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【何も覚えていない】
しおりを挟む目が覚めて身体を起こすと、頭が割れるように痛かった。まぶしい日差しに思わず目を瞑る。
「ロン、起きたか」
明らかに自分に向けた言葉だろうが、ロンというのは自分の名前なのかも分からない。
着ている服も寝ている場所も、何もかも分からなかった。
「……自分が何者なのか、ここがどこなのか、何も記憶にないのです。見るものがすべてぼんやりしている」
「ああ、眼鏡ならそこにあるよ。どれ、取ってやろう。言い忘れたが俺はガイロだ。この小屋に住んで王宮庭師の仕事をしている」
縁が黒くて太い眼鏡を渡されて掛けると、急に視界がクリアになった。
「良く見える……」
「そうか、良かったな。まずは食事をしてから、おまえについて話そう。ベッドから下りられそうか?
身体が辛いなら食事をベッドまで運んでやってもいいが」
「いや、下りられそうです」
ベッド下に布製の靴があってそれに足を入れた。
少しの違和感があった。この靴だけがやけに新しいのだ。
新しい靴に違和感を覚えるほど、この部屋全体が古ぼけている。
小さなテーブルに、パンとスープと塊のチーズがあった。
「食事の前に顔を洗いたいのだが……」
「あ、ああ、水はこっちにある」
小さな台の上に木の桶があり、そこに水が張られている。
とりあえず眼鏡を外して顔を洗い、他に澄んだ水が無さそうなので手で掬って口を漱いだ。
手を伸ばしたがガイロさんがタオルを渡してくれることもなく、何故そうしてくれると思ったのか分からないまま、シャツの裾で顔を拭った。
眼鏡を掛けると良く見えるが、頭の中がぼんやりしているので見えたものを上手く処理できないもどかしさがある。
──いったい自分は誰だ。
生きるための最低限と言えそうな食事を、義務を果たすようにどうにか食べた。
ガイロさんは茶を淹れようと言って、鉄製の不格好な小鍋で何かの葉を炒り始める。
茶葉をポットに入れて湯を注ぐのではないのか。
少しすると部屋の中に香ばしい匂いがして、ガイロさんは炒った葉をそのままカップに入れて湯を注いだ。どうやらポットは無いらしい。
「茶葉が底に沈んだら飲み頃だ」
ゆらゆらしていた葉がカップの底に沈むまで眺めていた。
そろそろいいだろうと葉を口に入れないように静かに飲むと、思った以上に美味かった。
「美味いな……」
「それは良かった。ここには上品なものは何も無い。顔を洗ったって柔らかいタオルなど無いし、ひとつのカップにスープも茶も果物も何だって入れて使う。食事は一枚の皿に全部盛り付けて喰うんだ」
わざわざそんなことを言われた理由がぼんやり分かった気がした。
食事を出してくれると言われて思い浮かべたのは、クロスの掛けられたテーブルに、一枚ずつ皿が置かれるイメージだった。何故そんなふうに思ったかは分からない。
でも頭に浮かんだイメージと、運ばれてきた食事内容がかけ離れていたのは確かだ。
「ロン、あんたは事故で記憶を失っているんだ。ここで俺がロンを引き受けることになった。動けるようになったら庭師見習いとして仕事をしてもらう。
楽しい仕事じゃねえし身体はキツいが、やりがいはある。
主な仕事内容は二つ。
庭を美しく整えることと、王宮を飾る切り花を育てること。
詳しいことはロンが回復してからだ。おまえが庭師としてそれなりにやっていけそうだったら、俺の養子にして俺の跡を継がせようと思っている」
「ありがとうございます、身体のほうは大丈夫そうです。時々頭がズキッと刺すように痛むこともありますが、それも長くは続きません。庭師の仕事を教えてください」
「さっそく仕事を覚えようとするとは、いい心掛けだ。ここの給金は悪くないし、なんせ王宮だから潰れる心配もない。ロンの元の身分や生活は知らないが、きっとここで充実した毎日を送れるだろう。
