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第四部 第一章 「民衆に供する国」に集うまで

74話 異変②

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「シグルズ。お前、腕のあざのこと……どうして私に黙っていたんだ」


 シグルズの気が抜けていた。
 ネフィリムはシグルズの腕から逃れると、掛け布を外してその腕を掴んだ。
 くっきりと浮かぶ左腕の曲がりくねった黒い痣。

 ラインの乙女ライン・ユニットと戦っていたときは消えていたが、しばらくしてネフィリムと体を重ねたときに再び浮かび始めた。
 痣は最近になってまた大きくなっている。

 腕を掴み、痣を見るネフィリムの顔は苦痛に歪んでいた。涙を堪えているようでもある。

「これは……この痣は」
「ああ、変異の証だろう」

 ネフィリムが敢えて言わなかった言葉の先をシグルズが述べた。

「それに、俺とネフィルの愛の証でもある」
「何を世迷い事を……。そんな表現でごまかしても無駄だ。これは良くないものだ。お前の魂を喰っている証拠だ!」

 先ほどまでと立場が逆転していた。
 シグルズの心音は落ち着き、ネフィリムの額には恐怖による汗が浮かんでいる。


「ネフィル」


 笑って、目の前で瞬く黒い瞳を覗き込む。
 ああ、俺の好きな者の顔だ。

「この痣は俺と君を守る力の証だ。これがあれば俺は騎士としての誓いを果たすことができる。お前に害をなすもの全てを消し去ることができる。嬉しくてたまらないよ。こんなに素晴らしいことがあるだろうか?」

「シグルズ……やっぱり、お前は変だよ。自分が何を言っているか分かっているのか?」

 俺の顔を映す黒い瞳が不安に歪む。

「泣くなネフィル。何も不安に思うことなんてないんだ。俺がずっと傍にいて、お前を守ってやるのだから」

 目の前の彼に泣き止んでほしくて、シグルズは優しく口づける。
 少しずつ少しずつ、相手の境界を侵食するようにそれを深くしていく。

 彼を不安にしているものが理性なのであれば俺はそれを取り除いてやる。
 快楽でいっぱいにして、心地よさの海に突き落とす。

 この純粋で美しい存在を守ってやれるのは俺だけ。
 そう思えば、シグルズを苛んでいた悪夢も、痣の不快感もすべてが消えていく。


 ネフィリムの持ってきた湯を含んだ布は、床に落ちていた。





 ◇





 翌朝、寝坊したネフィリム――寝坊の原因はもちろんシグルズである――よりもだいぶ早く身支度が終わったシグルズは、久しぶりにグラムの毛並みを整えていた。

 長くなった毛を刈り取り、ブラシで丁寧に整えてやる。愛馬は気持ちよさそうに尻尾を振った。

「バナヘイムまでもう少しだ。そこで交渉がまとまればヴェルスング邸に戻れるぞ。グラムももう少しだけがんばってくれ」

 グラムは真っ黒な瞳で主を見つめた。
 乱暴な馬だと言われているが、シグルズに対しては穏やかで凪いだ視線を向けてくる。

「……いつも守ってくれてありがとう、グラム」

 するとそれまでの穏やかさが一変し、その長い舌をシグルズの顔にべちょっと載せてベロベロと力一杯舐め始めた。

「んぶっ!うっぷ……こらグラム……! 息が、できないだろ……!」

 笑いながら抗議するシグルズに対し、グラムには手を抜く気配はなかった。

 わははと大笑いする馬主の様子を、少し前からうまやの外で眺めている男がいることにもシグルズは気付いていない。





「ほお。確かにお前にだけ異常に懐いているのだな、この馬は」



「―――は?」



 突然、声が聞こえた。
 調子に乗っていたグラムの顔をぐいとのけたシグルズの前には、腕を組んで小屋の壁によりかかっている中年の男。



「―――はぁ?」



 シグルズはもう一度素っ頓狂な声を出した。


 見覚えのある……いや、ありすぎる男の姿だった。
 旅人風の服装をしているが見間違えるはずもない。とはいえこんなところにいるはずもない。



 シグルズの戸惑いをよそに、ゲオルグは涎まみれになっているその顔を見て大笑いした。


「色男も台無しだな! 早く顔を洗ったほうがいい、戦乙女ヴァルキリーの恋も覚めるぞ」



 都市連邦バナヘイムまであと2日というところの宿屋。
 そこで落ち合ったのは、帝国の皇帝だった。



 ◇



 顔を洗ったシグルズと身なりを整えたネフィリムは、うさんくさい髭眼鏡の男をじっと見つめていた。


「バナヘイムに着く前にお前たちに落ち合えればと思っていたんだ」
「いや、あの」
「ああ、気にしないで結構。帝国にはフギンと、がいる。むしろ今戦争でも始まってくれたほうが帝国にとってはラッキーかもしれない」

 何も質問していないのにゲオルグは勝手にベラベラと話す。
 とはいえ、このときにもシグルズは姿の見えない近衛兵の気配を付近で3~4人ほど確認していた。

 皇宮近衛兵は帝国皇宮を守る騎士団の中でも優秀な者が選ばれる。

 その中でも皇帝直属の近衛特兵ロイヤル・ガードは滅多に姿を現さず、ただ皇帝を守るために存在する近衛の中の特別な護衛と言われていた。


 ネフィリムはジト目のまま皇帝に常識的な質問をした。

「普通、皇帝という地位のお方は皇宮から一歩も外に出ないと思いますが」

「まあ、そのあたりの理由はおいおい話すさ。ということでシグルズよ、ネフィリム殿とともに俺のこともしっかり守ってくれ。俺が死んだらお前も処刑だからな」


 顎髭を指で弄りながら話すゲオルグはとても機嫌が良さそうだった。


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