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二章
17話【ハロー】
しおりを挟む亡者の死体に鼠が群がる。鋭い前歯で皮膚を破き、肉を噛みちぎる。後は血の匂いに刺激された同胞が傷口を広げていく。肉の奥へと潜り込み、皮膚の下を這い回る。室内に充満する濃厚な血の香り。
不快な羽音は絶え間なく鼓膜を揺らす。大量の蠅が身体中を闊歩していた。
暗い室内に光が差した。扉が開いてレインの足元を照らす。
「まだ生きているかね?」
現れたのはジャミルだ。蠅に塗れた貯蔵庫に足を踏み入れる。驚いた大蜘蛛が道を開けた。
レインは項垂れたままピクリとも動かない。ただ静かに呼吸していた。
極度のストレスか毒肉の影響か、母親譲りのハニーブロンドの髪は真っ白に変わっていた。逆光に輝く卯の花色の頭髪に表情が隠れている。
小鳥のような小さな鼓動が聞こえる。ジャミルは微かな違和感に眉を寄せたが、気に留めはしなかった。革靴で太った蛆をブチブチと踏み潰していく。
「今日は話があって来たのだ」
『…』
髭を撫でる吸血鬼は話があると言う。青年の返事も待たないまま、手を広げて鷹揚に話し始めた。
「よく考えたのだ。貴殿の血をこのまま搾り取るのは正しい選択なのかとね」
『…』
「一時は満たされるだろう。だが、この味を知って今後他の輩の血に我輩の舌が満足出来るか否か。貴殿を家畜として殺す選択を、いつか後悔するのではないかと」
ジャミルが歩を進める。
「青年の血は最早芸術だ…我輩が作り上げた最高の傑作なのだよ!」
『…』
「だから…我輩は貴殿に関しては考えを改める事にしたのだ。人間は弱く愚かで我輩に食を提供する事しか出来ない無能だと思っていたが、今の青年は違う。我輩に大いなる喜びと驚きを齎してくれる唯一の人間だ!」
役者のように大袈裟な仕草。
感極まったジャミルは早口に舌を回す。
「貴殿には吸血鬼となって、生涯その身を捧げてもらおう。青年も死にたくない筈だ…悪い話ではないだろう?」
吸血鬼は不死身に等しい肉体を持つ。
優れた聴覚、暗闇を見通す視覚、抜きん出た肉体能力、首を斬られても治癒する自己回復能力。
「貴殿は従者の経験があると言っていた。今後、我輩に誠心誠意尽くしてくれたまえ」
レインの肩に両手を乗せる。横目に見た彼は事切れているかのように全く動かない。度重なる猛毒の摂取により限界を迎えているのかもしれない。
吸血鬼が獲物の精神状態を見極める優秀な聴力が、レインの心臓の音を捉えている。問題は無い。
ジャミルは青年のワイシャツを裂き、鎖骨を露わにした。聞こえる脈動に舌舐めずりをする。
彼の牙が鋭く発達し、吸血鬼の凶悪な本性が露出した。
首元に噛み付こうとしたその瞬間レインが動いた。不用意に近付いたジャミルの首に歯を突き立てる。
完全に油断していた。まさか青年に反逆の意思が残っているなど思いもしなかった。
咄嗟に身を引き、レインの顎から逃れたジャミルは目を見開いて青年を見る。
「ッ――…」
『ペッ…!』
首の肉を喰い千切られた。青年は肉塊を地面に吐き捨て、『クッソ不味ぃ…』と一言。
ゆっくりと顔を上げた彼の前髪が分かれ、やっと表情が現れた。目尻を下げ口が裂けた穏やかな嘲笑。
『ははっ…動脈を喰い破ってやろうと思ったんだが…』
目と耳を疑った。深淵から聞こえて来る、腹の奥を震わす威圧感のある声。毒肉を前に涙を溢して懇願していた青年の面影はない。
鋭利なナイフのような眼光、薄ら笑いを浮かべる唇。
血にばかり気を取られていたが、身体も以前の印象とは違う。僅かに筋肉が発達しているように見えた。
『よぉ、…ジャミル』
邪悪な微笑みで、拘束されていた筈の手をヒラヒラと振る。腕を喰んでいたロープは解け、血が染み込んだそれが彼の足元に転がっていた。
口元に滴るジャミルの血液を、指で拭う。
ジャミルは「ふむ…」と首を傾けた。血液が泡立ち傷口を覆うと、瞬く間に皮膚が再生し、首の咬み千切られた跡が消える。
先程の違和感の正体を理解した。今のレインの心臓の鼓動は静か過ぎる。弱っているからだと思った。疲労と血の提供により虫の息なのだと。
不遜な態度で椅子に腰掛ける青年。弱っている?
