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第一部 第一章 騎士と戦乙女が出会うまで
03話 現神か男娼②
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シグルズは戦乙女を見た。
彼女――彼――は逃げることなく、寝台の横に立っていた。
ローブは整えられていた。腰にまで届く黒髪を後ろ手に結ったポニーテールがかすかに揺れている。
「突出した帝国軍の将か」
女にしては声が低く、男にしては声が高い。
目の前で兵士が惨殺され、次は自分が殺される番だと分かっているはずなのに、何の動揺も悟らせなかった。
「お前の兵士たちは口々にお前の名前を叫び、称えながら死んでいった。現神とはどんな存在なのか一目見たくて命を投げ出す覚悟で来てみたわけだが―――……」
シグルズの灰色の目が昏くなる。拳が怒りで震える。
「ただの男娼ごときを崇拝しているのか、ニーベルンゲンの民は」
戦乙女の眉間に皺が寄る。目元に険しさが増す。
だが、彼が発する言葉は表情とは裏腹に、力なく諦観に満ちていた。
「――戦乙女信仰は以前から根付いていたものだ。私が意図的に広げられるものではない」
まるで他人事のような発言。
黒い目には明らかに怒りを宿しているのに、出てくる発言と感情が一致していない。
シグルズは違和感を覚えた。
「……お前は、本当にニーベルンゲンの戦乙女なのか」
そもそも戦乙女なのに男性というのがおかしい。
もしかしたら影武者の可能性もある。
そうなればシグルズは見事に罠にハマったわけで、このテントを出る頃には生きてはいないだろう。
「そうだ。残念ながらな」
戦乙女は表情を変えなかった。
「驚いたか、帝国の将よ。自国の兵を見殺しにしながら男根に喘ぐ現神。あまつさえ女でさえないこの私に」
突然はじまった自虐に、今度はシグルズが戸惑う番だった。
なんだこいつは。
「戦乙女など、私がなりたいと望んだわけでもない」
シグルズは怒りで頭が真っ白になった。
子どもだ。
戦場とは、さきほどまで一緒に食事をしていた人間が一瞬にして死ぬ地獄。
現に、バオムはもうこの世にはいないのだ。
それを、まるで拗ねた子どものように話す。
守りたい者を守ることができない苦しさなど知る由もない現神。
これは……戦神として祀り上げられただけのただの子どもなのだ。
「……お前が心を煩わせずとも、この戦いはじきに終わる。ニーベルンゲンは……」
「クソガキが……!」
「なに?」
綺麗に整えられた黒い眉がひそめられた。
こいつも王族なのだろう。
汚い言葉は耳にしたことがないのかもしれない。
「お前のようなお飾りの人形は戦場に立つ資格はないと言っているんだ」
「………」
「ハリボテの戦神なんぞのために血を流し続ける貴国の民が哀れだ。人間の生きる熱を感じ取れない者は戦場に立つ資格はない」
思わず口をついて出た言葉。
感情的になってしまった自分を諫めたが遅い。
自分は帝国の人間であり、皇帝に忠誠を誓う騎士。
ニーベルンゲンがどうなろうが、ましてやその国で神と崇められている青年がどういう神経をしていようが知ったことではない。
自分の失態に舌打ちし、シグルズは踵を返す。
そろそろ前線で戦っている敵兵もこちらへ戻ってくる頃だろう。戦乙女が言ったように、さっさと彼を捕えるか殺してしまうべきだった。
だが、こんな子どもを殺して何になるのかという思いが生まれた今、シグルズは戦乙女を手にかける気にはなれなかった。
信仰対象がこれでは、遅かれ早かれニーベルンゲンは衰退するだろう。
今、自分が前線に戻ればまだ戦線を立て直すことができる可能性はある。
「……おい」
まさか呼び止められるとは思わなかったのでシグルズはテントを出るタイミングを逸した。
「私は丸腰だぞ。殺さないのか」
戦乙女《ヴァルキリー》は抑揚の乏しい声で問う。
確かにここで彼を殺せばニーベルンゲン軍は壊滅するだろう。
それくらいはシグルズにも分かっている。
シグルズは怒りを込めてその二つの黒曜石を真っすぐに見返した。
「お前のような子どもなど、手にかける価値もない」
シグルズがそう言うと、彼は目を伏せて泣きそうな表情を作った。
「そう……か」
希望が断たれたような彼の顔。その目の黒色は虚無に満ちていた。
シグルズがそのテントを出る間際、目に入ったのは天体観測用の機器と帝国語の本、複数の地図。
別に軍師がいる可能性も、もちろんある。
だが、現神と崇められる戦乙女のテントが他の兵士と共用であることは考えづらかった。
もしや。
「―――策を練っていたのは、お前か?」
シグルズは問うた。が、戦乙女は答えなかった。
「………」
帝国との戦力差を冷静に分析し、帝国内の貴族の力関係すら把握して、非道と言われる毒薬を躊躇わず用いる。
一瞬で終わると言われていた戦争を2年も続けさせた策の数々を、この青年が?
