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野獣の罠

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「大丈夫か、お嬢さん? 」
 大広間で再びロイと出会でくわしでもしたら、人目も憚らず声を上げてわんわんと泣き喚いてしまう。
 マチルダは人の気配を避け、廊下の片隅に設えられた革張りのソファに、ぐったりと身を沈めていた。
 そんなときだ。唐突に見知らぬ男性から声を掛けられたのは。
「かなり顔色が悪い。部屋で休んだ方が良さそうだ」
 灰色の髪に天然パーマが掛かり野生的に跳ねた、小太りの大柄な男性だ。財産持ちであることが一目でわかるのは、彼の指に嵌るエメラルドやルビー、翡翠と言った大ぶりな宝石の指輪と、胸元でギラギラと主張する氷の結晶を模したダイヤモンドのブローチから。
「い、いえ。私は」
 マチルダは余程、酷い顔をしているのだろう。
 泣き腫らした目、頬には涙の跡が残って、せっかくブライス伯爵から贈られたドレスも皺だらけでくしゃくしゃ。
 異常をきたしているように人の目に映る。
 品性などあったものではない。
 マチルダはたまたまち赤面し俯いた。
 男性は中腰になると、ジロジロと不躾なくらいにマチルダの顔を覗きながら、猫撫で声で問いかけてきた。
「あなたはロイの愛人? 」
「違います! 」
 ヒステリックに叫んで即答する。
 灰色髪をした男性は腕を組み、ふむと鼻から息を吐く。
「そうか。テラスで何やら揉めていたから」
「もう揉め事は終わりました」
 バッチリ見られていたことに、ますますマチルダの顔は真っ赤に染まった。
 誰にも見られていないなんて、ありえない。
 互いに怒鳴り散らし、鋳物の重いガーデンテーブルとチェアが横倒しになる派手な音を立てたのだから。
「そう。あなたに乱暴を働かないかと心配していたんだが」
「彼は紳士ですから」
「ほう。あの男が、紳士」
「私には大変優しくしてくださいました」
「優しくと。ほう。あの男が」
 面白そうに男性は「ほう、ほう」を連発する。
 まるで梟だ。
 確かにこの男性は、コキコキと首を倒したり、目をギョロリとさせたりと、梟に似ていなくもない。
「やはり、部屋で休んだ方がよろしい」
 男性は、廊下の先へと促す。
 壁に面して五つ、ドアが等間隔に並んでいる。
「なに。私はこれでも紳士の端くれ。あなたに危害は加えませんよ」
 貴族の男性には、「放蕩家」や「好色漢」などと、金に明かせてやりたい放題の連中がいる。部屋に連れ込まれたら最後、めちゃくちゃに犯され、孕まされたりといった事例も多い。大抵、被害に遭った娘よりも身分の高い相手だから、揉み消され、泣き寝入りが関の山。
 警戒心丸出しで睨みつけるマチルダに、気を悪くする素振り一つ見せず、男性は喉を鳴らした。


 マチルダは男性の本質を見極めることが下手くそだ。
 世間知らずと言っても良い。
 二十年間で親密になる男性がロイしかいなかったため、彼が基準となっている。
 ロイは紳士である。
 だが、世の中の男性全てがロイに当てはまるとは限らない。
 マチルダが部屋のドアノブを捻ったとき、背後の男がゾッとするように目を光らせているなど、まだ彼女は知らない。


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