ニケの宿

水無月

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第二十四話・少女先生

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 医学部の室内は真っ暗だった。きょろきょろと暗闇を見回すが誰の声も聞こえないし、動く影もない。

「あれ? 先生? ……おかしいな」
「先生は仮眠中みたいだど」
「きゃあっ」

 急に起き上がった巨漢の男に、リーンが飛び上がる。死蟷螂族(腕ぐるぐる巻き男)にびびっていたせいで、乙女のような声を出してしまった。
 それよりヒトの上にいつまでも乗っているのは良くない。慌てて腹の上から下りようとしたリーンの腕を、岩のような手が掴んだ。本当に岩としか思えない感触にリーンは岩男の顔を振り返る。
 目が合うと、岩男はにこりと目を細める。

「可愛い悲鳴だど。食べちゃいたい――ど」

 そう言うと、男は口を開けた。
 大きな口だが、がこっと顎が外れたような音がすると、口はどこまでも大きくなり始めた。

「えっ? え!」

 リーンの視界は口でいっぱいになった。口の中はそのまま喉に繋がっているようで、歯や舌といった器官は見当たらない。獲物を丸のみにする生物そっくりの口内構造に、さぁーっと血の気が引く。

「おい! なにしてんだ」

 リーンを押しのけ庇うように前に出た死蟷螂を、岩のような拳が襲った。

「―――っ!」

 虫人らしく体重が軽いせいかそこまで吹っ飛びはしなかったが、小枝が折れたような音がした。

「ちょっ!」

 廊下の先で動かなくなる死蟷螂に、リーンは目を見開く。

(え? 何っ? こいつら仲間じゃないのか?)

 駆け寄りたかったが腕を掴まれている。それでももう一度は、もう一度振り返る勇気はなかった。大きな洞窟が、自分のすぐ後ろにある。

(う、動け、動け。俺はこんな臆病者じゃ、ないはずだろう……)

 足がすくんだリーンの細い腕を引き寄せる。

「ひっ」
「いただきま~す」

 覆いかぶさってくる洞窟の入り口。
 だがそこで、視界のすみで死蟷螂が動いた。
 ごきり。
 折れた鼻を強引に戻し、両手と四本の脚で立ち上がる。

「あの馬鹿っ!」

 口で布を解くと駆け寄ってくる。布の下から現れたのは腕ではなく――




「すまないね。休憩していたんだよ。それで? 用件は?」

 騒ぎが聞こえたのか、先生とやらは医学部にある仮眠室から出てきてくれた。夜勤に備えしっかり仮眠していたところ、申し訳ない。
 幼女、いや少女のようで、むちむちした肉付きの良いボディ。胸も大きく和装ではどうしても着崩れてしまうのか、上下一体となった珍しい服(ワンピース)に身を包んでいる。大人ぶって足を組み、まさに「太」ももと言える素足を惜しげもなく晒している。真っ赤なパンプス(婦人靴)が眩しい。
 薬師のようだが白衣ではなく黒羽織を肩にかけていた。

「起こしてすまん。鎮痛剤が欲しくてな」

 申し訳なさそうに言うのは死蟷螂族。リーンを捕食しようとしていた男は、いまは部屋の隅で大人しく正座している。死蟷螂に顔面がクレーターになるまで殴られたせいだろう――廊下も一緒になって陥没していた――たまに鼻をすする音が聞こえる。

「……」

 リーンはちらっと死蟷螂に目をやる。
 顔に鼻血がこびりついているが、ダメージは少なそうだ。いつの間にか両腕の布も巻きなおされていた。

(おかしい……。見ていたはずなのに、布の下にあったものが思い出せない)

 そりゃ構造上手首があり指があるのだろうが、どうして思い出せないのか。
 首を傾げるが、医学部の先生は「いつものこと」と言わんばかりに気にしなかった。
 腕を組むと面倒くさそうに顎で薬の場所を示す。

