12 / 24
第一章
未来への一手(1)
しおりを挟む
研修生たちが消灯時間を迎えたころ――。
佐久間は研修施設にほど近い古風な喫茶店のカウンターに座っていた。
老紳士が営むその店は、本来ならこんな時間まで開いているとは思えない。佐久間の隣に座る男が無理を言って貸し切ったのだろう。
男がスプーンで豪快につついているのは大盛のチョコレートパフェだった。
男の風貌とのギャップ差。そして同年代からの忠告の意味を込めて、佐久間は堪えきれずに一言呟いた。
「おい日下、自分の歳を考えろ。糖尿になるぞ」
「わかっちゃいるんだがなぁ。けど悩み事があるとどうしても甘いモンが欲しくなっちまう。昔っからの癖だから我慢できねぇのさ」
「ああ。だからお前、結婚前に激太りしていたのか」
「あん時はプロポーズの言葉がぜんっぜん思いつかなくてな……」
二十年の時を経てようやく解決した謎に「なるほど」と小さく呟いてから、佐久間は逃げるようにパフェから目を逸らした。見ているだけで口の中が甘ったるくなる。
マスターにブレンドコーヒーを注文して口の中をリセットする。どういう訳か日下の選ぶ店は喫茶店に限らずコーヒーが旨い店ばかりだ。
「それで、今回は何に悩んでいる?」
佐久間が日下と話をするとき、最初から本題に入ることはほとんどない。
世間話が好きな日下はのらりくらりと佐久間の追及をかわしながら、結局は世間話に花を咲かせるのだ。
ならばと、最初から世間話に付き合うことにしたのは、長い付き合いの佐久間がたどり着いた一つの答えだった。
「そりゃ――次の社長選さ」
おかわりのコーヒーを飲もうとしていた佐久間の手がピタリと止まった。
マスターの方をちらりと見ると何かを察したようにするりとバックヤードへ下がっていった。
なるほど、日下が選ぶ店なだけはある。
しかし世間話をと思っていたのに……。こちらも重要な話ではないか。
「権堂社長の退任の話。ただの噂ではなかったのか」
「残念ながらな。発表こそまだ先になりそうだが、おそらく十月の取締役会で次のトップが決まるだろうな」
「トップが代わる? 権堂社長は会長の立場に着かれないのか?」
「本人にその意思はねぇらしい。体力的にも精神的にも厳しいとさ。とはいえあれほどの人だ。相談役として席は残させてもらうさ」
「妥当だな」
佐久間は改めてコーヒーに口をつける。
味も素晴らしいが、なにより気持ちが落ち着くいい香りだ。
「……次の社長選。お前も出るつもりなのか」
日下もコーヒーを一口啜り、一拍置いてから「ああ」と答えた。
「榊の野郎が最期に残していきやがった注文だからな。遺言だと思って叶えてやるのが俺の役目だと思う訳さ」
榊――。
その名を久々に聞いて、佐久間は一人の青年を思い出した。
いや、違う。そもそも今日は彼のことを日下に問いただす為に、この呼び出しに応じたのだ。
それによって面倒なことを頼まれるとわかっていながら。
「確かに新社長を選ぶなら今年が一番なのはわかるが……」
今年は冬季オリンピックとワールドカップという世界を巻き込んだ祭典が合わせて開かれる年であり、日本人の活躍次第でテレビ局の視聴率は天と地ほどの差が生まれる。
それに合わせて試合の再放送や名プレーの総集編の視聴率も上がるため、この年の視聴率はスポーツ放映権を手にしている局が根こそぎかっさらっていく傾向がある。よって日ノ丸テレビのような一般的なテレビ局が年間視聴率でトップに立つことはほとんど不可能となるのが通例だ。
この機会にトップを変え、翌年から新体制で改革を進めていくのは企業戦略として決して悪くない手だった。
が、しかし――。
「このまま行けば副社長との一騎打ちか……」
「そうなるだろうな。ほんっと嫌になるぜ」
日下は茶化した様子で「ったく」と吐き捨てた。
「日ノ丸テレビで一番のキレ者と真っ向勝負だぞ。榊が無茶を言うのは毎度のことだったが、今回の苦労は今までと比べ物にならねぇよ」
