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第三話 「くじら侍と修羅の兄妹」
追跡
しおりを挟む朝になる前に、欣次は急いで甚七の長屋に転がり込んだ。
甚七と年老いた母親はまだ寝ていたが、強引に上がり込み、小さな声で事情を説明し、一日だけここで隣を見張らせて欲しいと頼み込む。
欣次としては、なんとしてでも隣の浪人の素性を探り当て、未然に事件を防ぎたかったのだ。
息子から隣の浪人の件について聞き及んでいた老母は二つ返事で許した。
彼女は息子と違い、狙われているだろう手代が悪かどうかなどは一切考慮しなかった。
ただ、六人がかりで一人を襲おうとすること、そして襲われる側の兄妹にまで危害が加えられようとすること、そういったことが許せなかったのだ。
だから、欣次が頭を下げたときに、
「―――好きにしていいよ、欣次親分。なんだったら、うちの甚七を使い走りにしてちょうだい。そのかわり、絶対にその手代の兄妹を助けてあげてよ」
「任せてくれ、おかみさん」
老母はさっさと布団を片づけると、欣次の分まで朝餉を作り、三人で食事をした。
徳一から十手を譲られたことで、いっぱしの岡っ引きとなった欣次は近所のものたちに親分と呼ばれる立場になっている。
子供の頃から知っている相手に親分と言われ、むずがゆい気持ちになる欣次だった。
「あんた、今日は仕事を休んで親分の手伝いをしな。隣の旦那が出掛けたら後をつけるんだよ」
「おお。あんなものを背負っていたら目立つしな」
甚七の仕事は古椀買いである。
漆の禿げた椀を買い取り、世田谷などで開かれる古道具市で売りさばくのが古椀買いの基本的な仕事だ。網の中に大量の椀を詰め込んでいるので、歩くとカタカタ音がする。
尾行には向かないということだ。
「いや、甚七。おめえは顔が割れている。なんせ、隣の長屋の住人だからな。そっちはおいらがやる」
「俺はどうする?」
「おめえのいうには、隣の浪人はわりと頻繁に外にでるらしいじゃねえか。留守中に例の仲間どもから連絡がきても行き違いになることもある。だから、じっと辛抱して隣の様子を見張っていてくれ」
「わかった。俺と母ちゃんで交代しながらやるよ」
「あとで、徳一の大親分が顔を出してくれる。なんかあったら、大親分に聞いてくれ」
欣次にとっての師匠筋にあたる徳一は首の具合が悪いせいで、派手な立ち回りができなくなって目明しを引退したが、やはり長年の経験があり、いざというときに助けになってもらえるだろうと、こっちも頭を下げて頼み込んだ。
もうしばらくすれば来てくれるだろう。
それだけで駆け出しの岡っ引きは安心できた。
―――太陽がてっぺんに昇ってやや下がる頃合いに、隣の浪人荻野喜千郎は長屋を出ていった。
無言で見張りを続けていた欣次、甚七親子、徳一らは顔を見合わせる。
荻野に少し遅れて欣次が長屋を出る。
「いいな、欣次。おめえ、手柄を焦って馬鹿な真似をするんじゃねえぞ」
「もう馬鹿をやっちまった後ですぜ。これ以上の恥の上塗りは勘弁でさ」
自分の判断で一日無駄にした。
それはよくわかっている。
「いってきやす」
顔を隠すために吊るしてあった菅笠をかぶる。
「しっかりおやりよ、欣次親分」
「欣次、十分に気ぃつけろ」
親子の励ましを受けて、欣次は外へと飛び出した。
足早に歩いて、先を行く荻野喜千郎を尾行する。
編み笠を被っているので顔はよくわからない。
神田富松町を出て、柳原通を東へと歩き、浅草御門の脇を抜け、両国の広小路へと至る。
だいたい八ツ半(午後三時)ぐらいであった。
米沢町あたりは徳一と欣次の縄張りのため、菅笠をつけていてもすぐ知り合いに見つかってしまう。
とはいえ、欣次が御用の向きで動いているとわかればみんな見て見ぬふりをしてくれた。
内心で礼を言いつつ、浪人を追う。
しばらくすると、藁屋根の茶店が軒を連ねていて界隈に出て、そのうちの一軒に吸い寄せられるように荻野は入っていった。
慣れた足取りなので初めてではないだろう。
「あそこが仲間との待ち合わせの場所か……すると橋というのは両国の大橋のことだろうか。だけど、北の柳橋もありそうだ」
南に行くと元柳橋というのもあったが、その先は松平丹波守、諏訪因幡守、一橋殿などの錚々たる面々の屋敷が立ち並ぶ界隈で、たかだか商店の手代が住みつける土地柄ではない。
あるとしたら、柳橋の先の平右エ門丁、浅草御門の茅町、両国橋を渡っての元町、尾上町のどれかである。
欣次と徳一の家は米沢町にあるが、その手代と一致する条件の男の記憶はなかったから、候補としては外していた。
荻野が入った茶店は「今野屋」という名前で、なかなかに構えが大きい。
痩せ浪人が常連になるにはやや格式が高い店だ。
おそらく荻野たちを雇ったものの采配だろう。
不自然にならないように近づいて、垣根越しに中を見ると広い座敷があり、酒や料理の類いもでる店のようだった。
ますます古椀売りの甚七と同じ長屋に住む程度の浪人のくる場所ではない。
(お、あいつは)
座敷に続く廊下を荻野喜千郎がやってくる。
隣にもうひとり、浪人らしいものがいた。
顔は違うが、年恰好はふたりともよく似ている。
おそらく似たような境遇のものなのだろう。
(夜討ちの仲間とみて間違いねえか)
障子をしめて共に座敷に入るところまで確認してから離れた。
遠目で観察していると、同じ廊下を渡って女中が膳を座敷に運び込む。
数は五つ。
どうやらすでに三人、中で待っていたらしい。
夜に討ち入りしようというのに酒を飲むとは呆れた奴らだ。
欣次は内心で荻野らを馬鹿にした。
昨日の夜、事件のことを耳にしてからすぐに水を飲んで、酔いを醒まそうとしていた青碕伯之進に比べてまったく侍らしくない。
だが、酒が入るとなるとしばらくはこの店に居続けることになるだろう。
襲撃は夜のはずだから、急いで動けば見張り続けなくともいいかもしれない。
「青碕さまのところに報告に行くべきか……」
と、今野屋を垣根越しに覗ける筋向いの路地に入って先のことを考えようとすると、肩を叩かれた。
ひゃっと振り向くと、そこには師匠にあたる大親分の徳一がいた。
「親分……?」
何故、甚七の家にいるはずの徳一がここにいるのだろうか。
「おめえが出てってからしばらくしてな、どっかの大店の奉公人らしい若えのが荻野のとこにやってきやがったんだ。留守だとわかるとすぐに帰ろうとしたんで、後をつけてみた。そうしたら、今野屋に入っていって、そこでおめえがうろちょろしていたという訳さ」
「大店の奉公人ですかい?」
「おう」
「もしかして、あいつですかい」
さっきの廊下を通って、ひとりの若い男が荻野達のいる座敷に入っていった。
「あいつだ」
「あっし、あの野郎に見覚えがありやす」
「なんだと」
筋違橋のそばにある札差「吉井屋」の省吉という手代だった。
別の事件の探索中に話を聞いたことがある。
「吉井屋だって? ……とくに悪ぃ噂はねえ札差だぞ。貧乏な旗本や御家人たちに俸禄米を担保に金を貸しちゃあいるが、金利も低めで、取り立ても厳しくねえというはずだ」
「へえ。ですから、あんな破落戸みてえな浪人を雇うなんて考えにくいんですが」
「待てよ。確か、狙われているのは商店の手代だといってやがったな。その、省吉が相手なのかもしれねえな」
「いや、親分。あっしも知ってますが、あいつぁ、手もほせぇしなりもちいせえ。口は達者なようですが、浪人をあんなに集めて襲う程に腕が立つとは到底思えませんよ」
「だろうな」
尾行している最中、散々観察してみたが、省吉という手代には喧嘩の強さなど微塵も感じなかった。
「欣次、おめえ、吉井屋についてどれだけ知ってる? わかっていることだけでも教えろ」
「……店主の吉井屋はまあしくじりはしねえ程度の商才の持ち主らしくて、あまり羽振りの良くないお武家との商いはしないとかいう話です。女房と娘がひとりいて……娘はあっしの記憶では十一歳だかそのぐれえでしたね。あとは番頭と二十人ぐれえ、手代と小僧の奉公人がいて……」
脳みそに何かがひっかかった。
記憶の細すぎる糸を手繰り寄せてみると、なかなかにでかい手応えがあった。
「そういや、省吉以外にも手代がいやした!! 名前は、佐吉だったかな? ―――ちらっとあいさつした程度でしたが、ありゃあ垢ぬけたいい男だった。腕が立ちそうかと言われれば、むしろやれなかったら拍子抜けって感じの野郎でしたよ」
欣次たちは目を合わせた。
色々と糸が繋がったような気がしたのだ。
「よし、俺は青碕さまにお知らせしてくる。やはり、俺とおめえだけじゃあ六人の侍の相手は無理だ」
「鯨の旦那もお願いします」
「権藤さまかい? 来てくださるのか?」
「間違いなく」
徳一は未だに伊佐馬のことを疑っているが、腕っぷしだけは別だ。
荒事においてはあそこまで信頼できる侍はいまどき極端に少ない。
「わかった。おめえはよく見張っておけ。手代は無視してもかまわねえ」
そう言って、徳一は走り出した。
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