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【新しい人生と結婚相手】
しおりを挟む小さな応接間に王妃様が入ると弾かれたようにソファから立ち上がった人の顔を見て、私は危うく声を上げそうになった。
……そんな……どうしてこの人が……。
「フィーナに紹介するわ、チェスティ・ハウスの新たな管理人であり私の従兄弟の養子になったジルドよ」
「……ジルド様……初めまして、……フィーナと申します……」
「は、初めまして、フィーナ様……」
ジルドも驚きを必死で隠している顔をしていた。つまりは少しも隠せていない。
その驚愕と困惑を混ぜたような顏を見たら、私は何故か落ち着きを取り戻せた。
ロルダン王太子殿下に『無表情でつまらない』と言われていたほど、心を隠すのは巧かったのだ。
「さあ二人とも座ってと言いたいところだけれど、急に結婚と言われて話もしないうちに私がここにいたらなんだか居心地が悪いわよね。
ジルド、フィーナと庭を歩いてきてはどうかしら。
昨日も話したとおり、フィーナは事故で記憶を失いずっと眠っていたの。
まだ身体は本調子ではないから、ゆっくりと散策させてあげて欲しいわ。
庭でお茶ができるように手配してあるから、フィーナを案内してあげてね」
「……はい、かしこまりました。では……フィーナ様、参りましょう」
***
庭に出て、ジルドの後をついて行く。
取り戻したはずの落ち着きは庭の小径に転がり出て行ってしまった。
眠りにつく前に『もう最後だから』と名前を尋ねたことを思い出して、わーっと駆け出して逃げたくなる。
王妃様がジルドに引き合わせたということの意味を必死で考えている。
私はてっきり『デルフィーナ』を知っている者とは誰とも会えないのだと思っていた。
目覚めてから世話をしてくれていた侍女たちも、すべて顔を知らない者だった。
王妃様のシナリオの中で『デルフィーナ』は、事故か病で亡くなるはずではなかったか。
ということは、ジルドはある程度のことは王妃様から聞かされているのだろうか。
考え事をしていたら、ジルドが立ち止まってその背中にぶつかってしまい、抱きとめられてしまった。
「大丈夫ですか!」
「は、はい、ごめんなさい。きちんと前を見ていなくて……」
「こっ、こちらこそ失礼を」
慌てたジルドが私をそっと離した。
心臓の音がうるさくて聞こえてしまうのではないかとハラハラする。
もしかしたら、私はまだ眠りから覚めていないのでは……。
足元で揺れるレースのような白い花に目を向ける。
この花は、あの日に名前を聞いた花だわ。
「……この白い花、可愛らしくてとても好きなのです。オルレアというのですよね」
「そ、そうです、オルレアです。可憐なのにとても強い花。あなたに似ている……。
急に結婚と言われて僕も混乱している……のですが、フィーナ様はもっと驚いているでしょう。記憶を失ったというフィーナ様に、少しだけ僕の話を聞いてもらいたいのですがよろしいでしょうか」
「は、はい、もちろん」
近くのベンチを勧められて私は腰を下ろす。
ジルドはその向かいの石に座った。
「僕は孤児で、この王宮の庭師である養父に引き取られました。十歳になる前くらいのことです。自分の誕生日を知らないので、身体つきから考えて養父が誕生日を作ってくれました。今は22歳、もうすぐ23歳になりますが本当の年齢は分かりません」
ジルドはゆっくりとした口調で話し始めた。
もうすぐ23歳ということは、私より5つ年上。
自分の見立ての正確さに静かに驚いた。
僕には姉と妹がいて、どちらも僕と同じ孤児です。三人とも別の孤児院から引き取られました。血は繋がっていない他人です。
姉は料理屋の息子と結婚して、もうすぐ子どもが生まれます。
妹はこの王宮のお針子女中として仕えています。
庭師の養父は、僕たちを可愛がって育ててくれました。
僕は養父の後を継ぐために、この庭のことを学びました。
良い土を作るために何をすればいいのか、どの視点から見ても美しく見える庭づくりとはどうするのか。
朝から陽が落ちるまでずっと庭中を歩いてしゃがんで、土と花と木しか見えていませんでしたが、毎日がとても幸せでした。
そんな僕の前に一人の少女が現れるようになりました。
二年ほど前でしょうか、夕方になると一人で裏庭の小径を歩いて帰ってきます。
そして僕に花の名前を尋ねました。
『名前は何というのかしら』と。
薔薇に触れながら名を聞いているのだから品種を尋ねているのだと思い、その薔薇の品種名『ロサ・カニナ』と答えると驚いたような顔をしました。
その表情がとても可愛らしくて、この少女は切り花用の大きく華麗な薔薇より、ガーデン用の可憐な薔薇が好きなのだと思い、それからガーデン用の薔薇を小径の脇に多く植え替えました。
薔薇だけではなく、いろいろな小さな花の名前を毎日尋ねられました。
僕はその僅かな時間を楽しみにしていました。
少女にどの花の名前を尋ねられてもすぐに答えられるようにしようと、それから勉強も熱心になりました。
先日のある日、いつものように花の名前を尋ねた後、少女は僕の名前も尋ねました。
そんなことはこれまでなく驚きながらも答えたのですが、その日から姿が見えなくなりました。
