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12 初リピ
しおりを挟む衝撃のお水デビューから1日挟んでの翌々日の夜。蛍の姿は、『nobilis』の待機席にあった。
出勤時の送迎は不要としているので一昨日と同じように電車で来たのだが、今日の蛍は私服での出勤だった。色褪せたオーバーサイズの黒いトレーナーに、グレーのスウェットパンツ、黒のチェストバッグ。トレーナーとスウェットに毛玉が無いのが救いだが、それは母・涼子が、服の新調が出来ないまでもと、せっせと管理をしているからだ。とはいえ、微妙な事には変わりないのだが。
今日は臨時の高給な仕事が見つかった事に安心して、出勤前にちゃんと永〇園のお茶漬けを2杯食べて来た。しかしなんと言う事でしょう。着替えを済ませて待機席に座った時点で、既に小腹が減って来ている。蛍は、長年の節約生活で日頃は少食が身についていたのだが、どういう訳か羽黒王子との出会いの件から急に食欲が開花してしまっていた。
とはいえ、自費で食費を使い過ぎるのは怖いので、家での食事は普段通りに食べたのだが。流石に素そうめんはやめる事にした。あまりに栄養を摂れないと、また貧血を起こして誰かに迷惑をかけてしまうかもしれないと学んだからだ。だからと言って茶漬けではどっこいどっこいな気がするが、上に刻み海苔だの乗っているし出汁の味もするので素そうめんよりは栄養価が高いと蛍は認識している。因みにインスタント茶漬けは1袋あたり12~15kcal。茶碗一杯のご飯で作れば180kcal前後になる。2杯食べれば360kcalは摂取出来る。ひと束を2食に分けて1食80kcalほどの素麺を薄い麺つゆに付けて食事をしていた事を考えれば、カロリーだけ見れば遥かにマシではある。良かったね蛍。
(ちょっぴりお腹すいちゃったなあ)
でも一昨日ほどではないし、昨日も今日もしっかり食べているから貧血で倒れたりはしないだろうが、営業終了までもつかなあ、なんて心細くなる。そんな蛍を、少し間を開けて座っている他のキャスト達。ついさっきの朝礼で改めて新キャストとしての自己紹介をしたのだが、蛍に好意的な視線は少なかった。というのも、蛍があの羽黒の本指をもぎ取ったらしいという噂が、昨日までで既に皆の知るところとなったからだ。店のVIP客であり、SSSクラスのアルファであると言われている羽黒は、『nobilis』のキャスト達の間では人気があり、誰もが喉から手が出るほど欲しい客だった。
それを、ポッと出の新人に掻っ攫われたのだから、面白い筈もなく。現段階での在来キャスト達の蛍に対する視線は、嫉妬と羨望に塗れたものが殆ど、残りが物珍しげに探るようなもの…というところになっているのだった。
今夜の蛍のレンタル衣装は、黒地に花柄の洒落たスーツ。見た目だけは儚げ美形の蛍にそれは良く似合い、ヘアメイクの豪太さんの作り上げたゆる巻きセットと相まって、口が裂けても「ブサイク」などとは言えない仕上がりになっております。それがまた面白くない先輩キャスト達。どんまい。
そうして呑気な蛍だけがその異様な雰囲気に気づかないまま、営業開始の時間を迎えた。
オープンと同時に、客と同伴で出勤してきたキャストが2組。蛍は先輩キャストと一緒にその片方の席のヘルプに着いた。ヘルプとは、担当キャストが席を空けている間、お客様を接待する事だ。今回の場合は、担当キャストが荷物を置き、場合によっては着替えをしてくるまでお客のお酒を作ったり、会話をして場を繋げるのが役割り。
蛍は先輩キャストが水割りを作るのを見ながら一昨日の復習をして、少しずつ業務を覚えようと頑張った。2度目というのと、前回ほど空腹ではない事で少しだけ余裕がある。お客に聞かれた事にもはきはき答えて、いただいたドリンクのジンジャエールを半分ほど飲んだところで、黒服スタッフが蛍を呼びに来た。
「ほたるさん、おめでとうございます。VIPルームに本指名です」
そう大きな声ではなかったのに、ザワつく店内。きっ、と蛍に向けられる、刺すような視線の数々。キョトンとする蛍。だがその表情は、すぐに嬉しそうなものに変わった。
(あっ、王子さま、ホントに来てくれたんだ)
飲んでいたグラスにコースターをのせて、ヘルプに付いていた卓のお客にドリンクの礼を言って立ち上がる。スタッフの後ろについて通路を歩く蛍に、店内あちこちから注がれる視線。まあ、当の蛍は相変わらず気づかずに、スキップでもしそうに跳ねるように歩いて危うく転けそうになっていた。注意力散漫。
しかし嬉しいのだ。初指名おめでとうも嬉しいけれど、小腹が減った今、王子が来てくれたという事がもっと嬉しい。何故なら、王子は約束してくれたから。
『僕の席では何でも好きなものをご馳走様するよ』
と。
ゆえに今の蛍の頭の中には、何を食べさせてもらえるかという期待しかなかった。
「羽黒様、お待たせいたしました。ほたるさんです」
スタッフがVIPルームのドア越しに呼びかけて、中から「どうぞ」と声がした。低く落ち着いた、柔らかい声。
「失礼いたします。ほたるさん、よろしくお願いします」
ドアを開けたスタッフが、蛍を室内へと促した。
「失礼します」
「こんばんは、ほたるくん」
中へ入り、ぺこりとお辞儀をして顔を上げた蛍を迎えたのは、あの優しい羽黒王子の笑顔だった。
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