軍師であり、男娼のような表情を見せ、現世に存在する神として崇められる戦乙女。
一体彼の本当の顔はどれなのだろう。
「――殺してくれれば、よかったのに」
シグルズがうなだれる戦乙女に対して言葉を発しようとしたとき、先ほど駆け抜けてきた前線の戦場付近で大きな喧騒が上がった。
わずかに迷ったが、シグルズはテントを出てグラムに跨ると、急いで戦場に戻った。
最後に絞り出すように発された戦乙女の言葉が、いつまでも頭に残っていた。
彼女――彼――は逃げることなく、寝台の横に立っていた。
ローブは整えられていた。腰にまで届く黒髪を後ろ手に結ったポニーテールがかすかに揺れている。
「突出した帝国軍の将か」
女にしては声が低く、男にしては声が高い。
目の前で兵士が惨殺され、次は自分が殺される番だと分かっているはずなのに、何の動揺も悟らせなかった。
「お前の兵士たちは口々にお前の名前を叫び、称えながら死んでいった。現神とはどんな存在なのか一目見たくて命を投げ出す覚悟で来てみたわけだが―――……」
シグルズの灰色の目が昏くなる。拳が怒りで震える。
「ただの男娼ごときを崇拝しているのか、ニーベルンゲンの民は」
戦乙女の眉間に皺が寄る。目元に険しさが増す。
だが、彼が発する言葉は表情とは裏腹に、力なく諦観に満ちていた。
「――戦乙女信仰は以前から根付いていたものだ。私が意図的に広げられるものではない」
まるで他人事のような発言。
黒い目には明らかに怒りを宿しているのに、出てくる発言と感情が一致していない。
シグルズは違和感を覚えた。
「……お前は、本当にニーベルンゲンの戦乙女なのか」
そもそも戦乙女なのに男性というのがおかしい。
もしかしたら影武者の可能性もある。
そうなればシグルズは見事に罠にハマったわけで、このテントを出る頃には生きてはいないだろう。
「そうだ。残念ながらな」
戦乙女は表情を変えなかった。
「驚いたか、帝国の将よ。自国の兵を見殺しにしながら男根に喘ぐ現神。あまつさえ女でさえないこの私に」
突然はじまった自虐に、今度はシグルズが戸惑う番だった。
なんだこいつは。
「戦乙女など、私がなりたいと望んだわけでもない」
シグルズは怒りで頭が真っ白になった。
子どもだ。
戦場とは、さきほどまで一緒に食事をしていた人間が一瞬にして死ぬ地獄。
現に、バオムはもうこの世にはいないのだ。
それを、まるで拗ねた子どものように話す。
守りたい者を守ることができない苦しさなど知る由もない現神。
これは……戦神として祀り上げられただけのただの子どもなのだ。
「……お前が心を煩わせずとも、この戦いはじきに終わる。ニーベルンゲンは……」
「クソガキが……!」
「なに?」
綺麗に整えられた黒い眉がひそめられた。
こいつも王族なのだろう。
汚い言葉は耳にしたことがないのかもしれない。
「お前のようなお飾りの人形は戦場に立つ資格はないと言っているんだ」
「………」
「ハリボテの戦神なんぞのために血を流し続ける貴国の民が哀れだ。人間の生きる熱を感じ取れない者は戦場に立つ資格はない」
思わず口をついて出た言葉。
感情的になってしまった自分を諫めたが遅い。
自分は帝国の人間であり、皇帝に忠誠を誓う騎士。
ニーベルンゲンがどうなろうが、ましてやその国で神と崇められている青年がどういう神経をしていようが知ったことではない。
自分の失態に舌打ちし、シグルズは踵を返す。
そろそろ前線で戦っている敵兵もこちらへ戻ってくる頃だろう。戦乙女が言ったように、さっさと彼を捕えるか殺してしまうべきだった。
だが、こんな子どもを殺して何になるのかという思いが生まれた今、シグルズは戦乙女を手にかける気にはなれなかった。
信仰対象がこれでは、遅かれ早かれニーベルンゲンは衰退するだろう。
今、自分が前線に戻ればまだ戦線を立て直すことができる可能性はある。
「……おい」
まさか呼び止められるとは思わなかったのでシグルズはテントを出るタイミングを逸した。
「私は丸腰だぞ。殺さないのか」
戦乙女《ヴァルキリー》は抑揚の乏しい声で問う。
確かにここで彼を殺せばニーベルンゲン軍は壊滅するだろう。
それくらいはシグルズにも分かっている。
シグルズは怒りを込めてその二つの黒曜石を真っすぐに見返した。
「お前のような子どもなど、手にかける価値もない」
シグルズがそう言うと、彼は目を伏せて泣きそうな表情を作った。
「そう……か」
希望が断たれたような彼の顔。その目の黒色は虚無に満ちていた。
シグルズがそのテントを出る間際、目に入ったのは天体観測用の機器と帝国語の本、複数の地図。
別に軍師がいる可能性も、もちろんある。
だが、現神と崇められる戦乙女のテントが他の兵士と共用であることは考えづらかった。
もしや。
「―――策を練っていたのは、お前か?」
シグルズは問うた。が、戦乙女は答えなかった。
「………」
帝国との戦力差を冷静に分析し、帝国内の貴族の力関係すら把握して、非道と言われる毒薬を躊躇わず用いる。
一瞬で終わると言われていた戦争を2年も続けさせた策の数々を、この青年が?
軍師であり、男娼のような表情を見せ、現世に存在する神として崇められる戦乙女。
一体彼の本当の顔はどれなのだろう。
「――殺してくれれば、よかったのに」
シグルズがうなだれる戦乙女に対して言葉を発しようとしたとき、先ほど駆け抜けてきた前線の戦場付近で大きな喧騒が上がった。
わずかに迷ったが、シグルズはテントを出てグラムに跨ると、急いで戦場に戻った。
最後に絞り出すように発された戦乙女の言葉が、いつまでも頭に残っていた。
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