ひたすら真面目に誠実に働くことだ。仕事はどんどん教えてやるからな。
まあ、今日のところはゆっくり過ごしていろ。茶が無くなったらまた湯を足せばいい」
「あの、僕の持ち物は何かありませんか」
「いや、何も無いんだ。おそらく事故の時に失くしてしまったのかもしれない。靴も無かったそうだから、それはうちにあった靴なんだ。今度ロンを連れて街に買い物に行っていろいろ必要なものを買おう」
そういうとガイロさんは小屋を出て行った。
何の持ち物が無いと聞いて落胆した。何かあれば自分が何者なのか思い出すヒントになると思ったが、そう上手くはいかなかった。
食事をしながらいろいろ可能性を考えていた。
おそらく僕は、平民ではないような気がした。ある程度の貴族、あるいは執事のような立場だったのではないか。
庭師のガイロさんのように日に焼けていることもなく、腕や足の筋肉も身体を動かして給金を得る仕事をしていたようには思えない。
平民ではなさそうな自分が、この王宮の庭師として連れて来られたということから、おそらく王宮で働いていた文官なのではないか。
王宮内を歩けば、一緒に働いていた誰かが僕が誰だか分かるのではないか。
そんな単純で明るい予測を立てていたが、ガイロさんに聞いた話によれば、僕は王都の街で、馬が暴れて暴走した乗合い馬車に撥ねられたそうだ。
王宮に連れて来られたのは、たまたま通りかかった王家の馬車の王妃殿下が、事故現場に医師を呼ぶより王宮内の医師に診てもらったほうが早いと判断してくださったためということらしい。頭を打っているのであまり動かさないようがいいと、とりあえず一番近かった庭師小屋まで医師が王宮内から出てきてくださったそうだ。
王妃殿下とは何と慈悲深いお方であろうか。
王宮内を歩けば僕の顔を見知った者に会えると思ったが、それは見当違いだった。
僕は王都の街のどこへ向かっていたのか、持ち物も無いとなると手がかりも無い。
何か思いだすまでは、庭師見習いとして真面目に働こう。
ガイロさんは悪い人ではなさそうだった。
翌朝さっそく、ガイロさんに庭に連れ出された。
朝と言ってもまだ暗く、こんな時間から働くのかと少し驚いた。
「ロンが出ていい庭は、この裏庭だけだ。特に日中は、なるべく小屋や納屋でできる作業をすることになる。日差しが強いからな」
「分かりました」
日に焼けていない僕に、最初は日に当たらない仕事を与えてくれるとは、やはりガイロさんは親切だ。
裏庭に立って花々が揺れているのを見ると、何故だか胸が締めつけられるような思いがした。
記憶を失う前の自分は文官ではなかったかと思ったが、何か花に関わる仕事をしていたのだろうか。
真っ白い花がたくさん咲いている。
薔薇のように、それ一本で成り立つ主役を張るような感じではないが、とても可憐でその白さが目に染みる。
だが、その花の名前を──僕は知らない。
ガイロさんにこの花の名前を尋ねれば、すぐに教えてもらえるかもしれない。
でも、自分で学んでここにある花々の名前を知っていきたい。
花を見て胸が切なくなることなどそう滅多にないのではないか。
ならば庭師見習いという仕事は自分に向いているということだ。
自分自身のことを何も知らない僕はそう感じた。
何も思い出せない今は、今の自分が感じることを大切にして生きていかねばならない。
誰かに救ってもらった命を大切にしながら……。
ガイロさんの背中を小走りで追いかける。
見ず知らずの自分を、たとえそれが断ることのできない命令によるものだとしても面倒を見ようと言ってくれる人に恩返しができるように。
いつか本当の自分の名前を思い出す日が来たら、新しい名で覚えたことを誇れるように。
名も知らぬ白い花が揺れている。
まるでこれからの僕に頑張れと、手を振ってくれているようだった。
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