12 / 21
【何も忘れていなかった】
しおりを挟む身体の中で一番先に目覚めたのは私の耳だ。
この部屋で動く者が立てる小さな音に、目を閉じたまま意識を向ける。
開けられた窓の外の音、風に少しはためくレースのカーテンの音。
恐る恐る目を開ける。
見慣れたベッドの天蓋、クリーム色の布が見えた。
……見慣れた?
どういうこと!? 目覚めたらこれまでの記憶を失っているはずでしょう?
でも……デルフィーナ・クレメンティという自分の名前も、この部屋のことも、そしてどうして眠っていたのかさえ、ひとつも忘れていなかった。
長く眠っていたせいで腰や背中、身体全体が軋むように痛かった。
だけどそんなことを気にしている場合ではない、私はどうすればいいのか……。
三日の眠りの後に目覚めたら、これまで生きてきたすべての記憶が消えているはずなのに、何ひとつ失っていないなんて……。
私はどうすればいいの……。
王妃様はすべて覚えている私をどうするのだろうか。
ロルダン殿下は今どうしているの?
私は生まれて初めてパニック状態の中に放り込まれた。
***
「ごきげんよう、目覚めたようね。気分はどうかしら、フィーナ嬢?」
王妃様は私を『フィーナ嬢』と呼んだ。
フィーナ……これが私の新しい名前なのか。
ということは、王妃様は私が記憶をすべて失ったと思っているのかもしれない。
ならばここから先は、何も覚えていない演技をしなければならないということ。
私にそれができるだろうかと、不安に思う暇もない。
とにかく王妃様のおっしゃることに、その場その場で合わせて応えていかなければならない。
「……ここは、どこなのでしょうか……」
「覚えていないかしら、三日前の王宮前の広場で、乗合馬車の馬が急に暴走したの。
運悪く近くにいたあなたと男性が、その馬車に撥ねられてしまった。
ちょうど王家の馬車で通りかかった私が、フィーナと男性を王宮に連れて帰り医師に見せたのよ。どこかの医者をその場に呼ぶより早いと思って。
ああ、あなたをフィーナと呼んでいるのは、何か名前がないと不便だと思ってそう呼ばせてもらっているだけなの。
申し遅れました、私はマルジョレーヌ・ドロテ。この国の王妃だけれどあなたの記憶にあるかしら」
「……王妃様、ベッドの中からのご挨拶で申し訳ございません。質問をするのは失礼とは承知ですが、その男性は……助かったのでしょうか……」
「かまわないわ、そのまま横になっていて。その男性だけど……こちらは仮にロンと呼ぶことにするわ……少し前に意識を取り戻したものの、頭を強く打ってしまったようで記憶が無いようなの……」
私は混乱しながらも、ものすごい速さで今聞いた僅かな話を脳内で処理していく。
王妃様がお作りになった物語の、記憶を失ったロンという男性というのは、ロルダン殿下なのだろう。
まさか王妃様は最初から、私の記憶ではなくロルダン殿下のほうの記憶を消すおつもりだったの……?
「すみません……私も、よく思い出せず……」
「大丈夫よ。あの事故の場面に偶然私が居合わせたことはきっと神の思し召しでしょうから、あなたの記憶が戻るまで世話をするわ。あれから事故のあった辺りであなたのことを知る者がいないか、人を出して調べているの。何か思い出すまで、私の縁のある領地でゆっくり暮らしたらいいわ。
あなたは何も心配することはないのよ、フィーナ」
「……はい、すべては王妃様の仰せのままに」
「ではフィーナ、しばらくゆっくり休んでね。食事もこちらに運ばせるわ。何か思いだしたらいつでも私を呼ぶように伝えて」
王妃様の背中を見送ると、ずるずるとベッドの中に沈み込む。
頭の中で素早く出来事を整理しようとしても、頭の真ん中に白い靄があるようにぼんやりしている。
私を王妃様の領地に送るとして、クレメンティ家には事前に王妃様が父も納得する物語を作っているに違いないから、そこは心配いらないのだろう。
その時の私は知らなかった。
既に王妃様がクレメンティ公爵家をほとんど終わらせていたことを。
***
目が覚めてから二日が過ぎた。
身体のほうはすっかり元に戻っており、できれば庭を歩いたりしたいところだ。
遅めの朝食を済ませ、侍女が身だしなみを整えてくれる。
三日の眠りにつく前に、腰まであった長い髪を肩より少し長いくらいにバッサリと切っていた。
新しい身分は、少なくとも高位貴族ではないだろうと思っていた。
顏が変わるわけではないので、デルフィーナ・クレメンティを知っている者の前には出られないはずだった。
平民、あるいは爵位の低い貴族で王都から離れたどこかの領地へ。
それならば社交の場に出ることもそうないだろうし、侍女など付かない生活ならば髪は短いほうがいい。
その短くなった髪をハーフアップにして、小さな髪飾りを付けてもらった。
髪型だけで自分ではないように見える。
いつの間にかクローゼットからドレスが消え、気軽なワンピースや丈が短めのデイドレスに変わっていた。もっともそれほどドレスがあったわけでもない。
そのうちの一つのワンピースを選んで着替えると、まるで誂えたようにぴったりだった。
支度が終わった頃に王妃様が部屋を訪れてくださった。
「ずいぶん顔色が良くなったわね、フィーナ。これから話すことは大切なことだから、しっかり聞いてちょうだいね」
「はい、王妃様」
王妃様のお話は、私フィーナの身元について調べたけれど分からなかったという。
それは当然だ、そもそも『事故で記憶を失ったどこかの令嬢』が元々存在しないのだから。
調査は続けるが、ひとまず私を王妃様のご実家のアドルナート公爵家の領地に送ることにしたと。
アドルナート公爵家が所有するチェスティ州のチェスティ・ハウスに私は移り住むことになるという。
そこは王妃様の伯父が管理をしていたが、不幸なことに病の療養中に嫡男を事故で亡くして養子を探している間に伯父も亡くなってしまい、王妃様預かりとなっていたそうだ。
ただ、記憶を亡くし、まだ若い女性である私一人に任せるという訳にはいかないので、新たにチェスティ・ハウスを管理することになる者と私を添わせたいという。
チェスティ・ハウスは、王妃様が私の母を秘密裡に埋葬してくださった墓地のある場所だ。
やはり王妃様は、私のことを母の傍に置いてくださるようで胸が熱くなった。
もしも希望を口にしても良いのなら、デルフィーナとしての人生を捨てた後は、たとえ何も覚えていなくても母の墓の近くで静かに穏やかに暮らしたいと思っていた。
チェスティ・ハウスの新たな管理人と結婚することを受け入れれば、その希望は最高の形で叶いそうだ。
物心がついてから、クレメンティ公爵家の長子として生まれた以上、結婚相手を自分で選べると思ったことはない。
確かにそうなのだが、『王妃の秘薬』を飲んで人生を捨ててもやはり誰かの意思で結婚することになるのだと、そこは少し残念に思ってしまった。
だが、私の返事は最初から決まっている。
「すべて王妃様の仰せのままにいたします。ありがとうございます」
私がそう言うと、王妃様の顏がパッと輝いた。
「そう言ってくれて安心したわ。今ね、応接間にチェスティ・ハウスを管理することになった者を待たせているの。私と一緒に来てちょうだい、二人を会わせるわ」
部屋を出て初めて、眠りにつく前に与えられていた部屋ではなかったことに気づいた。
広さや調度品が同じ感じだったのでまったく気がつかなかった。
そんな驚きを隠しながら王妃様についていく。
結婚相手となるチェスティ・ハウスの新たな管理人が、どれだけ年上のおじ様でも驚いた顔をしてはならないと、自分に言い聞かせながら。
165
お気に入りに追加
4,189
あなたにおすすめの小説
あなたの嫉妬なんて知らない
abang
恋愛
「あなたが尻軽だとは知らなかったな」
「あ、そう。誰を信じるかは自由よ。じゃあ、終わりって事でいいのね」
「は……終わりだなんて、」
「こんな所にいらしたのね!お二人とも……皆探していましたよ……
"今日の主役が二人も抜けては"」
婚約パーティーの夜だった。
愛おしい恋人に「尻軽」だと身に覚えのない事で罵られたのは。
長年の恋人の言葉よりもあざとい秘書官の言葉を信頼する近頃の彼にどれほど傷ついただろう。
「はー、もういいわ」
皇帝という立場の恋人は、仕事仲間である優秀な秘書官を信頼していた。
彼女の言葉を信じて私に婚約パーティーの日に「尻軽」だと言った彼。
「公女様は、退屈な方ですね」そういって耳元で嘲笑った秘書官。
だから私は悪女になった。
「しつこいわね、見て分かんないの?貴方とは終わったの」
洗練された公女の所作に、恵まれた女性の魅力に、高貴な家門の名に、男女問わず皆が魅了される。
「貴女は、俺の婚約者だろう!」
「これを見ても?貴方の言ったとおり"尻軽"に振る舞ったのだけど、思いの他皆にモテているの。感謝するわ」
「ダリア!いい加減に……」
嫉妬に燃える皇帝はダリアの新しい恋を次々と邪魔して……?