「勝手に持ってきな」
「ありがとう」

 少女先生は棚の中をガサゴソ漁る死蟷螂から、岩男に目を移す。

「おい。ナマズ野郎」
「ひえっ」

 岩のような男が、ちみっこい少女相手にさらに身を小さくする。「おではナマズじゃないど……」と、なにかぶつぶつ言っているがよく聞こえない。

「お前。カマキリ野郎のことが好きなのに、暴力を振るうのはどうかと思うぞ?」

 恋の話の気配を察知した静霊がキャッと顔を出す。
 バッと勢いよく振り返るリーンに、岩男は目を点にした。
 やがてハッとし、違う違うと両手を振る。

「な、何言ってるど。先生! 変なこと言うのは、やめてほしいど。おで、あいつに殴られた記憶しか、ないど」

 否定している割には声がどもっている。

「先生も知ってるだど? おいらは茶屋の娘さんが好みで――」

 少女先生は刃物のようにすっと目を細める。

「ふーん……。へぇー。そぉー?」
「……そう、だど」

 負けないという意志を込めて、男がきっと睨み返す。身体は情けなく震えているが。
 先生は「暗くて見えねぇ」と苦戦している死蟷螂を一瞥すると、ニヤァと口角を吊り上げた。

「じゃあ、俺があのカマキリをもらっちまってもいいよなあ? 前から良い物件だと思ってたんだよ。あいつボンボンだしさぁ」

 物語に出てくる魔女のような笑みだ。そんな笑みも魅力的だと、リーンは深く頷く。それはそうとこの先生、誰かに雰囲気が似ているな。誰だろう。

「……」

 岩男はぐっと言葉に詰まったかと思うと、力なく項垂れる。

「……先生。あまり、いじめないで、ほしいど……」
「はあ~~~。なぁーにが茶屋の娘さんだよ。そんな恋する少女みたいに真っ赤なツラしておいて」

 ため息をついて天井を仰ぐ先生。岩男はもう泣きそうな顔で震えている。

「先生。鎮痛剤って、これ?」

 魔女のような笑みを消し、丸い木の箱を見せてくる死蟷螂に軽く頷く。

「ああ。そういや容器を変えたんだ。粉末から粒状にしたからね」
「へー?」

 器用に死蟷螂が箱を開ける。確かに小さく飴玉のような粒状の薬が、いくつか入っている。

「粉末とどう違うの?」
「粉末薬を飲むのが苦手な奴もいるし、ガキや年寄りは飲みづらいらしいから。粉と粒の二種類を用意しておこうと思ってさ」

 そう言うと先生はさっと椅子から立ち上がる。岩男がびくりと震えるが、そちらを見もせず大きく背伸びする。

「はあ。俺はもう少し寝る」

 仮眠室に消えていく先生に手を振り、死蟷螂はぎろっと岩男を睨む。

「お前。この子にきっちり謝れよ? 馬鹿やりやがって」
「……うう」

 どんどん縮んでいき小岩からバランスボールサイズにまでなる男。リーンは一歩離れる。

「あの、さっきはなにが? 本当に食われそうになったの? 俺」

 死蟷螂ははあ~とため息をついて、軽くバランスボール男の尻を蹴る。

「悪いな。こいつ腕は立つんだが、頭が弱くてな……。可愛い子を見るとすぐ丸呑みにしようとするんだ」
「ええ……。ええ⁉」

 なにそれ。フリー並みにやばい奴じゃん。 

「そのためにブレーキ役として俺がいるのに、怖い思いをさせて悪かった」

 新入り相手でもきっちり頭を下げる死蟷螂先輩に、リーンは頭を横に振る。

「細かいことはよく分かりませんし、ふざけんなって怒鳴りたいですけど……(男だし)気にしてませんよ。それより悪いと思うならブレーキ役頑張ってください」
「ああ。そうするよ。……お前も謝れ!」

 岩男はもじもじとリーンに向き直ると、ぺこっと頭を下げた。

「ご、ごめん、だど……」
「よし。早くキミカゲ様に届けないと。キミカゲ様の部屋どこですか?」

 部屋に戻って休もうとしていた死蟷螂は、がくっと肩を落とした。

「……案内するよ」
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