――とんでもない。僅かな乱れもなく等間隔に脈打つ鼓動から読み取れるのは平常心。彼はジャミルの来訪、発言に微塵の恐怖も動揺もしていない。
読み取れるのは寧ろ逆の――…。
彼は何だ?得体が知れない。
「…我輩は見誤っていた?…いや、気が触れたのか…?」
貯蔵庫に入れた人間は数日で壊れる。精神を病み幻覚と幻聴に悩まされ、発狂するのは毎度だ。足元を這い回る害虫や鼠、蛆に身体を蝕まれていく恐怖。貧血や栄養失調、睡眠不足、衰弱していく身体…常時緊張状態が続き疲弊していく。
性格が歪むなどよくある事。自我を保っているだけでも彼の精神は強靭だ。
だが、身体の変化は説明が出来ない。痩せる事はあっても、この環境下で筋肉が付くなどある訳がない。
血液の味が変わる特異な彼の体質と関係がある…?彼のアビリティは毒物を摂取しても体内で解毒できるだけかと思っていた。まだ他に何か…。
「…マリアーナ、ジュリエーナ」
2人の見解を聞きたくて呼び付けた。
「…?」
いつもなら瞬時に姿を見せる。しかし暫く待っても一向に2人は現れない。
『ぷっ…く、っくっ…』
レインが我慢出来ないといった素振りで肩を揺らし始めた。
青年に気を取られて気付かぬフリをしていたが、腐臭に混じって血の匂いがする。
「…2人は何処だ?」
『さぁ…』
頬杖を突いて唇で綺麗な弧を描く。次に扉横の壁を指差した。開いた瞳に無邪気な悪意が宿る。
『その辺で鼠に集られてんの、誰だぁ~?』
壁際に肉塊があった。他の亡者と比べても死後、それ程時間が経過していない。血は完全に乾いておらず、テラテラと光っている。
上半身の原形は留めていない。縫合跡のある白い肌の上で大量の蠅が踊り狂っている。
「……マリアーナ…」
『え、こんなんでも見分けつく?』
瓦礫に埋もれており、尚且つ損傷が目立つ。肉塊と言っても間違いじゃない。加えて彼女達の背丈や容姿は瓜二つだ。
レインは感心して口笛を吹いた。
「ジュリエーナは何処だ?」
『ん』
短く返事をして今度は天井を指差す。こびり付く赤黒い塊があった。
「……なるほど」
2人とも既に惨殺されている。人の形を留めていられない程の激しい衝撃に見舞われたのか、遺体が損壊していた。
口振りと状況を鑑みても、青年が関与している。
「…貴殿にそんな力が…?一体どうやって…」
『くっくっく…はは アハははハッ!』
突然大口を開けて笑い出したレインは、シミと黴だらけの天井を仰いだ。伸びた髪を掻き上げ身体を揺らして豪快に声を発する彼に漂うのは譫妄。
『お前には感謝してる。血にしか興味の無ぇクソッタレで助かった!ハハ …じゃなきゃ吐く程不味い肉を人様の口に何度も捩じ込まねえもんなぁ!?』
原理は不明。だが魔物の毒肉を摂取する事によって引き起こされた現象なのは間違い無い。
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レインはその苦しみを何度も味わっていた。何度も死の淵を彷徨い、朦朧とする意識の中で採血をされた。
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それだけ分かっていれば、良い。それだけで充分だ。
力が湧いてくる。ドロドロと粘着質で目を覆いたくなる程に醜悪で、他の何よりも強烈な感情が彼を支配していた。
胸の内に蠢く激情。止めどなく溢れる憎悪は枯れる気配もない。
ゆっくりと立ち上がりほくそ笑む。
『何度も何度も頭ん中で、散々嬲り殺してきた相手が目の前に居るんだ…感激過ぎてこれ以上の言葉も出ねぇわ』
凝り固まった身体を解すように、ゴキリと首を鳴らす。肩を回して準備運動をするレインの行動を注意深く観察した。
悪魔のような蔑笑を浮かべ、開ききった瞳孔が此方を見据えていた。別人だと言われた方が納得出来る。
髭を摘んでレインを眺めていたジャミルは、次の瞬間には信じられない光景を目の当たりにした。間合いの外側に居た筈だが、瞬き程の刹那の間に彼が目前に迫っている。
スピードを緩めぬまま懐へ突っ込んだレインは彼の頬へ強烈な拳を叩き付けた。
「…っ」
顔を背け後方へ飛んで打撃のダメージを軽減しても、頬骨を折られた。
人間がこの身に一撃入れるなど何百年振りか。
続け様に回し蹴りを繰り出され紙一重で回避すると、壁に手を突いた青年はその反動を利用して空中で一回転して着地した。
ただの人間ではなかったのか?戦闘民族か凶暴な獣のような動きをしている。以前とは比べ物にならない程に俊敏だ。口元はふざけた憫笑を携えているが、その双眸はギラギラと闘争心が宿っていた。
『この時を待ってた…クソ臭ぇ掃き溜めの中でお前が来るのをずっと待ってたんだ』
マリアーナとジュリエーナを殺しても尚、其処に居座り続けた理由。悪臭漂う貯蔵庫で息を潜め、ジャミルが来るのを待ち続けた胸裏。
他でもない、極悪な復讐心だった。
久しい寒気を覚えたジャミルが指を鳴らす。
「レミオ」
彼の周りに闇狼が3匹召喚される。地獄の番犬より小柄な黒い狼で、鋭利な牙の間から唾液が溢れていた。
喉の奥でグルグルと唸り、レインを包囲した。
「痛め付けるだけだ。決して食べるな。彼の血は全て我輩のモノだ」
ジャミルが再度パチンと指を鳴らすと、3匹は一斉に獲物目掛けて飛び掛かる。
「キャイン!」
大口開けて飛び付いて来た1匹の横っ面をレインが殴打した。後方から回り込んだ影の腹を蹴り上げ、同時に襲い来る獣を上半身で回避する。
軽くステップし右腕を大きく振り被ると、そのまま脳天へ拳をお見舞いした。
情け無い声を上げて後退した眷属をジャミルは叱咤する。
『あ~腹が減って力が入らねぇわ』
調子外れな声を上げ爪先を地面に打ち鳴らす青年に、ジャミルは眉を寄せた。
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興味深いと髭を撫でるジャミルに『俺が魔法を披露するなんてなかなか無いんだぜ?』と得意げに言った。
嘗て無いほどに体内から魔力が溢れてくる。扱える魔力の容量が、あの時より明らかに変化していた。
大嫌いだった属性の、闇の魔素は此方を歓迎しているようだ。
「はぁ…仕方ない。気は進まないが、我輩直々に躾をする事としよう」
ジャミルが溜め息を吐き、口角の血痕を指で拭った。するとたった一滴の自身の血液が手の中で膨張し形を成す。
刺突武器のように細く長い特徴的なサーベルだ。勢い良く地面へ振り翳すと、鞭のようにしなり空気が切れる音が響いた。
『はは…俺を躾けるって?』
武器を前にしても動じた様子は無い。鋭く光る刃を他人事のように傍観しつつ、会話を続けた。
「左様。召使も失ったのだ。…今なら誠実な謝罪と生涯の忠誠を誓うだけで許してやるのだが?」
『ヤなこった。誰がテメーの靴を舐めるかよ』
「聞き分けのない小僧だ。だが、主人こそ至高の存在だと分かれば従わざるを得まい」
『自称最強って寒ぃよなー』
「口の減らない…、まぁ話せる内に話しておきたまえ。躾とは言え、我輩は眷属を甘やかす趣味はない」
レインに砕かれた頬骨、傷付いた皮膚を瞬く間に修復する。オールバックの髪を撫で付け、「来い」と人差し指を振って見せた。
コバルトグリーンの双瞳は強者特有の驕りが滲んでいる。
上品に剣を構えたジャミルと、姿勢を低くするレイン。
サーベルの切先が僅かに動いた。それと同時にレインが疾走する。常人の目では捉えられない速さで地を滑り、壁を蹴り天井へ着地した。
レインは本能のままジャミルに襲い掛かる。
「芸の無い」
呟いた吸血鬼は青年の胸を一文字に斬り払う。だが剣が胸部に埋まる前に堰き止められた。左腕を盾にしたレインの唇が美しい笑みをなぞる。
ジャミルは驚愕し目を見開いたが、「無駄な事…!」と力を加えた。剣は容赦なく腕を両断する。
彼の予測に反して、青年は引くどころか前に出た。
『ばぁぁあか!今更こんな腕、惜しがるかよ!』
輪切りになった肉が足元へ転がった。
腕には尺骨と橈骨があり、刺突に特化した片手剣を抑えるには充分だった。その刹那の間に懐へ入り込めれば攻撃の手立てがある。