【完】愛していますよ。だから幸せになってくださいね!
さこの
恋愛
「僕の事愛してる?」
「はい、愛しています」
「ごめん。僕は……婚約が決まりそうなんだ、何度も何度も説得しようと試みたけれど、本当にごめん」
「はい。その件はお聞きしました。どうかお幸せになってください」
「え……?」
「さようなら、どうかお元気で」
愛しているから身を引きます。
*全22話【執筆済み】です( .ˬ.)"
ホットランキング入りありがとうございます
2021/09/12
※頂いた感想欄にはネタバレが含まれていますので、ご覧の際にはお気をつけください!
2021/09/20
もう尽くして耐えるのは辞めます!!
月居 結深
恋愛
国のために決められた婚約者。私は彼のことが好きだったけど、彼が恋したのは第二皇女殿下。振り向いて欲しくて努力したけど、無駄だったみたい。
婚約者に蔑ろにされて、それを令嬢達に蔑まれて。もう耐えられない。私は我慢してきた。国のため、身を粉にしてきた。
こんなにも報われないのなら、自由になってもいいでしょう?
小説家になろうの方でも公開しています。
2024/08/27
なろうと合わせるために、ちょこちょこいじりました。大筋は変わっていません。
【完結】愛に裏切られた私と、愛を諦めなかった元夫
紫崎 藍華
恋愛
政略結婚だったにも関わらず、スティーヴンはイルマに浮気し、妻のミシェルを捨てた。
スティーヴンは政略結婚の重要性を理解できていなかった。
そのような男の愛が許されるはずないのだが、彼は愛を貫いた。
捨てられたミシェルも貴族という立場に翻弄されつつも、一つの答えを見出した。
裏切りの先にあるもの
マツユキ
恋愛
侯爵令嬢のセシルには幼い頃に王家が決めた婚約者がいた。
結婚式の日取りも決まり数か月後の挙式を楽しみにしていたセシル。ある日姉の部屋を訪ねると婚約者であるはずの人が姉と口づけをかわしている所に遭遇する。傷つくセシルだったが新たな出会いがセシルを幸せへと導いていく。
断る――――前にもそう言ったはずだ
鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」
結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。
周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。
けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。
他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。
(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?
忘れられた妻
毛蟹葵葉
恋愛
結婚初夜、チネロは夫になったセインに抱かれることはなかった。
セインは彼女に積もり積もった怒りをぶつけた。
「浅ましいお前の母のわがままで、私は愛する者を伴侶にできなかった。それを止めなかったお前は罪人だ。顔を見るだけで吐き気がする」
セインは婚約者だった時とは別人のような冷たい目で、チネロを睨みつけて吐き捨てた。
「3年間、白い結婚が認められたらお前を自由にしてやる。私の妻になったのだから飢えない程度には生活の面倒は見てやるが、それ以上は求めるな」
セインはそれだけ言い残してチネロの前からいなくなった。
そして、チネロは、誰もいない別邸へと連れて行かれた。
三人称の練習で書いています。違和感があるかもしれません
【完結】用済みと捨てられたはずの王妃はその愛を知らない
千紫万紅
恋愛
王位継承争いによって誕生した後ろ楯のない無力な少年王の後ろ楯となる為だけに。
公爵令嬢ユーフェミアは僅か10歳にして大国の王妃となった。
そして10年の時が過ぎ、無力な少年王は賢王と呼ばれるまでに成長した。
その為後ろ楯としての価値しかない用済みの王妃は廃妃だと性悪宰相はいう。
「城から追放された挙げ句、幽閉されて監視されて一生を惨めに終えるくらいならば、こんな国……逃げだしてやる!」
と、ユーフェミアは誰にも告げず城から逃げ出した。
だが、城から逃げ出したユーフェミアは真実を知らない。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる