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悪い予感

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 マチルダはひょっとすると自分の耳がどうにかなったのではないかと思いたかった。
「馬車がない? 」
 再度の問いかけにも、玄関先にいたブライス家の家令は表情筋一つすら動かさず、淡々と「はい」とだけ答えた。
 招待客が退けた屋敷の玄関先は、つい一時間程前の喧騒など嘘のように静まり返っている。
 それぞれの屋敷に帰る者、あるいはこのまま翌朝まで用意された部屋に留まる者。その二択以外にない。
 家令が最後の客を見送ったのを確かめてから、マチルダは駆け寄り、問い詰めた。
「そんなわけないわ! 私は確かに馬車でここに来たのよ! 」
 ロイに示された部屋から抜け出したマチルダは、帰宅の客に紛れ込んだ。
 ロイはきっと、この屋敷のどこかで泊まっている。何となくの確信だ。
 そうなれば、余計に惨めになる。
 今頃、ベッドでは奥様と愛を交わしているのだと思うと。
 とにかく早くここを出て行きたい。
 だが、馬車が見当たらず、順番は後回し。それを五篇は繰り返しただろうか。
 最終の客の馬のいななきを聞いたマチルダは、呆然と立ち尽くした。
「ですから。アニストン子爵家のマチルダ様でしょう? 」
「そうよ。アニストン家のマチルダよ」
「でしたら、馬車はございません」
 何度も繰り返した台詞。
 六回目で、マチルダはさらに問い詰めた。
「どうして? 誰かが間違えて乗って帰られたのかしら? 」
「いいえ」
「盗まれた? 」
「いいえ」
 家令もいい加減に同じ台詞にうんざりしていたのだろう。
 とうとう種を明かす。
「私の主人が馬車を帰らせました」
 きっぱりと答えた。
 マチルダはその場で石化してしまった。
「ブライス伯爵が? どうして? 」
 全く面識のない伯爵が、何故、そのような傍若無人な振る舞いをするのだろうか。
「マチルダ様は、今晩は屋敷にお泊まりになると」
「どうして伯爵が勝手に決めるのよ」
「マチルダ様も同意されたと」
「するわけないでしょ! 」
 マチルダは顔を真っ赤にしていきりたつ。
 上背があり、迫力のある美人。
 常に冷静であれ、を信条とする家令も、さすがに顔つきを強張らせた。
「そもそも、私は伯爵とは口すらきいてないわ」
「それは何かのお間違いではありませんか? 」
 咳払いで気を整えてから、家令は返答する。
「間違いなんかじゃない! 伯爵とは話すらしていないわ! 」
「しかし……」
 さすが上級貴族に雇用されているだけあって表情にこそ出さないが、家令が内心いらついているのは、目元の痙攣でわかった。
「とにかく。主人の命令です。マチルダ様、この屋敷に留まりください」
 ピシャリと家令は主人からの命令を口にした。


 マチルダの中の疑惑が膨らんだ。
 伯爵はやはり、マチルダが彼の名を勝手に使ったことを問いただすつもりだ。
 油断させておいて、鎧が剥がれた隙を逃さず断罪する。
 ロイは彼の友人だが、マチルダは違う。
 マチルダは伯爵にとって、赤の他人だ。
 赤の他人が伯爵を謀ったのだ。
 マチルダの脳裏に、断頭台で血潮を吹く己の首が過ぎった。


「おい。あれはアニストン家の氷の悪女じゃねえか? 」
「まさか」
 二階のテラスにて夜風に当たっていたジョナサン卿ケイム・ローカーは、ちょうど屋敷の門から駆け出た女の後ろ姿を見つけた。
 ローブを羽織りながら、妻のアリアがテラスへ出るなり、苦笑いする。
「いや。間違いねえ。あの髪、あの腰回り、尻の肉のつき方。おそらくあの娘だ」
「女性の体をよくご存知ですこと」
「いや、誤解だ。俺は他の女には見向きもしねえよ」
「疑わしいわね」
「俺はお前の小説執筆の参考になればと、遠巻きにだな」
「言い訳がましいわよ、ケイム」
「そもそも俺は、こんな野蛮なパーティーには来たくなかったんだ。お前が執筆の資料が欲しいからなんて駄々を捏ねるから」
「あら。噴水の前で散々私にいかがわしいことしたくせに? 」
 ジロリとアリアは夫を横目した。
 ジョナサンはわざとらしい咳払いで誤魔化す。
 馬車ではなく、ドレスのまま、彼女は舗装された道を走っている。道に配置されたランプの光だけでは足元が心許ないはずなのに、かなり足が速く、もう豆粒ほどになってしまった。
「それにしても、お一人でお帰りに? 馬車もなく? 」
「確かに妙だな」
「念の為、伯爵にお知らせした方が良さそうね」
「三男じゃねえのか? 」
「あなただって、もうわかってるんでしょう? あの方がブライス卿の想い人だって」
「まあな。あんなに鼻の下伸ばしてりゃな」
「だったら、早くお知らせしないと。夜道は危ないわ。万が一、川にでも落ちたら」
「ああ。そうだな。あの男のことだから、女が未だに自分の腕枕にいると安心して、眠りこけてそうだしな」
 ジョナサンは深刻な顔で、詰めの甘い友人をこき下ろした。
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