える。
主人の毒味で死に掛けている青年を一瞥したレインが、無遠慮にベッドに腰掛ける。使い古された薄くて固いマットレスは重さも吸収しない。
『気が済んだか?周りにどれだけ優しくしても、お前が死に掛けてる時には誰も優しくしてくれない』
「はぁ、…はぁ…。良いんだ。僕がしたいだけなんだから」
薄弱の笑みを浮かべる。それを聞いたレインは舌打ちをした。
『お前は偽善の塊だ。虫唾が走る』
「…」
嫌悪感に眉を寄せ、立ち上がる。
その途端、瞬き程の刹那の間に再び場所が変わった。
扉が並ぶ客人用のトイレ。小窓の近くにバケツと箒が置かれている。
目前に、掃除に精を出す青年の後ろ姿があった。
「頑張っていればきっと」
『無駄だ』
「いつか」
『お前が何をしても』
「生きてる意味が見つかる」
『報われない』
吐き捨てると、青年がゆっくりと立ち上がり此方を振り返る。レインを真っ直ぐに見詰め、微笑みを浮かべていた。
「奴隷でも幸せになれる」
あの時、母が泣きながら紡いだ言葉を鮮やかに思い出す。
いつか幸福に満たされたいと願う、忌々しい考えに吐き気を催す。レインは髪を揺らし、直ぐに『黙れ』と言い捨てた。
「居場所があるだけで充分だ」
『そんな物はない。ただのまやかしだ』
知っていた。自室を与えられたのは体裁を整える為だと。
毒素を取り込んだ際、他者に感染らぬようにとられた措置なのだと。…知っていたのだ。
『言っただろう?お前には何の価値もない』
「…」
初めて、青年が悲しげな表情をする。
『散々奪われて嘲られて、終いには蝿と蛆に塗れて死んでいくのさ』
「…」
『お前は全てを受け入れて大人しくくたばるのか?』
世界がバキバキと音を立てて罅割れた。
崩れたそこから現れたのは、蠅と蛆、ゴキブリが蔓延るあの地獄。
襲い来る腐臭と死臭に頭が冴え渡る。
「君は強欲で醜悪で、本当に僕にそっくりだね」
小さな少年が目の前に居た。今までの柔和な笑みではなく、嗤笑が張り付いている。
『当たり前だ』
「僕は君で、」
『俺はお前だ』
レインの首に手を回した少年の体温を確かに感じた。抱き付いて来た少年の背を撫でる。
『後は全部俺が引き受けてやる』
「君は優しいね。…でも忘れたの?僕は君だ」
『…』
「全てを壊して踏み越えて、その先に何があるの?」
少年は問い掛けた。
『…自由だ』
レインの答えに瞠目する。そして静かに笑って、吐息した。
「…嗚呼、そうだね。それこそ僕達が求めていたモノだ」
遠い昔に失ったモノ。諦めていたモノ。
『俺は、俺を支配しようとする奴らには容赦はしない。邪魔する奴らは皆殺しにして喰らい尽くしてやる』
自由に焦がれていた彼が出した解。
『だから、もうお前は休め』
最後に少年に目を向ける。背を撫でていた手が頭へ移動し、髪を引き掴む。
レインは少年のか細い首に噛み付き、その肉を貪った。生温かい血液が迸り、顔を汚す。咀嚼される少年はいつまでも微笑みを携えていた。
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