陸のくじら侍 -元禄の竜-

陸 理明

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第三話 「くじら侍と修羅の兄妹」

岡っ引きの欣次

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 欣次の幼馴染である甚七は、神田富松町の長屋で暮らしていた。
 老母が用意してくれた味噌汁を一杯飲んでから、眠りにつこうとうとうとしていると、隣の住人が戸外へと出ていく音が聞こえた。
 隣には、去年から浪人ものが一人入っていた。
 三十歳ぐらいの無口な浪人で、外で顔を合わせても挨拶の一つもしない不愛想な男だった。
 何度か往来で柄の悪そうな数人の浪人たちと練り歩いているところをみたこともあり、まともな性分のものではないだろうと思っていた。
 ただ、こんな夜遅くに出ていくことは初めてだ。

 布団から出ると身震いした。
 小便に行きたくなってしまった。
 長屋には各家に後架はなく、裏店に惣後架という共同便所がある。
 糞尿は近郊の農家で畑の肥料として使われるために大便と小便に分かれていた。
 下半分だけ扉がついていて、立ち上がると周囲が見渡せる造りになっている。

 隣の浪人者に興味はなかったが、とりあえず尿意には勝てず、甚七は外へと出ていった。
 長屋路地の一画で浪人が誰かと立ち話をしているようだった。
 盗み聞きをする気はなかったが、音を立てないように小便をしていると、

「殺しちまってもいいのか、そいつ」
「最悪はな。まあ、こっぴどく痛めつけるのとその挙句で死んじまうのはたいしてかわらないことだろ」

 と耳に入ってきた。
 殺すだの殺さないだの、やけに物騒な会話をしている。
 甚七は意外と好奇心が強い。
 思わずさらに聞き耳を立ててしまう。
 それでもすべてが聞こえてくるわけではないが。

「腕はたつのか」
「町人にしてはな。どこぞの場末の道場で鳴らしていたのだろう。ただの手代と侮ると痛い目を見るのは間違いない」
「まあ、どんなに道場で鍛えようが所詮町人でしかないがな」
「用心するに越したことはないだろう。で、六人用意した。商店の手代一匹を相手にするには大げさかもしれんが、金を出すものがうるさいので仕方なくだ」
「いくらだ」
「ひとり五両」

 甚七はびっくりした。
 六人揃えてひとり五両。つまりは三十両だ。かなりの大金である。
 浪人たちの話通りだとすると、たかが手代ひとりをぶちのめすのにその額は法外かもしれない。
 明らかに裏がありそうな話だ。

「六人がかりか―――場所は」
「……橋を渡った先の小屋で、妹と住んでいるらしい」
「妹も襲うのか」
「そちらは数に入っておらん。ただ、べつに俺たちがなぐさみものにしたとしても、何も言われんだろう。そもそも先方の事情も男女のもつれよ。とやかく言える立場じゃあない。どうだ、え、どうだ」
「わかった。最近、女の肌はとんとご無沙汰だったからな。金ももらえて女も抱けるなら俺に文句はない」
「だろう」
「時間はいつにするのだ?」
「明後日の夜。ちょうど、新月、夜討ちをするにはいい頃合いよ」

 それからしばらくしてひそひそ話は終わった。
 隣の浪人はこそこそと家の中に戻っていったが、惣後架に座り込んだ甚七には気が付くこともなかった。
 甚七は家に戻らず、いったん表通りに出て、隣の浪人の話し相手を探した。
 似たような格好をした、やはり浪人のようだ。
 十分に時間をかけてから、怪しまれないように家に入る。
 それから老婆の隣に敷いてある布団に潜り込むと、さっきの話を反芻した。
 内容の全てが聞き取れた訳ではないが、襲撃の日時等の情報はあらかたわかった。

(ただ、わかんねえのは、誰を襲うかなんだよな。どこぞの店の手代で、腕が立って妹が一人いる。橋を渡った先だというが、どこの橋のことだ。肝心なところが聞こえなかったんだよな……)

 土地の御用聞き―――親分方に告げるか。
 幸い、少し前に幼なじみが岡っ引きになっている。
 話をするのは簡単だ。
 しかし、ひっかかることがなくもない。

(三十両も払って浪人に仕返しをさせるようなことを仕出かした相手だぞ。それだけの怨みを買ったということでかなりのわるなのかもしれない。そんなやつを助ける必要ってあるのかよ)