元々手首から上は無いが躊躇なく腕を盾にするなど正気の沙汰じゃない。
青年はクルリと回転し勢いを殺さぬまま回し蹴りのコンボ技を決める。
吹き飛ばされたジャミルは壁へ激突し大穴を開けた。清掃の手が行き届いていない室内に、木片と土埃が舞う。
『おいおい、こんなもんかぁ?』
半壊した壁の破片を踏みしめて、見下し挑発。
隣の部屋は物置きだった。蜘蛛の巣と埃で霞む景色の中で、獲物だけは鮮明に捉えている。
暗闇でも視界が良い。視覚だけではない。嗅覚に聴覚、味覚にも変化が生じていた。
こびり付いた悪臭も、亡者の腐臭と血、黴、鼠の排泄物など様々に嗅ぎ分けられる。壁の奥に潜む鼠の数も、逃げ惑う蠅の正確な位置や己との距離に至るまで手に取るように分かるのだ。
壊れた木箱の上に横たわるジャミルはクツクツと笑っていた。
「嬉しい誤算だ」
『あ?』
「人間の分際でなかなか動けるではないか。そして腕を捨てる度胸、判断力…。クックッ…貴殿を眷属にするのが俄然楽しみになってきたぞ」
音も無く脚の力のみで起き上がる様はなかなかに不気味だった。彼は顔を掌で覆い悦楽の表情を濃くする。
指の間から翠色の閃光が青年を真っ直ぐ貫いた。
途端にレインの身体が硬直し、指一本も動かせなくなる。
『、何しやがった?』
「我々の眼は特殊でな。吸血鬼は昔からこうして標的を捕らえるのだ」
革靴を鳴らして近付いて来る紳士は、レインの爪先から頭の先まで視線を這わせた。
「覚えておきたまえ。貴殿もそうして獲物を漁るようになるのだから」
『テメーはどうしても俺を同族にしたいらしいな?』
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ジャミルは人間を脆弱と思っている節がある。彼らなど家畜と同列であり、数ばかり多く惰弱だ。
その点この青年は、どういう原理か弱さを克服し多少身体を扱えるようになっている。
纏った魔力は闇属性のものだ。吸血鬼と同じ魔力の形、闇人…、適性は申し分ない。
更に吸血鬼は変化させた者を監視出来る。彼らはこの繋がりを絆と呼ぶが、実際には裏切り者が居た場合の保険だった。
「さぁ…2度と逆らう気が起きないようにするにはどうしたら良いものか…」
『さぁな?』
翠の瞳に捕まり、意に反して体が動かない。視線を逸らす事も許されず睨み合う。
単なる強がりか、レインは挑発的な笑みを崩さなかった。
「我輩は飼い犬を甘やかす趣味はない。手を噛んだなら徹底的に調教を施す主義でね」
どうでも良いように『あっそ』と返事をする。そして間の抜けた顔で『…え?まさか、……ア?』と、次第に怪訝そうに眉を顰めた。
「どうしたのかね」
『プ、ふ…ははハ ハはッ!』
急に噴飯する青年はそのまま高笑いを上げた。一頻り笑った後、身動きの出来ない体で息を整える。
『はー…それは俺を脅してんの?』
「そうだと言ったらどうするのだ」
『ハハ…無駄だって教えてやるよジャミル』
ニィと歯茎を見せて愉快そうに冷笑する。
『この世のクソッタレを散々味わってきた俺にとって多少の事じゃ仕置きにもならねーと思うぜ?それこそ心臓に杭をブッ刺すくらいしねーとサァ』
動きを封じられているにも関わらず変わらぬ余裕。従属するくらいなら殺せと言っているようにも聞こえる。
しかし、現に彼は物理的な苦痛に対して驚く程に耐性を得ていた。度重なる呪印による躾や理不尽な暴力、ジャミルの拷問。とうとう痛みに対して恐怖心や緊張感が欠如した。ただの骨折などでは表情を変えないだろう。
「ふむ…貴殿に連れが居たのなら、連れの命と引き換えに侍従の契約を結ばせるのだが…」
『ハァ~?俺のことぼっちで寂しいってディスってんの?』
「おや、気を悪くしたかね?」
クスクスと吸血鬼が近付いてくる。青年は怯むどころか至上の嬌笑を漏らした。
『流石に時間食ったな。……俺をさっさと殺さなかった事を後悔しやがれ』
「――な」
言葉が終わらない内に、レインの魔術が炸裂した。
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