そうしたら庭師小屋に高貴なお方がやってきて、その方の親戚の養子になること、ここではない領地に住んで庭を管理すること、そして一人の女性と結婚することを聞かされました。
高貴なお方の親戚の養子と言えば貴族になる。
僕は驚いて養父を見ると、養父は目を閉じ、このお方の言う通りにするようにと言いました。
僕は養父がそう言うのなら従います。
ただ、僕は孤児院に居た平民です。
貴族の養子になっても貴族のことなど何も分からない。
それでは高貴なお方がお困りになるのではないかと尋ねたところ、結婚する相手が貴族社会のあらゆることを教えてくれるだろうから困ることはないと言ったのです。
そして、チェスティ・ハウスの管理は彼女も手伝ってくれるから何の心配もいらないと。
ただ彼女を大切に、慈しんで毎日を穏やかに過ごしてくれればそれでいいのだと、そう言われました。
そして先ほど、結婚することになる相手と会わせると言われて……。
やってきたのは花の名前を毎日尋ねた少女……あなたでした。
僕は夢を見ているのではないか、今この瞬間もそう思っています。
王宮の庭師の養父に引き取られた時も夢ではないかと思いました。
あのまま孤児院にいればおそらく鉱山で働くか、運が良ければどこかの領地の農夫になれたかもしれない、そんな未来のはずでした。
それが王宮の庭師になれるとなって、養父の元で字を覚えることもできたのです。
それだけでも法外な幸運だったのに、あなたと結婚だなんて、僕は……。
ジルドの頬を涙がひとつ落ち、私はハンカチを差し出した。
ここまで聞くのにずいぶんと時間がかかった。
つっかえながら、時々は次の言葉が出てこなくてじっと待った。
でも、とても丁寧に言葉を選び、私に伝わるようにしてくれているのが分かった。
これまで思っていたとおりの、実直で優しくて温かい人だと感じた。
「ジルド様……誰にも、高貴なお方にも絶対内緒の話なのですが、私は一番初めに薔薇の名前を教えていただいた時からずっと、いつもあなたの名前を聞いていたのです。
ロサ・カニナと言われて驚きました。だってそれは女性の名前でしょう?」
ハンカチを受け取ったジルドはそれを握ったまま、ポカンとした顔で私を見た。
「僕の、名前を……?」
「……はい、愛おしそうに花の世話をしている……あなたの穏やかな姿に心惹かれて……あなたの名前を尋ねたのですが、私は花の名前に詳しくなるばかり、でした……」
「少し前に、はっきり僕の名を尋ねたのは……」
「事情があって、私のこれまでの人生が終わる予定でした。だから最後にあなたの名前を今日こそ聞きたいと、そう思って……」
そう言ってしまってから顔がぶわっと熱くなり、両手で頬を押さえる。
ああ、私は何を言っているのかしら……。
「ど、どういうことですか、人生が終わる事情とは!」
ジルドは私の肩をグラグラと揺さぶる。
「あ、あの……」
「ああ、あ、あ、ごめん、ごめんなさい」
「あの、終わらないです、始まるんです。フィーナとして、新しい人生が。あなたと、ジルド様と一緒に」
「ぼ、僕と一緒に……。本当に……?」
「はい。毎日、穏やかな日々を……私と一緒にではダメ、ですか」
ずるずると、ジルドが地面に崩れ落ちた。そして地面に額を打ちつける。
「やめてください! 怪我をしてしまうわ!」
「……夢ではないかと……夢なら痛みは感じないのではないかと思ったけど、痛い……ですね……」
「痛いにきまっているわ……」
先ほど手渡したハンカチをジルドの手から取り上げて、その額についた土を払う。
その手をジルドが掴んだ。
「あなたと、夢のような現実を生きたい。大切にします、僕と結婚してください」
「……ジルド様……はい、私もあなたを大切にします。たくさん花の名前を教えてください」
「花の名前以外のことを僕に教えてください。あなたのこともそれ以外のことも、僕は何も知らない」
私はジルドを抱きしめた。
私がそうしなければ、ジルドはさっきみたいに私が躓いたりしない限り抱きしめてくれそうにないと思ったから。
デルフィーナなら絶対にこんなことはしないけれど、私はフィーナという女性に生まれ変わったのだ。
ジルドは私の背中に躊躇いながら腕を回し、ぎゅっとその逞しい胸で私を抱きしめた。
私は目を閉じて、ただジルドの胸の鼓動に耳をすます。
その力強い鼓動で、今ここにフィーナとしての新しい人生が始まったのだと思えた。
この温かい胸が、これからの私の居場所なのね……。
「……フィーナ様……」
「……どうかフィーナとお呼びください。私はあなたの妻になるのです……」
「……フィーナ」
それから私たちは、王妃様がガゼボに用意してくださったすっかり冷めてしまったお茶を微笑みながら一緒に飲んだ。
たぶん熱いお茶を望めば改めて用意されたのだと思うけれど、冷めたお茶と湿気り始めた焼き菓子をいただくことさえ楽しい。
相手が肚に何を含んでいるかなど考えず、ただ純粋にお茶の時間を楽しめたことがとても嬉しかった。
王妃様はきっと、私が何も忘れていないことを知っていらっしゃる。
それでも私をフィーナと新しい名前で呼ぶ。
私は王妃様の前ではすべて忘れたふりをし続けるのだ。
それが王妃様から望まれたことだった。
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