 問題はそこだった。
 もし悪が成敗されるというのならば、放っておくのも善行だ。
 性悪な浪人を金で雇うというのは手段としては卑劣だが、弱いものが無念を晴らせずに泣き寝入りさせるというのも納得できない。

(でも―――兄貴がどうであれ、妹にまで酷くことをするというのは行き過ぎだな。よし。明日、欣次に話そう。それで防げるものなら防いでもらおう)

 そう決意すると、自分でも不思議なぐらいに快適な眠りにおちていけた……


       ◇◆◇


「と、まあ、甚七が朝早くに伝えに来まして……」
「だったら、もっと早くわしや伯之進に相談に来ればいいではないか。もう夜だぞ。明日の夜にはその浪人どもの襲撃があるのだろうに」
「へえ。……いや、あっしも今日一日色々と調べてみたんですよ。そんで、どうもあっし一人の手には負えないと……」

 伊佐馬に言われてしょげる欣次に伯之進が追い打ちをかける。

「殺しがありそうなら、やはり私のところにも来るべきだったね。奉行所も事が起きてから動くものばかりではないことを知っておくべきだよ」

 その手代が殺され、妹が犯されてからでなくても、奉行所は江戸の治安のためなら先回りして行動できる。
 たいていの場合は事件が起きてからが同心の仕事だが、その前に事を未然に防げるのならばそれに越したことはない。
 欣次はまず南町奉行所の同心詰め所でなくとも、八丁堀の青碕家にやってきてもよかったのである。
 そうすれば、今日一日でかなりの調べがついたであろう。

「しかし、青碕さまや旦那方をつまんねえ話で……」
「つまらないかどうかを決めるのは、わたしだよ、欣次。次からは気になるのならどんな話でももっと遠慮なくもってきてくれていい。真偽が不明でも、善くない話こそ、どんどん町方の耳にいれておくのが良い御用聞きの仕事なんだ」

 これは岡っ引きとして経験の浅い欣次のしくじりといえた。
 まだまだ同心などの奉行所のものたちとの距離感がうまく掴めていないのが原因だった。
 とはいえ、これ以上責めたてても仕方ない。
 伯之進は欣次が幼馴染から聞いたという話を頭の中で吟味してみた。

「―――その手代の身元を掴む手がかりが欲しいところですね」

 伯之進は水を飲みつつ言った。
 欣次の説明が終わったあたりから、すでに酒は止めている。
 水がめから水をくみ上げ、升で流し込む。
 酔いを醒ますためだ。
 甚七や欣次以上に、この事件が大きくなるかもしれないと感じとっていた。

「一日でどれだけ調べ上げたの?」
「……何一つでさ。むしろ、長屋の隣の浪人もの―――荻野喜千郎おぎのきちろうっていうんですが―――をずっと見張っていた方がましだったのかもしれやせん」
「無意味だな。浪人どもも馬鹿ではない。明日の襲撃の夜までどこにも集まったりはしないだろう」

 伊佐馬はまだ酒を飲んでいる。
 この男はどこまで飲んでも酔いつぶれることがない。
 伯之進からすると「狡い」ということになる。

「一番いいのは、明日の決行にいたるまでそいつにぴたりと引っ付くことだな。後をつけて、合流するまで泳がしておくのだ。もし見つかったのならばその場で喧嘩をうってぶちのめしたうえで口を開かせればいい」
「襲撃する相手のことと仲間となる者どものことを、なにも知らないということもありうるでしょう。仮にその策がうまくいかなければみすみす手代と妹を危険にさらすことになりますよ。その場合、いくつも死体が転がることになる。町方としては看過できません」
「そうか。確実ではないか。だったら、明日の朝にさっさとぶちのめして一日拷問にかけよう。それだけ時間を賭ければさすがに口を割るだろうさ」

 どこまでいっても力づくの提案ばかりの伊佐馬である。
 意外と脳まで酔っているのかもしれない。
 やってやれないことはないが、現実的に考えるとさすがに難しい。

「では、どうするか……」

 ここで、しばらく黙っていた欣次が手を挙げた。
 
「あっしに挽回させてくだせえ。このままじゃあ、徳一の親分に申し訳が立たねえ」

 それを聞いて、伊佐馬は興味深そうな視線を向ける。
 試してみるか、という顔付きでもあった。
 伯之進も軽く頷き、

「いいね。欣次、やれるというのならばやってみなよ」

 と、らしくない穏やかな笑みを口元に浮かべた。




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