心底迷惑そうに。けれど、どこか嬉しそうに。
榊三是への愚痴を並べる日下の姿は、佐久間にはどこか懐かしい。
榊の死から五年。
日ノ丸テレビから彼が消えた影響は計り知れないほど大きかった。
そしてそれは日下にとっても、佐久間にとっても、同じだった。
「思い出すよなぁ。あいつの無茶な注文を現場で叶えるのがお前で。現場以外で叶えるのが俺だった」
「思い出すも何も、俺は一日として忘れたことがない」
「……そうか。まぁ、そうだよな」
小さく呟いた日下は佐久間と目を合わせないまま、すぅっと息を吸った。
「頼みがある佐久間。もう一度、現場に戻ってくれねぇか」
絞り出すように告げられた言葉に、やっときたか――佐久間はそう思った。
実のところ、これが本題だと最初からわかっていたのだ。
だから……カップに残っていたコーヒーを飲み干してから、何と答えたものかと考える。
「一度、断ったはずだが?」
「ああ……。あの時のことは今でもすまねぇと思ってる。視聴率低下に歯止めをかけたい一心でお前に頼ろうとしちまった。お前の考えや想いを察しようともせずにな」
本当に悪かった。
日下はもう一度、頭を下げる。
「だけど今回は違うんだ佐久間。強い日ノ丸テレビを取り戻すために。榊が居た頃の栄光を取り戻すために。もう一度お前の力が必要なんだ」
以前は榊の抜けた穴を塞ぐ後手だった。
しかし今回は、未来への一手だと日下は言う。
榊の無茶難題をなんだかんだと文句を言いながらも全て叶えてきた日下がここまで言うからには、おそらく佐久間には考えもつかない壮大な計画があるのだろう。
その計画には少なからず興味が沸いた。それに榊の最後の願いを叶えようとする日下を助けてやりたいとも思う。
しかし、これだけは言っておかなければならない。
「……俺は、榊隊長にはなれん」
「わかってるさ」――日下は苦笑いを浮かべて、頷いた。
佐久間は研修施設にほど近い古風な喫茶店のカウンターに座っていた。
老紳士が営むその店は、本来ならこんな時間まで開いているとは思えない。佐久間の隣に座る男が無理を言って貸し切ったのだろう。
男がスプーンで豪快につついているのは大盛のチョコレートパフェだった。
男の風貌とのギャップ差。そして同年代からの忠告の意味を込めて、佐久間は堪えきれずに一言呟いた。
「おい日下、自分の歳を考えろ。糖尿になるぞ」
「わかっちゃいるんだがなぁ。けど悩み事があるとどうしても甘いモンが欲しくなっちまう。昔っからの癖だから我慢できねぇのさ」
「ああ。だからお前、結婚前に激太りしていたのか」
「あん時はプロポーズの言葉がぜんっぜん思いつかなくてな……」
二十年の時を経てようやく解決した謎に「なるほど」と小さく呟いてから、佐久間は逃げるようにパフェから目を逸らした。見ているだけで口の中が甘ったるくなる。
マスターにブレンドコーヒーを注文して口の中をリセットする。どういう訳か日下の選ぶ店は喫茶店に限らずコーヒーが旨い店ばかりだ。
「それで、今回は何に悩んでいる?」
佐久間が日下と話をするとき、最初から本題に入ることはほとんどない。
世間話が好きな日下はのらりくらりと佐久間の追及をかわしながら、結局は世間話に花を咲かせるのだ。
ならばと、最初から世間話に付き合うことにしたのは、長い付き合いの佐久間がたどり着いた一つの答えだった。
「そりゃ――次の社長選さ」
おかわりのコーヒーを飲もうとしていた佐久間の手がピタリと止まった。
マスターの方をちらりと見ると何かを察したようにするりとバックヤードへ下がっていった。
なるほど、日下が選ぶ店なだけはある。
しかし世間話をと思っていたのに……。こちらも重要な話ではないか。
「権堂社長の退任の話。ただの噂ではなかったのか」
「残念ながらな。発表こそまだ先になりそうだが、おそらく十月の取締役会で次のトップが決まるだろうな」
「トップが代わる? 権堂社長は会長の立場に着かれないのか?」
「本人にその意思はねぇらしい。体力的にも精神的にも厳しいとさ。とはいえあれほどの人だ。相談役として席は残させてもらうさ」
「妥当だな」
佐久間は改めてコーヒーに口をつける。
味も素晴らしいが、なにより気持ちが落ち着くいい香りだ。
「……次の社長選。お前も出るつもりなのか」
日下もコーヒーを一口啜り、一拍置いてから「ああ」と答えた。
「榊の野郎が最期に残していきやがった注文だからな。遺言だと思って叶えてやるのが俺の役目だと思う訳さ」
榊――。
その名を久々に聞いて、佐久間は一人の青年を思い出した。
いや、違う。そもそも今日は彼のことを日下に問いただす為に、この呼び出しに応じたのだ。
それによって面倒なことを頼まれるとわかっていながら。
「確かに新社長を選ぶなら今年が一番なのはわかるが……」
今年は冬季オリンピックとワールドカップという世界を巻き込んだ祭典が合わせて開かれる年であり、日本人の活躍次第でテレビ局の視聴率は天と地ほどの差が生まれる。
それに合わせて試合の再放送や名プレーの総集編の視聴率も上がるため、この年の視聴率はスポーツ放映権を手にしている局が根こそぎかっさらっていく傾向がある。よって日ノ丸テレビのような一般的なテレビ局が年間視聴率でトップに立つことはほとんど不可能となるのが通例だ。
この機会にトップを変え、翌年から新体制で改革を進めていくのは企業戦略として決して悪くない手だった。
が、しかし――。
「このまま行けば副社長との一騎打ちか……」
「そうなるだろうな。ほんっと嫌になるぜ」
日下は茶化した様子で「ったく」と吐き捨てた。
「日ノ丸テレビで一番のキレ者と真っ向勝負だぞ。榊が無茶を言うのは毎度のことだったが、今回の苦労は今までと比べ物にならねぇよ」
心底迷惑そうに。けれど、どこか嬉しそうに。
榊三是への愚痴を並べる日下の姿は、佐久間にはどこか懐かしい。
榊の死から五年。
日ノ丸テレビから彼が消えた影響は計り知れないほど大きかった。
そしてそれは日下にとっても、佐久間にとっても、同じだった。
「思い出すよなぁ。あいつの無茶な注文を現場で叶えるのがお前で。現場以外で叶えるのが俺だった」
「思い出すも何も、俺は一日として忘れたことがない」
「……そうか。まぁ、そうだよな」
小さく呟いた日下は佐久間と目を合わせないまま、すぅっと息を吸った。
「頼みがある佐久間。もう一度、現場に戻ってくれねぇか」
絞り出すように告げられた言葉に、やっときたか――佐久間はそう思った。
実のところ、これが本題だと最初からわかっていたのだ。
だから……カップに残っていたコーヒーを飲み干してから、何と答えたものかと考える。
「一度、断ったはずだが?」
「ああ……。あの時のことは今でもすまねぇと思ってる。視聴率低下に歯止めをかけたい一心でお前に頼ろうとしちまった。お前の考えや想いを察しようともせずにな」
本当に悪かった。
日下はもう一度、頭を下げる。
「だけど今回は違うんだ佐久間。強い日ノ丸テレビを取り戻すために。榊が居た頃の栄光を取り戻すために。もう一度お前の力が必要なんだ」
以前は榊の抜けた穴を塞ぐ後手だった。
しかし今回は、未来への一手だと日下は言う。
榊の無茶難題をなんだかんだと文句を言いながらも全て叶えてきた日下がここまで言うからには、おそらく佐久間には考えもつかない壮大な計画があるのだろう。
その計画には少なからず興味が沸いた。それに榊の最後の願いを叶えようとする日下を助けてやりたいとも思う。
しかし、これだけは言っておかなければならない。
「……俺は、榊隊長にはなれん」
「わかってるさ」――日下は苦笑いを浮かべて、頷いた。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
1
1 / 4
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる