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一橋治済は意知に殺意を持つ若年寄筆頭の酒井忠休に家斉の外祖父である普請奉行の岩本正利を介して連絡(コンタクト)を取る。
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一方、忠休は相変わらず資愛を相手に「怪気炎」を上げ続けていた。余程に意知が憎いと見える。
「あの様な下賤なる者は…、否、それ以前に大名ですらない部屋住の軽輩なれば、本来ならば若年寄には相応しくないのだっ」
忠休は意知への憎しみを敲き付けるかの様にそう吐き捨てたかと思うと、
「この忠休、若年寄でなくば、討果たしてくれようぞっ!」
遂に意知への殺意まで口走ったものだから、これには資愛も流石に慌てて忠休を制した。
「酒井様、些か、お声が高うござりまするぞ…」
資愛は忠休をやんわりと窘めた。
いくら意知がここ納戸口に連なる若年寄専用の下部屋にいないとは言え、外の若年寄は―、加納久堅と米倉昌晴の二人は夫々、己の下部屋にて昼飯を食っていたので、二人の耳に意知への殺意が届く恐れがあった。
それに今は下部屋を出て御殿勘定所において勘定方役人と昼飯を食っている意知当人の耳にまで届く恐れがあった。
若年寄の下部屋から御殿勘定所まではそれ程、離れている訳ではないので、余り大きな声で「怪気炎」を上げられては意知の耳にまで届く恐れがあり得たのだ。
否、それは恐れではなく、現実のものとなった。
即ち、忠休の発した「怪気炎」、もとい意知への殺意は久堅や昌晴の耳には元より、意知耳にまで届いていた。
その意知は勘定方役人と昼飯を食っていたので、勘定方役人の耳にまでその「怪気炎」が届いた訳で、勘定方役人は当の本人とも言うべき意知を前にして流石に反応に困った様子を覗かせた。
一方、意知はそんな困惑する勘定方役人を前にして、心底ウンザリさせられた。
否、忠休の「怪気炎」もとい意知への殺意を耳にしたのは彼等ばかりではなかった。
俗に「下三奉行」とも称せられる作事・普請・小普請の三奉行もまた、忠休のその「怪気炎」を耳にした。
作事・普請・小普請の三奉行もまた、若年寄と同じく老中の「廻り」を終えたならば、下部屋にて昼飯を摂る。
作事・普請・小普請の三奉行の下部屋は若年寄のそれとは異なり、中之口に連なる、とこう書けば作事・普請・小普請の三奉行の下部屋は若年寄のそれとは如何にも離れている様に思われるやも知れぬが実際には壁を一枚隔てた背中合わせであった。
それ故、若年寄の下部屋にて忠休が上げた「怪気炎」は作事・普請・小普請の三奉行の下部屋にまで、もっと言えば、若年寄と同様、そこで昼飯を摂っている最中の彼等三奉行の耳にまで、否でも届いた。
そしてその中には普請奉行の岩本内膳正正利も含まれていた。
岩本正利は昼食後、夕七つ(午後4時頃)まで仕事を済ませた後、下城に及んだ。
岩本正利が勤める普請奉行という役職は実務幕僚の一つに数えられ、それ故に忙しく、勤務が今日の様に夕七つ(午後4時頃)にまで及ぶことも珍しくはなかった。
その岩本正利は本来ならば大手御門外に待たせてある従者を随えて、それも駕籠に揺られながら虎ノ御門内にある屋鋪へと帰るべきところ、今日は従者を皆、先にに虎ノ御門内にある屋鋪へと帰して、単身、一橋家上屋敷へと足を向けた。
岩本正利にとって一橋家上屋敷は娘の富の婚家に当たり、それ故、岩本正利が一橋家上屋敷に出入りしても誰からも、殊に何かと口喧しい家老の水谷勝富からも怪しまれずに済んだ。
今日もそうであり、夕七つ(午後4時頃)過ぎという訪問するには些か遅い刻限ではあったが、一橋の家中は誰もが岩本正利を歓迎した。
当主の治済はとりわけ岩本正利を歓待し、大奥へと案内した。
今時分、岩本正利が供も付けずに単身、訪れたということはきっと、己に何か大事な、もっと言えば有益な話があるに違いないと、治済はそう勘を働かせて、そこで正利を大奥へと案内したのだ。
果たして治済のその勘は正しく、岩本正利より齎された情報に大いに満足させられた。
即ち、岩本正利は治済に対して己が見聞した忠休の「怪気炎」もとい意知への殺意を伝えたのであった。
「左様か…、あの石見がのう…」
治済は顎を撫でながらそう応じた。
「されば…、これは使えるのではござりますまいか?」
正利が口にした、「使える」とは外でもない、意知暗殺計画に利用出来るのではないか、という意味であった。
それは治済も同感であった。
仮に佐野善左衛門に殿中にて意知を討果たさせるとして、その際、意知が外の相役、同僚の若年寄から好かれていたならば、佐野善左衛門が意知を仕留められる可能性は低くなる。
それと言うのも若年寄が殿中を歩く際には基本的に、若年寄一党、つまりは、
「皆で仲良く…」
歩くケースが殆どであり、若年寄が一人で殿中を歩くことは余りない。
無論、皆無とは言わないにしても、その様なケースは余りなかった。
それ故、佐野善左衛門が殿中にて意知を討果たすとして、そこには―、意知の周囲には外の若年寄もいると考えるべきであった。
その際、意知が外の相役、同僚の若年寄から好かれていれば、彼等が佐野善左衛門の「兇刃」を阻むやも知れなかった。
だが逆に意知が同僚の若年寄から嫌われていたならば、佐野善左衛門の「兇刃から意知を守ろうとはしないであろう。
その若年寄の中でも首座と同時に勝手掛をも兼ねる酒井石見守忠休が意知に殺意さえも抱く程に嫌っている…、その事実は佐野善左衛門を使嗾して意知暗殺を企む治済にとっては正に追風であった。
忠休ならば佐野善左衛門の「兇刃」に際会しては―、意知が佐野善左衛門に刃を向けられたとしても、意知をその「兇刃」から守ろうとはせず、それどころか佐野善左衛門を「後押」してくれることさえ期待出来たからだ。
例えば、忠休たち若年寄が揃って殿中を歩いている際に、佐野善左衛門が刃を、それも意知を狙って刃を向けたとして、その際、忠休は意知だけをその場に残し、外の若年寄を―、太田資愛や加納久堅、それに米倉昌晴を引連れて何処ぞの部屋へと避難誘導してくれれば、意知は間違いなく佐野善左衛門に討たれるであろう。
だがその為には「手入」が必要であった。
今のままでは忠休は意知への殺意こそ生じさせたとしても、そこまでであろう。
治済の為に―、治済の手先となって、意知の暗殺を手助けはしてくれまい。
否、このままでは意知への殺意さえも薄れる危険性があり得た。
そこで治済としては忠休に「手入」を行う必要があった。
噛砕いて言えば忠休に、
「呑ませ喰わせ…」
或いはそれ相応の「モノ」を握らせるのである。
そこまでして漸くに忠休も治済の為に働いてくれるものというものである。
「されば至急、石見と…、忠休と繋ぎを取る必要があるのう…」
治済は正利の顔を見ながらそう告げた。
すると正利も治済の視線の意味するところに気付き、
「さればこの正利めが酒井殿に繋ぎを…、上様と酒井殿との仲立ちを勤め申上げまする…」
正利は治済にそう応え、治済を大いに満足させた。否、正利としても元よりそのつもりで―、治済と忠休との仲立ちを勤めるつもりで今日、この一橋家上屋敷へと単身、足を運んだのであった。
その翌日の1月9日、岩本正利はいつもより早目の昼の八つ半(午後3時頃)前に仕事を切上げると、下城し、急ぎ虎ノ御門内にある屋鋪へと帰ると、身支度を整えて、再び外出した。
岩本正利が向かった先は勿論、酒井忠休の上屋敷である。
酒井忠休が住まう上屋敷は大手御門外の下馬之後という一等地にあり、ちなみに辰ノ口北角にある側用人の水野出羽守忠友の上屋敷とは背中合わせ、隣同士であった。
さて、その酒井忠休の上屋敷であるが、門前は閑散としていた。
若年寄の中でも酒井忠休は首座と共に、財政を担う勝手掛をも兼ねており、それ故、
「名実共に…」
若年寄の頂点に位置していた。
そうであるならば門前には今少し、陳情客がいても良い筈であった。
否、それどころか陳情客で溢れ返っていなければならないだろう。
だが実際には門前には誇張ではなしに、誰一人として陳情客の姿は見当たらなかった。
それとは逆に「お隣さん」の水野忠友の上屋敷の門前は陳情客で溢れており、八代洲河岸にまで陳情客が列を成していた。
酒井忠休にとっては真にもって目障りな光景であろうが、岩本正利には幸いであった。酒井忠休に逢うのに待たされずに済むからだ。
実際、岩本正利は直ぐに酒井忠休に逢うことが出来た。
正利は忠休の取次頭取を勤める西田清太夫に己の身分を明かした上で、忠休への取次を頼むや、それ程、待たされることなく奥座敷へと案内されたのであった。
こうして奥座敷にて忠休と正利は向かい合い、双方共に挨拶を交わした。
その際、忠休にはいつもの尊大さは見られなかった。
否、これで相手が一介の旗本であったならば、そしてその旗本が仮に従五位下諸太夫役の普請奉行であったとしても、忠休は尊大に振舞っていたことであろう。仮令、唯一の陳情客であったとしてもだ。
だが岩本正利はただの旗本、普請奉行ではない。その背後には一橋治済が控えているのだ。
岩本正利が娘の富は一橋治済の側妾として治済との間に豊千代をもうけており、しかもその豊千代は成長して今や次期将軍・家斉となっていた。
つまり正利は次期将軍・家斉の外祖父に当たり、これでは如何に忠休が若年寄筆頭と雖も、その様な正利を相手に尊大には振舞えなかった。
それどころか見苦しいまでに鄭重に接した。
「して、内膳正殿、本日の御用向は?」
忠休は挨拶を済ませると実に鄭重にそう切出した。
「されば本日は民部卿様が遣として罷り来しましたる次第…」
正利が治済の使者として参ったからには忠休としても愈々もって、正利を粗略には扱えなかった。
「と申されますと、もしや民部卿様がこの忠休めに何か御用とか?」
忠休はそう勘を働かせた。如何に勘の鈍い、と言うよりは愚鈍な忠休でも、その程度の勘は働かせることが出来る。
それに対して正利は「如何にも」と首肯し、
「されば民部卿様におかせられては近々、酒井様に茶などを一服進ぜたいとの思召しにて…」
忠休にそう告げたのであった。
「何と…、民部卿様が…」
忠休は喜びの余り、声を詰まらせた
それはそうだろう。天下の御三卿から茶に誘われて喜ばぬ者はいない。
ましてや治済は次期将軍・家斉の実父なのである。その治済から茶を誘われるということは、更なる栄達も夢ではないことを示唆していた。
更なる栄達、それは言うまでもなく老中への栄達であった。
若年寄に就いたならば、次は老中を狙うのが普通であり、酒井忠休もその例に洩れない。
殊に酒井忠休は若年寄の中でも筆頭であり、その家禄も2万5千石と老中職に相応しい。老中職は基本、家禄が2万5千石以上の譜代大名から選ばれるからだ。
それも京都所司代や大坂城代、或いは若年寄から老中へと昇進する例が一般的であり、若年寄筆頭たる酒井忠休はその「有資格者」と言えた。
だがその為には―、老中へと昇進する為には将軍の信任も必要であった。
とりわけ若年寄から老中へと昇進する場合がそうだ。
京都所司代や大坂城代は老中の「待機ポスト」という側面があり、それ故、将軍の信任がそれ程なくとも、健康に留意し、要は長生きさえすれば、いずれは黙っていても老中になれる。
だがこれが若年寄だとそうはいかない。若年寄から老中へと昇進するには将軍の信任が不可欠であったからだ。
その為に若年寄から老中へと昇進する例は京都所司代や大坂城代から老中へと昇進する例に較べて圧倒的に少なかった。
さて、そこで酒井忠休だが、忠休は生憎と将軍・家治からそれ程、信任を得ている訳ではなかった。
無論、全く信任されていない訳ではない。全く信任されていなかったならば、若年寄として首座と勝手掛を兼ねることなど出来ないし、それ以前に若年寄にも取立てられなかったであろう。
だが老中へと昇進させてやる程には将軍・家治はそこまで忠休を信任してはおらず、それは忠休とて良く自覚するところであった。
それ故、忠休としては家治が将軍に在職している間は老中への昇進も諦めざるを得ない。
しかし、将軍が家治から家斉へと代替わりしたならばどうだろうか。
家斉は今はまだ次期将軍として西之丸の主故、本丸若年寄の酒井忠休に対しては白紙の状態であった。
だからこそ家斉が晴れて将軍となった暁に、実父・治済より例えば、
「若年寄の酒井忠休だが、中々に見所のある男なので、老中へと昇進させてやれ…」
そうとでも囁かれたならば、家斉も実父・忠休の意見に感化されて、忠休を老中へと昇進させようとするやも知れぬ。
忠休も以前からそう考え、治済に取入ろうかと思っていたところに、とうの治済から岩本正利を介して連絡を取ってきたのだ。
それも一緒に茶を飲みたいと、治済の方から誘ってきたのだ。
忠休にとっては願ってもない、そして、またとない機会―、己を治済へと売込む機会であった。
「ははぁっ…、有難き幸せ…」
忠休は岩本正利を治済に見立てて、そう応じた。
「されば民部卿様におかせられては12日…、明々後日の12日に酒井様に茶を一服進ぜたいとの御意向にて…」
明々後日の12日で構わないかと、正利は忠休に尋ねた。
それに対して忠休には元より異論などあろう筈もなく、「ははぁっ」と応じた。
「されば民部卿様におかせられては御舎兄、越前守様が御屋敷にて…、常盤橋御門内の上屋敷にて酒井様に逢われたいとの思召めしにて…」
「えっ?福井藩の上屋敷にて?」
てっきり一橋家の上屋敷にて治済に逢えると思っていたところ、それが治済が実兄の松平越前守重富が当主を務める福井藩の上屋敷にて逢おうとは、忠休にしてみれば控え目に言って意外であり、正直、落胆した。
「何か、御異存でも?」
忠休は正利よりそう問われたので、「いいえ、滅相もない…」と慌ててそう応じた。
今の忠休としては治済に逢えるだけでも良しとしなければならない。何しろ忠休は己が栄達―、老中職への昇進を治済に頼まねばならぬ立場にいるからだ。面会場所にとやかく口など挟めない。
「されば12日、福井藩の上屋敷にて…」
忠休がそう復唱すると、「刻限は昼の八つ半(午後3時頃)で如何でござりましょうか…」と正利が声を被せた。
若年寄が執務を終え、下城するのは昼八つ(午後2時頃)であり、それから身支度を整えて、福井藩の上屋敷へと足を向けるには成程、昼の八つ半(午後3時頃)はちょうど良い頃合であった。
「されば昼の八つ半(午後3時頃)に…」
忠休はやはりそう復唱した。
「さればその折には御嫡子の大學頭忠崇様も御一緒に…」
正利が思い出した様にそう付加えたので、忠休を大いに驚かせた。
「何と…、この忠休が倅も?」
治済は倅の忠崇にまで逢いたがっているのかと、忠休は驚いたのであった。
「如何にも…、されば民部卿様におかせられては、御若年寄の中でも、とりわけ酒井様をいたく買っておられる御様子にて…、されば折角、酒井様に逢うのならば、御嫡子の大學頭様にも逢おうとの思召しにて…」
正利がそう治済が忠崇にまで逢おうとする理由を告げたことから、忠休を有頂天にさせた。先程、面会場所に不服であったのがまるで嘘の様な豹変ぶりである。
忠休はそれから倅・忠崇に附属する栂野八右衛門に命じて忠崇を連れて来させると、正利に挨拶させた。
正利も忠崇に挨拶を返すと、「卒爾乍…」と切出し、
「大學頭様は確か、未だ、菊間には詰めてはおられませなんだな?」
忠崇に確かめる様に尋ねた。
若年寄の嫡子、それも将軍への御目見得を済ませた成人嫡子は菊間に詰めることになる。
忠崇も既に将軍・家治への御目見得を済ませており、本来ならば菊間に詰めて然るべきであったが、しかし、未だに詰められずにいた。
当人である忠崇は元より、父である忠休もそのことを気にしていた。はっきり言ってコンプレックスに感じていたので、正利からその点を指摘されて、忠休も忠崇も気分を害した。
尤も、忠休も忠崇も平静さを装い、正利のその不快な問い掛けに対しても、忠崇は「如何にも」と平然とした様子で応えた。
「されば如何でござりましょう…、大學頭様だけでも先に…、福井藩上屋敷にて民部卿様が御舎兄の越前守様に逢われてましては…」
未だ菊間に詰めてはいないということは、裏を返せば暇ということであり、それならば明日にでも福井藩の上屋敷へと参り、重富に逢ってはどうかと、正利は忠崇をそう誘っていたのだ。
これには忠崇も驚き、「それは…、越前守様が御意向にて?」と正利に確かめる様に尋ねた。
重富が真、己と逢いたがっているのかどうか、それを確かめないことには忠崇としても迂闊に福井藩の上屋敷へと足を向ける訳にはゆかない。
重富が真は己と逢いたがってはおらず、そうとも知らずに福井藩の上屋敷へと足を向けたは良いものの、門前払いでもされたら、とんだ笑い者であるからだ。
正利も忠崇のその気持ちは分かっていたので、
「されば越前守様におかせられても真、酒井様が御嫡子の大學頭様に逢いたいとの思召しにて…、越前守様が御舎弟の民部卿様よりそう伺っております故…」
正利がそう請合ったことから忠崇も漸くに正利の話を信じ、するとこれまた、今しがた、正利から菊間詰でないことを指摘されて不快となったのが嘘の様な豹変ぶりを示した。
即ち、忠崇は有頂天となったのだ。感情がコロコロと変わるのは酒井家の血筋なのやも知れなかった。
「されば明日にでも早速に福井藩の上屋敷へと…」
忠崇がそう応ずると、正利も「されば刻限につきましてはいつにても…」と返した。
いつ訪ずれても構わないと、それが重富の意向であると、正利は忠崇に示唆したのであった。
「あの様な下賤なる者は…、否、それ以前に大名ですらない部屋住の軽輩なれば、本来ならば若年寄には相応しくないのだっ」
忠休は意知への憎しみを敲き付けるかの様にそう吐き捨てたかと思うと、
「この忠休、若年寄でなくば、討果たしてくれようぞっ!」
遂に意知への殺意まで口走ったものだから、これには資愛も流石に慌てて忠休を制した。
「酒井様、些か、お声が高うござりまするぞ…」
資愛は忠休をやんわりと窘めた。
いくら意知がここ納戸口に連なる若年寄専用の下部屋にいないとは言え、外の若年寄は―、加納久堅と米倉昌晴の二人は夫々、己の下部屋にて昼飯を食っていたので、二人の耳に意知への殺意が届く恐れがあった。
それに今は下部屋を出て御殿勘定所において勘定方役人と昼飯を食っている意知当人の耳にまで届く恐れがあった。
若年寄の下部屋から御殿勘定所まではそれ程、離れている訳ではないので、余り大きな声で「怪気炎」を上げられては意知の耳にまで届く恐れがあり得たのだ。
否、それは恐れではなく、現実のものとなった。
即ち、忠休の発した「怪気炎」、もとい意知への殺意は久堅や昌晴の耳には元より、意知耳にまで届いていた。
その意知は勘定方役人と昼飯を食っていたので、勘定方役人の耳にまでその「怪気炎」が届いた訳で、勘定方役人は当の本人とも言うべき意知を前にして流石に反応に困った様子を覗かせた。
一方、意知はそんな困惑する勘定方役人を前にして、心底ウンザリさせられた。
否、忠休の「怪気炎」もとい意知への殺意を耳にしたのは彼等ばかりではなかった。
俗に「下三奉行」とも称せられる作事・普請・小普請の三奉行もまた、忠休のその「怪気炎」を耳にした。
作事・普請・小普請の三奉行もまた、若年寄と同じく老中の「廻り」を終えたならば、下部屋にて昼飯を摂る。
作事・普請・小普請の三奉行の下部屋は若年寄のそれとは異なり、中之口に連なる、とこう書けば作事・普請・小普請の三奉行の下部屋は若年寄のそれとは如何にも離れている様に思われるやも知れぬが実際には壁を一枚隔てた背中合わせであった。
それ故、若年寄の下部屋にて忠休が上げた「怪気炎」は作事・普請・小普請の三奉行の下部屋にまで、もっと言えば、若年寄と同様、そこで昼飯を摂っている最中の彼等三奉行の耳にまで、否でも届いた。
そしてその中には普請奉行の岩本内膳正正利も含まれていた。
岩本正利は昼食後、夕七つ(午後4時頃)まで仕事を済ませた後、下城に及んだ。
岩本正利が勤める普請奉行という役職は実務幕僚の一つに数えられ、それ故に忙しく、勤務が今日の様に夕七つ(午後4時頃)にまで及ぶことも珍しくはなかった。
その岩本正利は本来ならば大手御門外に待たせてある従者を随えて、それも駕籠に揺られながら虎ノ御門内にある屋鋪へと帰るべきところ、今日は従者を皆、先にに虎ノ御門内にある屋鋪へと帰して、単身、一橋家上屋敷へと足を向けた。
岩本正利にとって一橋家上屋敷は娘の富の婚家に当たり、それ故、岩本正利が一橋家上屋敷に出入りしても誰からも、殊に何かと口喧しい家老の水谷勝富からも怪しまれずに済んだ。
今日もそうであり、夕七つ(午後4時頃)過ぎという訪問するには些か遅い刻限ではあったが、一橋の家中は誰もが岩本正利を歓迎した。
当主の治済はとりわけ岩本正利を歓待し、大奥へと案内した。
今時分、岩本正利が供も付けずに単身、訪れたということはきっと、己に何か大事な、もっと言えば有益な話があるに違いないと、治済はそう勘を働かせて、そこで正利を大奥へと案内したのだ。
果たして治済のその勘は正しく、岩本正利より齎された情報に大いに満足させられた。
即ち、岩本正利は治済に対して己が見聞した忠休の「怪気炎」もとい意知への殺意を伝えたのであった。
「左様か…、あの石見がのう…」
治済は顎を撫でながらそう応じた。
「されば…、これは使えるのではござりますまいか?」
正利が口にした、「使える」とは外でもない、意知暗殺計画に利用出来るのではないか、という意味であった。
それは治済も同感であった。
仮に佐野善左衛門に殿中にて意知を討果たさせるとして、その際、意知が外の相役、同僚の若年寄から好かれていたならば、佐野善左衛門が意知を仕留められる可能性は低くなる。
それと言うのも若年寄が殿中を歩く際には基本的に、若年寄一党、つまりは、
「皆で仲良く…」
歩くケースが殆どであり、若年寄が一人で殿中を歩くことは余りない。
無論、皆無とは言わないにしても、その様なケースは余りなかった。
それ故、佐野善左衛門が殿中にて意知を討果たすとして、そこには―、意知の周囲には外の若年寄もいると考えるべきであった。
その際、意知が外の相役、同僚の若年寄から好かれていれば、彼等が佐野善左衛門の「兇刃」を阻むやも知れなかった。
だが逆に意知が同僚の若年寄から嫌われていたならば、佐野善左衛門の「兇刃から意知を守ろうとはしないであろう。
その若年寄の中でも首座と同時に勝手掛をも兼ねる酒井石見守忠休が意知に殺意さえも抱く程に嫌っている…、その事実は佐野善左衛門を使嗾して意知暗殺を企む治済にとっては正に追風であった。
忠休ならば佐野善左衛門の「兇刃」に際会しては―、意知が佐野善左衛門に刃を向けられたとしても、意知をその「兇刃」から守ろうとはせず、それどころか佐野善左衛門を「後押」してくれることさえ期待出来たからだ。
例えば、忠休たち若年寄が揃って殿中を歩いている際に、佐野善左衛門が刃を、それも意知を狙って刃を向けたとして、その際、忠休は意知だけをその場に残し、外の若年寄を―、太田資愛や加納久堅、それに米倉昌晴を引連れて何処ぞの部屋へと避難誘導してくれれば、意知は間違いなく佐野善左衛門に討たれるであろう。
だがその為には「手入」が必要であった。
今のままでは忠休は意知への殺意こそ生じさせたとしても、そこまでであろう。
治済の為に―、治済の手先となって、意知の暗殺を手助けはしてくれまい。
否、このままでは意知への殺意さえも薄れる危険性があり得た。
そこで治済としては忠休に「手入」を行う必要があった。
噛砕いて言えば忠休に、
「呑ませ喰わせ…」
或いはそれ相応の「モノ」を握らせるのである。
そこまでして漸くに忠休も治済の為に働いてくれるものというものである。
「されば至急、石見と…、忠休と繋ぎを取る必要があるのう…」
治済は正利の顔を見ながらそう告げた。
すると正利も治済の視線の意味するところに気付き、
「さればこの正利めが酒井殿に繋ぎを…、上様と酒井殿との仲立ちを勤め申上げまする…」
正利は治済にそう応え、治済を大いに満足させた。否、正利としても元よりそのつもりで―、治済と忠休との仲立ちを勤めるつもりで今日、この一橋家上屋敷へと単身、足を運んだのであった。
その翌日の1月9日、岩本正利はいつもより早目の昼の八つ半(午後3時頃)前に仕事を切上げると、下城し、急ぎ虎ノ御門内にある屋鋪へと帰ると、身支度を整えて、再び外出した。
岩本正利が向かった先は勿論、酒井忠休の上屋敷である。
酒井忠休が住まう上屋敷は大手御門外の下馬之後という一等地にあり、ちなみに辰ノ口北角にある側用人の水野出羽守忠友の上屋敷とは背中合わせ、隣同士であった。
さて、その酒井忠休の上屋敷であるが、門前は閑散としていた。
若年寄の中でも酒井忠休は首座と共に、財政を担う勝手掛をも兼ねており、それ故、
「名実共に…」
若年寄の頂点に位置していた。
そうであるならば門前には今少し、陳情客がいても良い筈であった。
否、それどころか陳情客で溢れ返っていなければならないだろう。
だが実際には門前には誇張ではなしに、誰一人として陳情客の姿は見当たらなかった。
それとは逆に「お隣さん」の水野忠友の上屋敷の門前は陳情客で溢れており、八代洲河岸にまで陳情客が列を成していた。
酒井忠休にとっては真にもって目障りな光景であろうが、岩本正利には幸いであった。酒井忠休に逢うのに待たされずに済むからだ。
実際、岩本正利は直ぐに酒井忠休に逢うことが出来た。
正利は忠休の取次頭取を勤める西田清太夫に己の身分を明かした上で、忠休への取次を頼むや、それ程、待たされることなく奥座敷へと案内されたのであった。
こうして奥座敷にて忠休と正利は向かい合い、双方共に挨拶を交わした。
その際、忠休にはいつもの尊大さは見られなかった。
否、これで相手が一介の旗本であったならば、そしてその旗本が仮に従五位下諸太夫役の普請奉行であったとしても、忠休は尊大に振舞っていたことであろう。仮令、唯一の陳情客であったとしてもだ。
だが岩本正利はただの旗本、普請奉行ではない。その背後には一橋治済が控えているのだ。
岩本正利が娘の富は一橋治済の側妾として治済との間に豊千代をもうけており、しかもその豊千代は成長して今や次期将軍・家斉となっていた。
つまり正利は次期将軍・家斉の外祖父に当たり、これでは如何に忠休が若年寄筆頭と雖も、その様な正利を相手に尊大には振舞えなかった。
それどころか見苦しいまでに鄭重に接した。
「して、内膳正殿、本日の御用向は?」
忠休は挨拶を済ませると実に鄭重にそう切出した。
「されば本日は民部卿様が遣として罷り来しましたる次第…」
正利が治済の使者として参ったからには忠休としても愈々もって、正利を粗略には扱えなかった。
「と申されますと、もしや民部卿様がこの忠休めに何か御用とか?」
忠休はそう勘を働かせた。如何に勘の鈍い、と言うよりは愚鈍な忠休でも、その程度の勘は働かせることが出来る。
それに対して正利は「如何にも」と首肯し、
「されば民部卿様におかせられては近々、酒井様に茶などを一服進ぜたいとの思召しにて…」
忠休にそう告げたのであった。
「何と…、民部卿様が…」
忠休は喜びの余り、声を詰まらせた
それはそうだろう。天下の御三卿から茶に誘われて喜ばぬ者はいない。
ましてや治済は次期将軍・家斉の実父なのである。その治済から茶を誘われるということは、更なる栄達も夢ではないことを示唆していた。
更なる栄達、それは言うまでもなく老中への栄達であった。
若年寄に就いたならば、次は老中を狙うのが普通であり、酒井忠休もその例に洩れない。
殊に酒井忠休は若年寄の中でも筆頭であり、その家禄も2万5千石と老中職に相応しい。老中職は基本、家禄が2万5千石以上の譜代大名から選ばれるからだ。
それも京都所司代や大坂城代、或いは若年寄から老中へと昇進する例が一般的であり、若年寄筆頭たる酒井忠休はその「有資格者」と言えた。
だがその為には―、老中へと昇進する為には将軍の信任も必要であった。
とりわけ若年寄から老中へと昇進する場合がそうだ。
京都所司代や大坂城代は老中の「待機ポスト」という側面があり、それ故、将軍の信任がそれ程なくとも、健康に留意し、要は長生きさえすれば、いずれは黙っていても老中になれる。
だがこれが若年寄だとそうはいかない。若年寄から老中へと昇進するには将軍の信任が不可欠であったからだ。
その為に若年寄から老中へと昇進する例は京都所司代や大坂城代から老中へと昇進する例に較べて圧倒的に少なかった。
さて、そこで酒井忠休だが、忠休は生憎と将軍・家治からそれ程、信任を得ている訳ではなかった。
無論、全く信任されていない訳ではない。全く信任されていなかったならば、若年寄として首座と勝手掛を兼ねることなど出来ないし、それ以前に若年寄にも取立てられなかったであろう。
だが老中へと昇進させてやる程には将軍・家治はそこまで忠休を信任してはおらず、それは忠休とて良く自覚するところであった。
それ故、忠休としては家治が将軍に在職している間は老中への昇進も諦めざるを得ない。
しかし、将軍が家治から家斉へと代替わりしたならばどうだろうか。
家斉は今はまだ次期将軍として西之丸の主故、本丸若年寄の酒井忠休に対しては白紙の状態であった。
だからこそ家斉が晴れて将軍となった暁に、実父・治済より例えば、
「若年寄の酒井忠休だが、中々に見所のある男なので、老中へと昇進させてやれ…」
そうとでも囁かれたならば、家斉も実父・忠休の意見に感化されて、忠休を老中へと昇進させようとするやも知れぬ。
忠休も以前からそう考え、治済に取入ろうかと思っていたところに、とうの治済から岩本正利を介して連絡を取ってきたのだ。
それも一緒に茶を飲みたいと、治済の方から誘ってきたのだ。
忠休にとっては願ってもない、そして、またとない機会―、己を治済へと売込む機会であった。
「ははぁっ…、有難き幸せ…」
忠休は岩本正利を治済に見立てて、そう応じた。
「されば民部卿様におかせられては12日…、明々後日の12日に酒井様に茶を一服進ぜたいとの御意向にて…」
明々後日の12日で構わないかと、正利は忠休に尋ねた。
それに対して忠休には元より異論などあろう筈もなく、「ははぁっ」と応じた。
「されば民部卿様におかせられては御舎兄、越前守様が御屋敷にて…、常盤橋御門内の上屋敷にて酒井様に逢われたいとの思召めしにて…」
「えっ?福井藩の上屋敷にて?」
てっきり一橋家の上屋敷にて治済に逢えると思っていたところ、それが治済が実兄の松平越前守重富が当主を務める福井藩の上屋敷にて逢おうとは、忠休にしてみれば控え目に言って意外であり、正直、落胆した。
「何か、御異存でも?」
忠休は正利よりそう問われたので、「いいえ、滅相もない…」と慌ててそう応じた。
今の忠休としては治済に逢えるだけでも良しとしなければならない。何しろ忠休は己が栄達―、老中職への昇進を治済に頼まねばならぬ立場にいるからだ。面会場所にとやかく口など挟めない。
「されば12日、福井藩の上屋敷にて…」
忠休がそう復唱すると、「刻限は昼の八つ半(午後3時頃)で如何でござりましょうか…」と正利が声を被せた。
若年寄が執務を終え、下城するのは昼八つ(午後2時頃)であり、それから身支度を整えて、福井藩の上屋敷へと足を向けるには成程、昼の八つ半(午後3時頃)はちょうど良い頃合であった。
「されば昼の八つ半(午後3時頃)に…」
忠休はやはりそう復唱した。
「さればその折には御嫡子の大學頭忠崇様も御一緒に…」
正利が思い出した様にそう付加えたので、忠休を大いに驚かせた。
「何と…、この忠休が倅も?」
治済は倅の忠崇にまで逢いたがっているのかと、忠休は驚いたのであった。
「如何にも…、されば民部卿様におかせられては、御若年寄の中でも、とりわけ酒井様をいたく買っておられる御様子にて…、されば折角、酒井様に逢うのならば、御嫡子の大學頭様にも逢おうとの思召しにて…」
正利がそう治済が忠崇にまで逢おうとする理由を告げたことから、忠休を有頂天にさせた。先程、面会場所に不服であったのがまるで嘘の様な豹変ぶりである。
忠休はそれから倅・忠崇に附属する栂野八右衛門に命じて忠崇を連れて来させると、正利に挨拶させた。
正利も忠崇に挨拶を返すと、「卒爾乍…」と切出し、
「大學頭様は確か、未だ、菊間には詰めてはおられませなんだな?」
忠崇に確かめる様に尋ねた。
若年寄の嫡子、それも将軍への御目見得を済ませた成人嫡子は菊間に詰めることになる。
忠崇も既に将軍・家治への御目見得を済ませており、本来ならば菊間に詰めて然るべきであったが、しかし、未だに詰められずにいた。
当人である忠崇は元より、父である忠休もそのことを気にしていた。はっきり言ってコンプレックスに感じていたので、正利からその点を指摘されて、忠休も忠崇も気分を害した。
尤も、忠休も忠崇も平静さを装い、正利のその不快な問い掛けに対しても、忠崇は「如何にも」と平然とした様子で応えた。
「されば如何でござりましょう…、大學頭様だけでも先に…、福井藩上屋敷にて民部卿様が御舎兄の越前守様に逢われてましては…」
未だ菊間に詰めてはいないということは、裏を返せば暇ということであり、それならば明日にでも福井藩の上屋敷へと参り、重富に逢ってはどうかと、正利は忠崇をそう誘っていたのだ。
これには忠崇も驚き、「それは…、越前守様が御意向にて?」と正利に確かめる様に尋ねた。
重富が真、己と逢いたがっているのかどうか、それを確かめないことには忠崇としても迂闊に福井藩の上屋敷へと足を向ける訳にはゆかない。
重富が真は己と逢いたがってはおらず、そうとも知らずに福井藩の上屋敷へと足を向けたは良いものの、門前払いでもされたら、とんだ笑い者であるからだ。
正利も忠崇のその気持ちは分かっていたので、
「されば越前守様におかせられても真、酒井様が御嫡子の大學頭様に逢いたいとの思召しにて…、越前守様が御舎弟の民部卿様よりそう伺っております故…」
正利がそう請合ったことから忠崇も漸くに正利の話を信じ、するとこれまた、今しがた、正利から菊間詰でないことを指摘されて不快となったのが嘘の様な豹変ぶりを示した。
即ち、忠崇は有頂天となったのだ。感情がコロコロと変わるのは酒井家の血筋なのやも知れなかった。
「されば明日にでも早速に福井藩の上屋敷へと…」
忠崇がそう応ずると、正利も「されば刻限につきましてはいつにても…」と返した。
いつ訪ずれても構わないと、それが重富の意向であると、正利は忠崇に示唆したのであった。
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