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第四部 第一章 「民衆に供する国」に集うまで
74話 異変①
しおりを挟む『シグルズ……私の、たった一人の息子。どうか健やかに』
それはいつもの夢ではなかった。
シグルズが深夜、嫌な気分で起きるときに見るのは大抵がジークフリードを探して深い森の中を彷徨う子どもの頃の自分の夢だった。
だが今回は違う。
「義父上……?」
この夢を見るのは初めてだ。
起こした上半身から大量の寝汗が伝った。
額からも汗が止まらず、長いまつげもそれをとどめ切れなかった。侵入した一滴が眼球を刺激する。
目を閉じ、眉間を指で強く揉む。
大帝動乱。
現皇帝ゲオルグが8年前に起こした、前皇帝や当時の旧政権派だった貴族高官たちを表舞台から退場させた流血革命。
シグルズはその動乱の際、ヴェルスング家当主代理として旧政権派貴族の制圧に向かった。
帝国の衰退を招いたとされる旧政権派。
その中には「前皇帝の恩義に報いる」として単身ヴェルスング家を離反した義父、ジークムント・フォン・ヴェルスングの姿もあった。
その義父にとどめを刺したのはシグルズだ。
今でも思い出す。
血だらけの義父を刺した短剣・慈悲の感覚。
その感触を忘れたくて、シグルズはベッドの横に手を伸ばした。
そこにあるはずの熱がない。
ベッドの中はすでに冷たかった。
「……ネフィル? いないのか?」
弱々しい声で室内に問うても返事はない。シグルズの息が上がる。
昨夜まで確かに隣に存在したはずの彼がいない。
「ネフィリム……!」
シグルズの切羽詰まった声がもう一度その名前を呼んだとき、部屋のドアが開いた。
湯を張った桶と布を持ったネフィリムだった。
「シグルズ、起きたのか」
わずかに驚いた様子で寝台へと近づくネフィリム。
「だいぶ魘されていたぞ。寝汗もひどかったから体を拭いてやろうと思って」
銀色の桶の上で湯に浸した布を絞ったネフィリムがシグルズの首元にそれを当てると、心地よく温められた布の温度が冷めた体に沁みた。
思わずほう、と息を吐く。
「―――起きたとき、隣に君がいないからどこへ行ったのかと思った」
「またそれか」
ネフィリムが苦笑する。彼の体を拭く手つきはシグルズを労わる慈愛に満ちていた。
「私はいなくならない。前にも言っただろう?」
「分かっている。分かってはいるが」
いや、きっと自分は、本当の意味では分かってはいない。
シグルズはネフィリムを強く抱きしめた。
ネフィリムが眉をひそめる。「これではお前の体が拭けない」と抗議されたが、シグルズはその手を放すことはなかった。
「シグルズ……?」
「今だけ。今だけこうさせてくれ。君の体温を感じていればじきに落ち着く」
短剣の感覚を忘れるまで。
自分を愛してくれた人を、自分の手で殺した感触が消え去るまで。
「俺」を求めてくれる君の体温が「俺」の存在を安定させる。
部屋には2人の息遣いだけが聞こえている。ネフィリムがすこしだけ大きく息を吐いた。
「……シグルズ。お前、最近おかしくないか」
「おかしいさ。おかしいくらいに君に夢中だ」
「いや……そういうことではなく、だな」
ネフィリムは抱きしめられたまま、シグルズと目を合わせることなく言葉を紡ぐ。
「グルヴェイグにいたころから、まるで何かに追い詰められているように感じる」
そうだろうか。
ネフィリムの言葉が意外だった。
シグルズはむしろ高揚していたのだ。
変異体を倒すことができた。
ネフィリムの戦乙女の力を確認することができた。
そして、自分は新たな力を得た。
黒く染まったノートゥングの剣。
これがあればネフィリムを守ることができる。
自分を愛し、自分が愛する存在を守る確証が持てたのだ。
これほど嬉しいことがあるだろうか。
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