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11 深夜のお寿司、美味しい
しおりを挟む送迎車は、蛍が住むアパートのすぐ前まで送ってくれた。『nobilis』ではキャストの身の安全にとても気を使っていて、送迎ドライバー達にも「送りは部屋に入ったのを確認するまでが仕事」と教育している。このご時世や店の性質からも、キャストの性別が男性だから大丈夫、とは言えないからだ。
蛍は、アパートの外階段を上がって部屋のドアの鍵穴に鍵を差し込みながら、送迎車に向かって「ありがとうございました」の感謝を込めて手を振った。
「ただいまぁ~」
「おかえりなさい。大丈夫なの?」
「ご覧の通り大丈夫だよ~。それより、こんな時間まで起きてて、母さんこそ大丈夫?寝ててくれて良かったのに」
「寝られる訳ないでしょう」
玄関の鍵の回る音に気づき、急いで出迎えに出てきた母は、寿司折り片手に上機嫌で帰宅した蛍に少し咎めるように言った。
成人済みで社会人でもある息子にあまりうるさく言いたい訳では無いが、蛍は若いオメガだ。時代が変わっても、オメガという性がアルファやベータよりも様々な面でリスクを抱えているのは変わらない。ひょんな事から性別を知られてしまったりすれば、事件事故に巻き込まれる率も高く、だからこそオメガ達は皆、自衛に敏感だ。そうでなくとも、今まで夜遊びひとつした事の無かった息子が急に連絡ひとつ寄越しただけで夜遅くに帰って来たら、心配で気を揉んでしまうのが当たり前だ。無事に帰宅した姿を見るまでは安心なんか出来ない。だからこそまんじりともせず起きて待っていたというのに、当の蛍のこの能天気さは何なのか。
母は溜息を吐きながら、少し強めの口調で言った。
「一体何があったのか説明してくれる?」
「わかったわかった。ちょうどおみやもあるから座ってて。こんな時間だけど、少しは食べられるだろ?お茶入れるよ」
蛍は、畳敷きの床に置いた鞄に脱いだスーツの上着を掛けながら母に言った。蛍の家にはダイニングテーブルなんて物は無いから、座ってと言ったのは、食卓を兼ねた炬燵テーブルの事を指している。そんな呑気なと言いかけた母だったが、とりあえず言葉を飲み込んで座った。しかし持って帰って来たのが、蛍ではひっくり返っても足を踏み入れる事すら出来そうにない高級寿司店の名が入った包み。しかも開けると、これまたずらりと並ぶ高級ネタ。母は一気に不安になった。まさかと思うが、とうとうパパ活に手を…?
いやまさかそんなと言いきれないのは、息子の一生懸命になり過ぎるがゆえに、斜めに暴走ステップを踏んでいく性格をよく知っているからだ。ああ、私の体がこんな風に弱くなければ…。
座っているのによろめきそうになる母・涼子。数年前倒れて以来、まともに働けなくなってしまった彼女は、まだ年若い息子に寄りかかって生きている自分に罪悪感を抱いている。
しかしキッチンで水を入れたケトルをコンロに掛けている蛍はそんな母の様子には気づかないまま話し始めた。
「実はさあ、〇坂にある『nobilis』ってお店に面接に行ったんだけどね」
「〇坂?」
誰もが知る歓楽街の名が蛍の口から出た事に、少し慄く。確かに面接で即採用になったからと連絡は来ていた。とりあえずパパ活ではなさそうだと少し安心。しかし――。
「それ、どういったお店なの?このお寿司、すごく高いお店の持ち帰りよね」
プラスチックや紙製ではない、美しい木目の折り箱。これは吉野杉では?
「親切なお客さんが持たせてくれたんだよぉ」
「お客さん?」
え、面接即採用初勤務の店なら、その親切なお客さんとやらも初対面の人なのでは。そんな人が何故、こんな高価な土産を…。あまりの訝しさに困惑する母。
そんな母の気持ちをよそに、蛍は寿司折りをテーブルの真ん中に置いて、てきぱきとキッチンの食器棚から取り出して来た小皿と箸を母と自分の前に置いた。それからキッチンに戻り、湯が沸騰するのを待って急須に茶を入れる。そしてトレイに載せた2人分の湯のみに茶を注いで、それを持って母の待っている炬燵テーブルに戻った。
「はい、熱いから気をつけてね」
「ありがと」
母と自分の湯のみをそれぞれの前に置いてから、年季の入った自分用の座布団に座る蛍。胡座をかいて座って、(あ~、長い1日だった)と思った。
「今日採用になった nobilis ってお店はさ、んー、なんてのかな… 男の人がお酒を飲みに来るとこなんだけど… 」
「なんだ、クラブとかラウンジなの?キャバクラとか、そういう飲み屋さん?」
寿司折りに付いていた小袋の醤油を開け、小皿に入れながら話し始める蛍。母も同じように醤油を入れながら答える。まあ、当たらずとも遠からずだなと思いながら蛍は返した。
「そうだね、俺はどっちも行った事無いけど、多分そんな感じだと思う」
「そう」
蛍の答えに少し安堵する母。まさか夜の飲食業の方に行くとは意外だったが、あれほど昼職の不採用通知を食らい続けたから、思い切って方向性を変えてみたのかもしれないと納得した。
「良いんじゃない?で、どんな業務?ホールスタッフとか厨房のお手伝い?でも帰りが遅いと心配ね…」
経験としてそういった仕事も良いかもしれないが、やはり気がかりはそこ。しかし蛍は難なく答えた。
「大丈夫だよ。送迎してくれるもん。無料だよ、無料。しかもね、仕事用の衣装の無料レンタルがあって…」
「え?へえ、送迎があるの…まあ、派遣でもそういうとこあるものね。でも、衣装?制服じゃなくて?」
ん?と首を傾げながらそう返すと、蛍は箸で摘んだ鮪に醤油を付けて口に放り込むところだった。それを見て、母もハマチを箸で摘み、醤油を付けて口に運ぶ。咀嚼すると、爽やかな旨みが口の中に広がる。時折買うスーパーの半額寿司とはあきらかに違う美味しさ。
それにしても、ああいう場所の男性スタッフの制服を衣装と言うのだろうか?蛍と同じで夜の世界に馴染みの無かった母にはよくわからなかった。
「ううん、衣装だよ。凄いんだ、色んなブランドのスーツとかがたくさんあって」
「ブランドの、スーツ…?」
何だか雲行きがあやしくなってきた。
「んでね、お客さんの席に呼ばれるんだけど、お酒は飲まなくて良くて、無料でジュースとか飲めるんだよ」
「無料で、ジュースを…」
ここまで聞き、何か思ってたんと違うと思い始める母。経験は無いが、それはアレじゃないのか、男性スタッフではなく、キャバ嬢かホステスさん側?
いやしかし。
先ほど聞いた情報が聞き間違いだったのかも、と思った母は、平静を装って言ってみた。
「ええと…もしかして、ホストクラブなの?女のお客さん相手のお店…?」
しかし、蛍は海老を摘もうとしながらあっけらかんと答えた。
「違うよぉ。さっき言ったじゃん、男の人が飲みに来るお店って。あ、そんでね。俺を呼んでくれた優しいお客さんが居てさ、お腹空いてるなら何でも食べなってたくさん料理頼んでくれて。ほら、このお寿司も。お母さんと二人暮しですって言ったら、一緒に食べなさいって」
「ねえ蛍、アンタ、それって…」
「これからもお店に来たら好きなご飯食べさせてくれるって。カッコいい人だったなあ~」
「……」
以上の蛍の供述から、母は全てを察した。そして思った。
ウチの一人息子、水商売に足突っ込んで来た。
それもどうやらホストではなく、嬢的な何かになってるわ、と。
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